【インタビュー】J、ソロ始動前夜を語る「とんでもない存在になりたいと思っていた」

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■今のシーンと絶対に違うと思うのは
■他とかぶったら負けっていう時代で

──ライヴハウスに初めて行ったときの心境を覚えてますか? 当時はけっこう怖いイメージじゃなかったですか。

J:当時はすごかったよね。気軽に行けるようなところではなかったから。もっと言うと、ロックショップも昔は怖くなかった? ラフォーレ原宿のところの交差点の向かいに、地下に入って行く店があったでしょ?

──オーッ、それはもしかして原宿プラザ。何店ものロックショップが入ってた地下のショッピングモール。懐かしい、そんなとこへも行ってたんですか!?

J:そう、細い階段で地下に入って行くと、もう出てこれないんじゃないかという、迷路状態のような。

──しかも店員が親しげなのに、変なオーラを放ってた。それで絶対に「彼氏さぁ〜」って話し掛けてきましたよ。

J:そうでしたっけ(笑)。でも鋲がすごく付いたリストバンドとかさ、缶バッチとか。見たこともないTシャツとか。大音量で音楽を流しててさ。店に入るのにこっちが「すいません」みたいに恐縮しちゃって、店員が「何か?」みたいな(笑)。

──もちろん手に汗でしょ、緊張しちゃって。

J:ははは(笑)。何だったんでしょうね、あのムードは。あと原宿駅前には、まだテント村(駅前広場に幾つものロック専門店がテントで店を出してた)もあったし。当時の店員さんはみんなカッコ良かったよね。後でよくよく聞いたら、バンドの人とかだったんだよね、店員さんが。ライヴハウスもすごく緊張感ある時代で。そういうムードも含めて、やっぱ刺激的だった。日常とは違う世界に触れて、自分の居場所がある感じもしたし。ライヴハウスにも行くようになって、“チケットが取れないバンドもあるんだ”とか、“バンドっていうのはこうやって有名になっていくんだ”とか知って。バンドが大きくなっていくプロセスもちょっと知った気がしたし、どうやったらこういうライヴハウスに出れるだろうみたいな思いも出てきたし。

──それがLUNACYの活動につながっていったんですか?

J:他のメンバーより先に知識を得ていたから、いろんな話をメンバーにしてたかな。“日本にもこういうシーンがあるんだよ”とかね。

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──このインタビューを読んでいる方は、その後のLUNACYやLUNA SEAについてはよく知っていると思うんですよ。町田プレイハウスをホームグラウンドに活動をスタートさせて、都内でもライヴをやろうと思ったものの、目黒鹿鳴館のオーディションに落ちてとか(笑)。

J:未だに受かってないと思うよ(笑)。遠藤さん(当時の店長)に合否を聞いてみたい。

──それで目黒にある別のライヴハウスで黒服限定ギグをやってみたり、LUNACYは初期からいろんな仕掛けをしてましたね。

J:メンバーと話していく中で、自分達の個性みたいなものは絶対的に必要だと思ってたからね。今のシーンと絶対に違うと思うのは、他とかぶったら負けっていう時代で。本当にカッコいいバンドしか残っていかないし、そういう人達の真似をしていては残れない時代だったから。自分達なりのやり方を見つけることが絶対に必要だと思っていたよ。コンセプトじゃないけど、自分達の在り方を、誰に何て言われようが確立しないと、存在出来なかったし、上り詰めていけないだろうなって。

──はい。

J:例えば黒服限定なんてドレスコードを作ることは、観てもらう立場の俺達が、お客さんを限定してしまうってことで。その後ろにある意味っていうか、ただ単純にカッコだけで“黒服限定ギグ”って打ち立てたところで成立しないというかさ。それぐらい“誰もが観たい”と思うバンドにならなきゃいけないわけで。それがある意味、町田でずっとやってきた理由のひとつでもあるんだよ。当然、すぐにでも都心に出てど真ん中で勝負したかったけど、当時、みんなで話したのは“ここで何も起こせてないバンドが、都心に出て何か起きるのか。何も起こせるわけねーよ”って。“ここで何かを起こしたバンドだったら、都心でも何か起きるだろう”って。町田と都心の距離感が分かる人だったら、このニュアンスが伝わると思うんだけど。町田は都心からちょっと離れてたからね。

──ニューヨークにおけるニュージャージーみたいな。イギリスにおけるロンドンとバーミンガムみたいな。

J:そういう感じなのかな。急行電車に30分ぐらい乗らないと都心には着かないし。そういう町田で何かが起こったときは、本当にとんでもないことが起こせるだろうって。

──虎視眈々と機会を狙ってたわけですか?

J:何かを起こすんだって気持ちがものすごかった。演奏もそうだし、ライヴのクオリティもそうだし、ライヴの魅せ方もそうだし。どうやったら、何か起こせるのかって。自分達自身を追い込んでた。だから結果的に鹿鳴館のオーディションに受からなかったのも良かったんだよ。もし受かっていたら今はないかもね。オーデションに落ちて、“今に見てろ”とすごく思ったから。

──なかなか都心に来なかったので、1990年冬に、横浜7thアベニューまで観に行ったから。

J:ああ、そうだ。会場が人でパンパンのね。

──あれがまた衝撃的で。1980年代と1990年代のバンドと分けてはいけないだろうけど、それまでのメタルの流れを汲むバンドとはまるで違ったから。衣装もメイクも曲も。異端児だった。

J:そう、いかに異端であるか、みたいなのはあったかな。背景にはUKの音楽とかモードやファッションのシーンとか、それを自分達で学び取って消化した表現の仕方というか。当然、ハードロックやメタルも好きだったけど、それを体現してきたのはシーンの先輩達だから。そこに並ぼうと思ったら、かなりのツワモノじゃないとね。Xもすでにライヴハウスシーンの頂点で暴れまわっていて、とんでもない動員記録も打ち立てていたし、バンドとしての存在感がとてつもなかったでしょ。流れを起こすことのすごさ、そのエネルギーに、誰もが吸い寄せられていった感じがすごくする。そういうものを間近で見させてもらってたからさ、余計に自分達はどうあるべきかってことを考えたよ。そういう意味ではシーンからいい影響を受けて、化学反応もさせてもらっていたと思うな。ライヴハウスで他と対バンするときも、カッコいいバンドになるためには個性を打ち出し、そして自分達独自の世界観を出さなきゃいけないんだってね。

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