【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第58回「岸和田城(大阪府)卓偉が行ったことある回数 2回」

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イマジンしてほしい、岸和田と言う街に1597年から1800年代後半の幕末まで、東西は約400m、南北は約650mの巨大な海に面した平城が存在したのだ。今残る岸和田城はそれの10分の1くらいだろうか。天守は5層5階、岡山城と同じくらいの天守がそびえていた。1645年に書かれた絵図には天守閣の壁に立派な腰板が貼られているのが見て取れる。残念ながら1827年に落雷で焼失(このパターン多過ぎる)幕府に天守再建を求めたが、どういったわけか再建はされずそのまま幕末を向え、最後の城主であり13代続いた岡部氏は東京に移り住むこととなり、幕末に岸和田城は廃城となる。大阪にこれほどの城があったことを大阪人は誰も知らない。大阪城も徳川の城なのに関白秀吉さんの城だと思い込んでる大阪人がほとんどである(いずれ大阪城も詳しく書きたいと思っている)。岸和田城。歴史がちゃんと伝わっていれば日本を代表する最高な城の評価が取れたはずだ。城マニアとして、ガチの城を紹介していくことをモットーにしてこのコラムを書いてきたが、やっぱり愛を持って真実を伝えたい気になってもきてる。このままじゃいかんと思うわけだ。ガチじゃない城は紹介せんでもいいかと思っていたが、元はどんな城もちゃんとガチだったのにも関わらず、明治以降の歴史の継承の中で権力と共に塗り替えられてしまったという事実。これでは城が可哀想だ。卓偉にしょうもない城と判断されたらこのコラムで紹介出来ない城になってしまう。それはやめてくれ!という城の声が各地から私の耳だけに聞こえるようになってきた昨今、本当はこうだった、みんな昔は悪(ワル)だった、いやみんな昔はガチだった、そういう話をしておきたいのだ。ディスってるわけじゃない、それはわかってほしい。違うことは違うと愛を持って伝えたい、それだけなのである。歴史に復興と模擬はやってはいかん、もう一度真実に戻してもいいではないか。やり直してもいいではないか。「人生はつくづく甘い物だと私は思う。それは何度でもやり直しがきくということにある」~中島卓偉 YES,MY WAYより~


現在の岸和田城の天守は城マニアが認めない「復興天守」である。現在は3層3階、当時は5層5階、昔の方がでかかったってなんだこれ?しかも絵図もしっかり残っていたのにも関わらず、だ。最低でも外観復元くらいいけたはずなのに、だ。昭和29年に天守を鉄筋コンクリートで復興するにあたり、当時も木造建築じゃないと建てさせないという反対の声があったにも関わらず、結局復興天守が建てられてしまう。300年近く続いた岸和田城の天守とまったく縁もゆかりもない、デザインもまったく似てもいない天守が建てられたのである。私から言わせれば模擬天守と同じだ。小学生の頃初めて来たとき、親父は言った。

「こういうことをするのが一番駄目だ、だから外国の観光客からバカにされるんだ、外観は城なのに中は何でオフィスみたいなんだ?ってな」

親父は大学で英語の助教授をしており、外国人の教授達との日本の歴史の話の中で本当によくこう言われたらしい。だが子供ながらに城その物は素晴らしい造りだと感じた。当時は街中はもちろん、城内にも岸和田出身のスーパースターのポスターがどこを見ても貼ってあったことを覚えている。


建ってもなかったデザインの天守を現代に街のシンボルとして建ててしまう、それは客寄せの意味もあるのだろうが、そういう天守や建造物が日本に多過ぎるのだ。特に昭和30年代にそういう建築が増えてしまい、今、はっきり言ってこういう歴史と関係のない天守が問題になっている。2020年に2度目の東京オリンピックを控えた今、こういう歴史の伝え方は本当にいかん。もし自分が海外旅行をして、観光地の建物が復興や模擬だとしたら絶対に見学などしない。かと言ってこの天守が岸和田のシンボルとなっているのも事実、城マニアとして苦しいところである。何度も言わせてもらうがこれはディスってるんじゃないのだ。GIMME ME SOME TRUTHなだけなのだ。わかりやすい例えを言うと、私はよくブリッティッシュの音楽やファッションは認めるがアメリカの文化やファッションは認めない、みたいな言い方をしてると思われるが違うのだ。そんなことは言ってない。もっとよく私の発言の全部をしっかりと読んでほしい。アメリカナイズされ過ぎてる日本人のステレオタイプの考え方や受け入れ方をディスってるだけであり、別にアメリカをディスってるわけじゃない。「そういうもの」と思い簡単に受け入れてしまっては駄目なこともあるのだ。歴史は特にそうだ。ここすげえ大事だから。頼むぜ。岸和田城をディスってるわけじゃないのだ、歴史の間違った伝わり方に物を申す、これだけである。

現在も石垣、堀などの当時から残るものがたくさんある。残念ながら天守と同じように復興で建てられた門や狭間や塀もある。イマジンはなかなか難しいと思うが、先に宣言してしまえば、とにかく素晴らしい縄張りの、海に面した素晴らしい平城だったことをお伝えしたい。卓偉を聴かずに、ライブにも来ずに生きているのは人生生きてる意味がないことをお伝えしたい。外車は全部左ハンドルじゃないことをお伝えしたい。アメリカはアイルランド人が大西洋を渡り独立して創った国だとお伝えしたい。カントリーはアメリカ独自の音楽じゃない、アイルランド民謡から来たスケールを使ったアイルランド人がアメリカ大陸に渡って鳴らした音楽を言うのだ。それを知らないアメリカ人も多過ぎるのだ。私はこのコラムを通じて城はもちろん音楽のルーツも含め、何よりも真実の歴史をお伝えしたいのだ!うわ~!ちきしょ~!


小出氏、松平氏が現在の城の地盤を築き、岡部氏が13代に渡って守り発展した城、岸和田城である。最初は二ノ丸が本丸だったとのことで、藩主が居住した二の丸御殿も存在した。二ノ丸の下は海だったとのこと。ここに三層のこれまたかなりでかい伏見櫓があり、これは伏見城から移築したものと伝わっている。当時城には約15棟の櫓と門が存在した。縦にも横にも長い堀が巡らされ、東西南北すべてに4つの大手門が構えられ、いくつもの橋が架けられていた。そのすべてが総石垣だったのである。伝わらんか!このスケール!うわ~!ちきしょ~!現在の本丸には犬走りが良く残されている。角度も正方形ではなく若干の不等辺な形をしており、建築のこだわりが垣間みれる。私が岸和田城で一番好きな場所は本丸の裏にある犬走りへ降りれる石段である。現在は通行止め、なんでや!?見学させんかい!海が近く海水を堀に引いていたことから堀を船が行き来したり、香川県高松城のように城主がたまに堀を泳いだりする為にこの犬走りまで降りれるような石段が作られたと思いきや、単純に二ノ曲輪に渡れる為の橋の跡なのである。1800年代の絵図にはその橋が描かれていない。もしかすると防御的に本丸の入り口を二つにすることを途中でやめたのかもしれない。私のファンも卓偉の布教活動を途中からやめたのかもしれない、いや、始めから広める気などないのかもしれない。家老中家屋敷跡付近から本丸を眺めるとその橋の為に作られた石段が本当に美しい。割と水面ギリギリを渡らせる橋だったことがわかる。要は本丸の裏から家老中家屋敷に渡れる橋だったのである。2度目に来城した時、観光バス旅行者の集団を仕切るナビゲーターの方が、「あの石段は犬走りを行く為に作られたわけです~」とかなんとか抜かしてやがったが違うのだ。確かに家来が見張りの為に犬走りに降りることもあっただろうが、基本は橋の跡である。ここは是非本丸の外から見学してほしい。

城も明治維新の後に街の開発で堀を埋め立てられたり、建造物を取り壊されたりしてしまったが、近隣の道を細かく見て歩くといろんな場所に石垣が残っているのがわかる。マンションの裏に隠れていたり、民家の後ろの段がそうだったり、駐車場が曲輪の跡だったりとそれがわかるだけで城の規模が見えてくる。チラ見せがたまらない、でもこれに気付くには上級者じゃないと無理か。卓偉ってこの音楽業界にいるの?たまに噂は聞くんだけど本当に活動してんの?あれ?今ラジオでかかってたのって卓偉?あ?違うの?ジャスティン・ティンバーレイク?ああそう?くらいのマニアックなチラ見せなので気付くのは難しいかもしれない。いや、でもイマジンして是非感じてほしいと思う。ブルース・リーが言う通りまさに「Don't Think! Feel……。」である。世の中にはむしろ逆に「Don't Feel! Think……。 」な人間が多過ぎると私は思う。おまえは感じてないでもっと考えて行動せんかいって奴な。


そしてもうひとつ好きな場所をお伝えすると、本丸の入り口を抜けると右にも左にも行けるようになっている。目の前が石垣の壁になるのだ。敵を分散させる方法なのだが、外堀から数えると本丸で堀は4つ目。その本丸まで攻め入ってきてもこういう仕掛けがまだあることが実ににくい。脱がしても脱がしても下着にたどり着かない女である。普通に観光しても一瞬、あれ?どっちに歩けばいいのかな?という気にさせてくれるのだ。卓偉のアルバム「BEAT&LOOSE」と「煉瓦の家」はセットだということを知った時に、あれ?どっちを買えばいいのかな?と思った場合はどっちも買えばいいんじゃないかな?

天守の中に当時の岸和田城のちゃんとした復元模型が展示されているのでこれは鉄板で見てほしい。全然今と違うやんけ!と思うと思う。むしろじゃあ今なんでこんなんなん?って思ってほしいなあ。誰がこうしてもうたん?って声を大にして岸和田の街を行進してほしいなあ。「人生はつくづく甘い物だと私は思う。それは何度でもやり直しがきくということにある」~中島卓偉 YES,MY WAYより~

昭和18年、終戦目前に大阪府史跡に指定されたまでは良かった。だがそれ以降に本丸の後付けの庭の整備や復興と言う名の模擬天守や門の建築で歴史がおかしく伝わってしまったのだ。昭和29年の石垣修復のモノクロ写真などが残っているのだが、石垣だけで、天守台だけで、十分素晴らしかったはずだ、そのままにしてほしかった、そのままで歴史を伝えてほしかった、最低でも建てるなら1645年に描かれた岸和田城絵図の天守をせめて外観復元で建ててほしかった。今の天守を誰が建てようとして誰がデザインしたか知らない、当時もいろいろと話し合いが行われたと思う。でも無かったものを建てるほどここに住んだ城主に対して失礼なことはないと思うのだ。それはやってはいかんだろうと復元を断念してる城もたくさんあるのだ。その決断をされた方々に拍手と敬意を送りたい。歴史を絶対に見直すべきだ。西郷隆盛も源頼朝も伝えられてきた顔と絵は全然違うということになってしまっている。安易すぎるだろジャパン!自分の国の歴史やぞ!これほどまでに素晴らしかったのに、城マニアや歴史マニアは本当に悔しいのだ。残っていれば岡山城、広島城と同じくらいの天守だったという事実。まがい物はいらない、もう一度石垣だけに戻してもどの城にも引けを取らない最高の城にしてあげたい。権力者、誰か私の岸和田城に対する愛に溢れた想いを汲んでくれ。「人生はつくづく甘い物だと私は思う。それは何度でもやり直しがきくということにある」~中島卓偉 YES,MY WAYより~

余談だがデビューして3年目くらいだっただろうか?神戸駅の新幹線の改札を出ようとバゲージとギターを抱えて切符を入れようとすると、あっち側から先に切符を入れられてしまい通れなくなった。すると入って来た超でかい男が

「おらあ!クソガキどかんかい!」と私を一喝。見るとそのスーパースターだった。スーパースターも荷物が多く、改札を抜けるのに一苦労されていたので、こっち側に来た切符を取って「すんませんでした」と言って渡したら、

「なんやおまえ?えらい気のきく奴やのう!」とスーパースター。私が切符を出すのにモタモタしていたのがいけなかったのでスーパースターは悪くないのだ。

それから約12年後、麻布十番で愛車のミニ・ケンジントンを路駐して、外で電話していたら、

「うわ!めちゃピカピカやんけ!うわ!めちゃ小さ!これ兄ちゃんの車?これわし乗れへんのちゃう?いや小さ過ぎて乗られへんわ~でもええな、ピッカピカやな~!大切にしてんねんなあ、ほなな~!」と声をかけてきたのはまたしてもそのスーパースターだった。取り巻きを大勢連れ、かなり酔われていたようだ。オーラもその振る舞い方もやはり、スーパースターそのものだった。子供の頃からそのスーパースターにたくさんの勇気をもらった。

2度目に来城したのは今年(2017年)3月の大阪キャンペーンの空き時間だった。電車を乗り継ぎ、岸和田駅で下車し、城まで歩いた。復興は残念だが実に良く出来た城だと再確認した。そしてスーパースターのポスターがどこにもない岸和田の街を寂しく思った。

人生はつくづく甘い物だと私は思っている。それは何度でもやり直しがきくということにある。

スーパースターも岸和田城も。

あぁ 岸和田城、また訪れたい……。



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