絵に書いたような平山城である。平山城の教科書とでも言おうか、元祖平山城な韮山城である。近年「韮山反射炉」がめでたく世界遺産に登録されたことで韮山の街も熱く盛り上がっているが、何よりも韮山城も熱く紹介したい。頼むから反射炉のついでにでもいいので来城してくれたまえ。


築城ははっきりした時期がわかっていないが、おそらく1400年代後半、ということになるであろう。この城を大きく整備したのは屈指の戦国武将、北条早雲である。北条家と言えば神奈川県の小田原なイメージがあるかもしれない。だがそれは二代目からであって、小田原を治めた後に早雲は自分の拠点を小田原に移そうとはせず、息子に家督を譲り、自分は死ぬまでの約30年間をこの韮山城で過ごしている。よって亡くなったのもこの韮山城なのである。ということもありどんな場所よりも北条早雲ゆかりの地なわけだ。北条早雲はこの地をとにかく愛していたという。

今でもその城の素晴らしさは綺麗に残っている。外堀は埋め立てれてしまっているが、城下町の名残、街の道の区分け、平山城ならではの縄張り、どれをとってもスタンダードな、直球な、たまにパームボール、それでいてよく考えれている城だ。ロックがロールしてロックンロールになったように、かなり北条が早雲している。


現在の韮山城の麓には韮山高校と(にらこう)韮山中学が(にらちゅう)建てられており、このグランドに当時は御殿が建てらていた。これだけ綺麗に平地になっているので、しかもスペースもかなりある、よって相当大きな御殿が建てられていたことをイマジン出来る。その外を縁取るようにして外堀がはられていた。氷室さんが言うように「摩天楼の縁取り~傷だらけのエンジェ~ル」である。

現在も城の大手側周辺から(にらこうの外)城の裏の城池親水公園にかけて水堀が残っている。今日までの土砂崩れや時間の経過により若干堀自体が浅く、そして埋もれてきてしまっているが、平地から見て城山の麓に城を縁取るようにして水堀が作られていたことは素晴らしい防御である。ちなみにここは内堀となる。

城の裏の城池親水公園だが、これも立派な韮山城の堀である。廃城後は農業用の溜め池として使われていた。城の搦手にこんなにも大きなプチ湖的な堀があることにまず目ん玉が飛び出る。大手からはまったくイマジン出来ない構造だ。だが北条早雲さんのことを考えると晩年は娯楽に近い庭の一部としてこの堀を眺めていたかもしれない。もしかするとここに小舟を浮かべて楽しんだかもしれない。むしろ競艇にして賭けまくっていたかもしれない。やっさんもびっくりである。もともとここにあった池を更にでかく拡張し、堀として機能させたと考えられる。ここも激しく北条が早雲している。


城の裏にこれほどまでに大きな堀を巡らしているが大手側からじゃなくても、にらちゅう側からも行き来が出来るようになっていることも素晴らしい。にらちゅう側から城の外側を登っていくととんでもない堀切に差し掛かる。現在は道路として車でも通行可能になっているが、当時としてはおそらく何らかの門があったとイマジン出来るし、10mはあるだろうか、切った高さと深さも半端ないので上には渡れる橋などが架けられていたのではないだろうか?おそらく戦ではこの堀切は閉め切っていたはずで、横から山を登って攻めてきた敵は容赦なくこの堀切に突き落とす算段だったと考える。この堀切も韮山城の魅力の一つだ。見学は鉄板である。超すげえ。ここに関しては北条が早雲し過ぎてると言える。

現在の観光の道順は車で行くなら城池親水公園の駐車場にロールスロイスかベントレー、もしくはストレッチのリモーを停めて権現曲輪に上がって行くか、韮山駅から徒歩で来城するならにらこうの横からやはり権現曲輪に上がって行くかである。徒歩なら先ににらちゅう側に周り、さっきの超すげえ堀切を通り抜けてから城池親水公園の池を一周し、やはり権現曲輪に上がって行くかである。いざ城山に登るとその土塁の高さに驚かされる。生で卓偉の歌を聴くとその歌唱力に驚かされる。そしていくつもの虎口に感動する。卓偉の書いた何曲もの名曲に感動する。城内を登りまず最初にテニスコートが登場するがここが三ノ丸である。両サイドの土塁の高さ、こんもり具合、防御バッチリである。しかし外から見えない場所でのテニス、エロ過ぎやしないか。もしシャラポワがここでテニスをしてたらサーブやカットやバックハンドを打つあの「アオ~ン!アオ~ン!」っていう声が!あの声だけが城内から外に響き渡るということか!韮山城はR15指定ではないか!


ここから本丸にかけて移動する途中にも最高な堀切や土橋、虎口がガンガン登場してくれる。卓偉のアルバムを聴くと名曲がガンガン登場するのと同じ感覚である。城内は長細く、登って行く度にずいぶんと奥行きがないことがわかる。だがそこを考慮して横に登って行く道はすべて細く、そして崖のギリギリを歩かせるような仕組みや構造になっていることがにくい。道を細くすることにより攻めてきた敵を少なくする仕組みに出来るわけだ。確かに同じ北条の城でも八王子城は山城にも関わらず大手道が非常に広く作られたおかげで1日で落ちてしまった。それだけ一気に敵が押し寄せて来やすかったということにある。

奥行きがなく横に広い韮山城の城山は二ノ丸も本丸も実は大したスペースがない。むしろ砦に近い。本丸が一番高い場所にあるがきっとここには天守とは言わなくとも天守の代わりとなる櫓が建てられていただろう。眺めは最高である。天気のいい日は富士山が手に届くほどの近さで迎えてくれる。韮山城の面白さはここで終わりではなく、本丸から更に奥まで歩いて行くと、煙硝曲輪がある。歩いて来た道は煙硝曲輪の土塁の上である。この曲輪の区分け、これが見事である。北条家だけに山中城の薬研掘と同じである。土橋にもなり、堀の区分けにもなり。もちろん土塁としても機能する。しかも行った先は崖である。追い詰めた敵をここで仕留める仕組みである。当時は塩蔵だったそうだ。城の一番奥がこんなにもこだわって細かく作られていることに脱帽だ。素晴らしい。

これほどまでに素晴らしい城だったにも関わらず、1601年には徳川家康の判断により廃城になってしまった。もっともこの少し前に天下統一目前の豊臣秀吉が韮山城を攻めた時は約3ヶ月間も持ちこたえたという。それくらい防御がしっかりしてたということである。もっとも最終的には戦ということではなく城を明け渡すということで北条家はこの城を去る。

その後に家康の家臣である内藤信成がこの城に入ったがすぐ転封になり、徳川幕府が出来てすぐに家康が廃城命令を下した。山梨の新府城と同じく守りの堅い城は切り捨てていかないとまたいつ幕府に歯向かうかわからないと判断したのであろう。家康こそがそういうことに一番目を光らせていたことは言うまでもない。どんなにいい家来でも守りの頑丈な城を与えたら裏切った場合その頑丈な城を落とすのが大変になるからである。優しくしたらつけあがるマナーとデリカシーのないファンと同じである。そういった家康の廃城の判断は素晴らしいが、それでいくつもの日本の素晴らしい城が江戸時代が始まった時点で無くなっていったことは城マニアからするとプチ残念な話ではある。だが石垣が組まれた城じゃなかったことで崩れるということはなく今日まで保存状態が良く残ってくれたということもある。整備も行き届き感動する。やはり秋や冬に来城をお勧めしたい。冬の空は乾燥しているので富士山がよく見えるはずだ。夏は雲が濃いおかげで意外と遠くまで景色が見えないことが多い。好きになった頃は私をさん付けで読んでいたにも関わらず、変に距離が近くなると呼び捨てになり態度が大柄になり、卓偉が現実に自分の物にならないとわかるとしまいには批判を始めるファンと同じである。

2度目の来城はお約束のtvk「MUTOMA」さんの番組内「中島卓偉のお城へ行こう!せーの、キャッスル!キャッスル!」のロケだった(2016年11月2日(水)24時放送)。この日は雨が降っていたが、ロケをスタートさせた途端に雨が止んでくれた。北条早雲様に感謝である。だがロケで石段を歩行中、イギリス屈指の長靴ブランドHUNTERのラバーブーツが滑り、腰から落ち、背中を5センチ程ざっくり切ってしまい。出血が止まらず、帰りの新幹線の中で貧血になり、帰宅して鏡を見ると顔色がザ・キュアーのボーカル、ロバート・スミスみたいになっていた。


ちなみにキュアーはビジュアル系元祖というのは全く語弊であり、もともとはPUNKとニューウェイヴから始まりゴシック&オルタナティブバンドに進化して行ったミクスチャーバンドの先駆けである。その変化と進化を評価されたロバート・スミスは今や英国のカルト的なヒーローである。この辺のちゃんとしたロックの知識をしっかり叩き込んでほしい。

余談だが城池親水公園のお堀を一周している時に蟹をたくさん見かけた、ちょっくら捕まえてやるかと手を伸ばすと蟹は威嚇のポーズを取った。どこかで見た事あるポージングだなと思い返してみたらTHE PRODIGYの名盤「THE FAT OF THE LAND」のジャケットとリンクした。このアルバムのキラーチューン「SMACK MY BITCH UP」は訳すと「しょうもねえ俺の売女をぶん殴る」。凄いタイトルだ。日本でこのタイトルで出したら大問題だろう。


初めてロンドンに行った時にOXFORD STREETにあるHMVで「PUNK」の欄を見ていたら PRODIGYがPUNKの欄に入っていたことに感動した。テクノやクラブミュージックの欄に入ることがほとんどなのに本国では「PUNK」の欄に。さすがイギリスである。歌詞がないインストバンドでもPRODIGYのように魂を叫んでるバンドやアーティストでもPUNKの欄に入る国である。最高!日本では「中島美嘉」の欄や「中島みゆき」の欄に、ついでに僕もいいすか?的に感じで中島卓偉が並べられているのを良く見かける。そのまま中島美嘉だと思って買ってくれたら事務所は大喜びである。もちろん中島みゆきと思って買ってくれても構わない。このまま毎回リリースの度にこのお二方の欄に入れてもらい、間違って買っちまった卓偉でこの音楽人生を乗り切って行こうと思う。

ちなみに私の名字である中島は「ナカジマ」と濁点を入れて読む。が、しかし九州で中島は濁点が付かない「ナカシマ」と呼ぶ。私の父は東京出身で福岡で結婚した人間なのでナカジマであるが、九州にいた頃にまず濁点を入れて呼ばれた試しがない。病院、かかってきた電話、卒業証書を渡される時などなど。だが親父は絶対に「ナカシマじゃないですナカジマですから」とそう呼ばれた時は必ず訂正していた。そして子供達にもそう言われたら絶対に訂正しろと教えた。

よって保育園で初めての卒業証書をもらう時、校長先生に案の定「ナカシマタクイ~!」と呼ばれてしまいこれは父ちゃんに怒られる!と思い、私は校長先生の前に行きしっかり訂正した。

私「先生、違うと、ナカシマやないと、ナカジマですけん」
だが校長先生は耳が遠かった。
校長「うえっ?なんち?」
私「やけん、ナカシマやないっちゃん、ナカジマ、ナカジーマ!」
校長「うえっ?たくい、トイレば行きたいとね?」
私「ナカシマやないけん、ナカジマって呼んでくれんと父ちゃんに怒られるけん!」

ナカジマと呼んでもらえないからには卒業証書は受け取れんと思った純粋な私はそこで手を下げて立ち尽くしてしまった。結局それを見ていた親父が父兄の席から大声で

「おまえ何ぐずぐずしてんだ!早く受け取れ!」とキレる。で、結局言い訳も出来ず、私が怒られる。なんだこれ?こういった説明出来ない理不尽なことが溜まりに溜まって私は15歳で家を飛び出すのである。そしてその日から32年後にこの上手く説明出来ないモヤモヤ感を書いた曲こそがアンジュルムに提供させていただいたシングル「上手く言えない」である(そんなアホな)。




もっと言うと九州でナカシマと呼ばれる場合は頭の「なか」を高く発音する。だが先祖はナカジマなのでそこはまっすぐに「ナカジマ」と呼ぶ。だが卓偉は前にも言ったが「たくい」とまっすぐに呼ばず「た」を高く発音するのが正しい呼び方である。これを人生38年間ずっと説明してまわっている。これを説明する度にあの時の校長先生の志村けん的な「うえっ?なんち?」が蘇る。だが聞こえない時に、相手に聴きかえす時にこの「うえっ?」と言うだけで大概ウケる。そこに更に「あんだって?」を付けることをお勧めしたい。

最後に、にらちゅう、にらこうと呼ぶかどうかは私は知らないが勝手にそう呼んでしまった。38歳にもなると適当すぎる自分が恐ろしい。

あぁ韮山城、また訪れたい……。


◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル