【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第55回「府内城(大分県)卓偉が行ったことある回数 4回」

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岡城に続き、もう一発大分県の城を紹介したい。九州に平城は少ない方だがこの府内城は典型的な平城だ。四国香川県の高松城と同じように府内城は「海城」だったのである。今は埋め立てられてその姿を想像することは困難だが(私には見える、イマジンで全然見える)、もし埋め立てがここまで進められていなければ府内城も高松城と同じように海城の評価が高まったと思う。城の海側、山里曲輪跡のすぐ裏まで海水を引いていたのだ。堀も基本的に海水を引いた堀である。本州からも四国からも船でいろんな荷物を受けることで荷下ろしの船着き場が機能し、港としても栄えた。荷下ろし、荷落とし、その響きを嫌った初代城主の福原直高が「荷揚げ」と呼ぶように命じ、最初は荷揚城と呼ばれていた。築城は1597年、福原直高が城の下地を作り、関ヶ原以降に入城した竹中重利が大改修を行った。竹中氏の頃に外堀も広がり、4層5重の天守も建てられたという。江戸時代後期まで天守がそびえていたが火事により焼失。その後は再建されない江戸時代にあるあるパターンである。天守のデータがそれなりに残っているので復元も可能かとは思うが、なかなか天守復元の話は進まないそうだ。卓偉のファンも卓偉をとにかく口コミで広げようとは思わないようだ。


当時は23基の櫓が存在した。そう考えるだけでも海城としてもかなりの大きさだったことがわかる。海城となるとどうしても高松城や今治城などと比べてしまうがそれらの城よりも全然規模は大きい。そこに4層の天守がそびえていたわけだから威嚇としてのインパクトも相当なものだっただろう。港に船が入るにあたって、陸にそんな城が待っていたら。考えるだけでキング・クリムゾンのアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」のジャケットを初めて見た時の恐怖感と同じだ。当然現在のように高い建物は天守以外ないわけだし、瀬戸内海を抜けた後に府内城方面に漕いだ船はすぐ天守を見つけられたであろう。城と港が一緒になっているというのがまさに荷揚城と言える。私の考え方だが、海城と言えば、海に対して平城であることが絶対だと思う。海に面した丘や山に建てた城は、どんなに船着き場があったり港が設けられていてもそこはやっぱり平山城だ。平戸城、玖島城、萩城、なども海に面しているがやはり作りは平山城だ。海城の条件は、堀に海水を引く。船着き場がある。平地に建てて典型的な平城と言える作りにする、だ。高円寺に住んでてPUNKSをやる条件は、ライダースとモッズパーカーを買う。チペワのエンジニアブーツと10ホールのドクターマーチンを買う。フレッドペリーのポロシャツを着てブラックスリムを履く。これでそれなり、だ。


そもそもこの天守。天守自体の大きさはどれほどだったかはわからないが結構でかかったはずだ。天守台の石垣の高さもかなりある。よってこの上に建てられていたことをイマジンすると、しかも4層5重、現在まで残っていたら九州一の天守だったかもしれない。天守台もおそらく隣りにあった小天守と多門で繋がっていた構造になっていることがわかる。言わば連結式天守、名古屋城の天守と小天守のそれと同じ作りだ。多門で繋がった先の櫓を小天守と言ったかどうかはわからないが、この繋がっていただろう多門の石垣も実に味がある。天守に登る石段も当時は多門の中に存在した石段だとわかる。その素晴らしさにイマジンすればするほど残念な気持ちになる。熊本城天守も素晴らしいが熊本城の天守台はそこまで高さがない。同じく明治時代に西南戦争で燃えてしまっている。府内城天守がもし火事で燃えていなかったら、そんなことを考えてしまうのは城マニアの私だけではないはず。結局は第二次世界大戦の空襲で昭和まで現存した櫓や門も沢山焼失してしまった。火事で燃えずに昭和まで来ても空襲で駄目だったか、切ない。そんな府内城で現存している櫓が二つある。一つは本丸北西隅にある人質櫓。もう一つは西丸にある宗門櫓である。人質櫓はその名の通り人質を閉じ込めておく櫓だったそうな。戦国時代や江戸時代はこの人質というフレーズが多く使われる。島根県の津和野城にも(この城もいつか紹介したい)本丸の天守台のすぐ裏に人質曲輪が存在する。しかも本丸から階段で行き来出来ない作りになっていて、子供ながらかなり怖い印象を受けた。まさに「クリムゾン・キングの宮殿」な印象だった。

宗門櫓は外の堀から見ると1階建てだが、城内から見ると2階建ての作りとなっている面白い櫓だ。その他にも廊下橋、大手門、いくつかの櫓が見事に復元されている。廊下橋は屋根付きの橋なので非常に珍しい橋である。しかも木造復元、最高だ!本丸を目指しこの橋を渡りながら左手に見えた小天守と天守閣の眺めも最高だったであろう。


埋め立てが半端ない府内城であるが、現在の広々とした本丸も実は埋め立てられている。大手門を潜るとセンターに天守台が見えるが、大手門から天守に向かうまでこの平地にもう一つ最後の堀が存在したのだ。そしてその堀のコーナーには櫓が存在したのだ。今は跡形もない平地だが、当時の本丸はここまで広くはなかった。消された堀と石垣、櫓と塀が存在したことをイマジンしてほしい。(どうしても私には見える)どうしてもこの広さ全部が本丸だったこと勘違いしてしまうが、実はそうじゃなかったということなのである。世の中、勘違いが一番きつい。ニューウェーヴやグラムロックなメイクのつもりでも化粧してるというだけでビジュアル系に勘違いされてしまうくらいきつい。

駿府城も本丸の最後の堀が埋め立てられてどこに天守台があったかがわからない。近年はそういった埋め立てをもう一度見直そうという動きもあるようだ。私のファンも昔好きじゃなかった卓偉の曲を聴き直し今聴くといい曲だと今頃気付くという動きもあるようだ。埋め立ての見直しだが石垣まで撤去されたとなるとなかなか難しいかもしれない。明治になり、城が廃城になったり売却されていく中で、平城の本丸や二ノ丸の平地としての面積を利用し埋め立てが進み、学校や軍事施設に変貌を遂げた。歴史を抹消しようとする動きだったとも言える。交通の便を良くする為に、道路や線路を造るにあたって、城の敷地内を止むを得ず埋め立てなきゃならないこともあっただろう。だが、結局、近年になってそういう埋め立てを見直そうということになってるということは、その当時の軍事権力が行き過ぎたやり方だったと言えるのだ。歴史は過ぎ去った事実としてしっかり残していくべきだと思う。死んだ後に評価が高まる後付け天才パターンにならないように卓偉のことも伝えていかきゃだと思う。このフレーズ、なんて粋なフレーズなんだ。卓偉の中でそう自分で言い切ってしまう動きがあるようだ。


もう一つ埋め立てられた場所、だが良く見るとまだ面影を見ることが出来る場所を紹介したい。山里曲輪である。現在は松栄神社が建てられている場所だ。ここの周りをよく見てほしい。まだしっかりと石垣の歯が道路から顔を出しているのがわかると思う。松栄神社の裏にパーキングがあるが、このパーキングと神社の境界がまさしく石垣で区切られているのだ。石垣の高さが低く感じるのは今立ってる駐車場が堀だったからであり、もっと高い石垣がここにあったということである。というか今のこの周辺の道路がもっと低い場所にあった、と言えるかもしれない。(現在の道路が当時より高い位置にある)マニアはこういう石垣を見逃さないのである。卓偉は音楽マニアにすら見つけられずに見逃されっぱないしだというのに。


食もお伝えしたい。大分の名物と言えば「とりてん」だ。唐揚げではなく鶏を揚げる風習がある。人生4回目の府内城は前回のコラムで紹介した岡城ロケの朝だった。府内城を見て岡城へ移動したのだ。岡城ロケ終わりのタイミングでとりてん屋に直行。今までもライブで来た時もとりてんは食べなかった気がする。非常に美味かった。とりてんしか出さない店なのに、しかもテイクアウトのレジの場所に並んでいるのに、店員さんは私を見るなり「とりてんですか?」と聞く。とりてんの他に何があんだよ!と突っ込みたくなるが、割とこういう店員さんはどんな店にも多い気がする。

六本木に今はない青森ラーメン専門店があり、暖簾を潜ると新聞を読んでいた店主が「え?ラーメン?」と言う。この店主の親父はいつも「え?ラーメン?」と言うのであった。ラーメンの他に何があんだよ!

高円寺に今はもうない古着と新品を両方販売する帽子屋があって、そこは帽子の修理もやってくれる店だったのだが、帽子を買う度に、修理をする度に店長は「あれ~?お兄さん、帽子好き?」を連発していた。好きだから店に来てんだよ。帽子屋に帽子好き?と聞かれるこのシュールさ。「帽子の他にも色々見てってね~」と言うが店には帽子しかなかった。他に何があんだよ!

恵比寿にあった今はもうないたこ焼き屋の店主も、いつも窓を閉め切っていて、覗くと必ず奥にいるのはわかるのだが、「すいませ~ん」と声をかけると「たこ焼き?で、いいのかな?」と言う。たこ焼きの他に何があんだよ!しかもなんだよ「で、いいのかな?」って。支払いをしてたこ焼きを受け取ると店主の親父は必ず言う。「割り箸とか持ってってね~」見る限りそこには割り箸しかない。「とか」ってなんだよ「とか」って。

最後に。2004年「VIVA ROCK」という誰も知らない最高のアルバムを引っさげてのツアーで大分ライブをした時、ステージから見て右奥に恐ろしいほどのスレンダーな美人のお客が二人おり、メンバー、スタッフ共々、テンション上がりまくり。私もなんでこんな人が私のファンなんだ?と思うくらいのナイスプロポーション、ナイスコケティッシュだった。だが私はピンの照明を常に食らっているのでぼやけてしか見えなかったのも事実。だが美人オーラが凄かったのは私にもわかった。そんな思い出話をこの時のツアーも一緒に廻ってくれて、今も協力してくれるスーパーベーシストの鈴木賢二くんと、スーパードラマーの安東ボンヂー祐介くんに話してみたら二人とも

「覚えてないなあ」「覚えてへんわ~」

を連発。だからさ!あの時のさ!大分にさ!いたじゃない?すげえ美人の二人が!

「マジで思い出せないな~」「そんなべっぴんおったかな~?」

と二人。

幽霊好きの賢二くんが言った。

「卓偉くん、本当は違うのが見えてたんじゃないの?」

口が喋るボンヂーは言った。

「その二人って叶姉妹やったんちゃう?」

もう全てなかったことにしてしまおうと思う。

あぁ府内城 また訪れたい……。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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