【連載】フルカワユタカはこう語った 第17回『悪人』
冒頭にいきなりこんなことを書くのもなんですが、2マンイベントって難しいのかしらね。いよいよ開催が迫ったBenthamとの新宿ロフト、絶賛苦戦中(笑)。いつだかゴッチとかクレバさんとかがこの類いのツイートしてた気がしますが、まさにアレですわ。今はフェスが多くて、ストーリーのない2マンとかは価値が薄く感じちゃうのかしらね。Benthamの楽曲やアレンジは田上節が炸裂していて、ドーパン好きな人は終始ニヤけるよ。特に『WE IN MUSIC』(※2004年発表/DOPING PANDAのインディーズアルバム) 好きにはたまらんはずです。宣言している「GO THE DISTANCE」 (※2002年発表/トリビュート盤『DIVE INTO DISNEY』収録) も最初で最後だからね。6月4日新宿ロフト「play with ~with newest B~」メイニア諸君の集合を、心底待ってます。
◆フルカワユタカ 画像
語弊もあるし、両親にも申し訳ないのだが、僕は進学したかったわけではなく東京に住むために大学受験した。プロミュージシャンになるには東京に出なければならないと思っていたが、裸一貫で事を始める“自信”も“つもり”も毛頭なく、進学を口実に親の援助を受けながら東京に進出するという選択肢を比較的迷いなく選んだ。今となってみれば、当時の自分の根性のなさと女々しさに思う所はある。あの時、ギター片手にポケットの中の夢 (オーディションのチラシ的なやつね) だけを握りしめて上京してたら、僕はもっと凄いヤツになっていたのだろうか。いや、なってないわね、きっと。
実際のところ、当時僕は周りのバンド仲間には自分が大学生だという (ましてや国立の理系大学に行っている) ことは隠していた。“大卒のパンクロッカー”なんて“清純派セクシー女優”くらい矛盾しているように感じて、なんだか恥ずかしかったのだ。Descendentsのボーカルが理系の博士号 (マイロ・オーカーマン=生化学) をもっていたり、WEEZERのリバースがハーバード大だったりすることが、冗談みたいな話、密かに心の支えになっていた。なんとも面倒くさいが。
とはいえ、結果的に“親の援助を受けつつ上京”というロックンローラーには激甘な選択は間違いではなかった。
僕の入った調布の大学は当時“Gメガ=ジーパンに眼鏡” (ジーパンなら”J”ではないのか?) と地元民に揶揄される (バイトをしていた居酒屋の先輩が教えてくれた) 地味なオタク男子が通う理系大学だった。そのオタク大学の軽音部で僕は一学年先輩のタロティーと出会う。クラスにも一応友達は出来たが、所詮学びたい事があって選んだ学び舎ではなかったので、ほどなくして授業をサボるようになり、僕は部室に入り浸るようになった。大学には他に、ジャズ研、フォークソング部、シンセデザイン研究会という音楽サークルがあったが、ジャズ研は当然ジャズだとして、残り2つは20年前よろしく、ヴィジュアル系にジュディマリ、イエモン、ミスチル、スピッツ、たまにかかる洋楽もMR.BIGにEXTREMEと、時にはアニメソングまで流れていて、RANCID、NOFX、ハイスタ、“最低でも”レッチリやRage Against the Machineが流れている軽音楽部の部室は僕に東京に出て来た意義を十二分に感じさせてくれた。
入部からほどなくして、「高校の同級生とやっているバンドにギターがいないから弾いて欲しい」とタロティーに誘われた。確かドラムが慶応か早稲田の大学生でボーカルが2浪の浪人生だったと記憶している。よみうりランド辺りのスタジオで数回練習したが、結局ボーカルは受験が忙しくて一度も現れず、ドラムも学業に専念というか、そもそもそんなにやりたくなかったのか、その数回きりでカットアウトした。
2人になってしまった僕らは、軽音楽部の先輩で3年生の堤さんという人をドラムに誘った。その時のバンド名は“サイケデリックゴリラ”。レッチリのチャド・スミスのあだ名からとったバンド名だったが、しばらくして“トロピカルゴリラ”というバンドと“ゴリラ被り”していることが発覚すると、改名を余儀なくされ、ゴルゴ13をランダムに開き、当てずっぽうに指さした文字で決めるという“矢島工務店”的なやり方で“ドーピング”と“パンダ”を組み合わせた名前にすることが決まった。まさかそのままの名でZeppツアーをする事になるとは思いもせずに。
当時のうちの軽音楽部は案外優秀で、他にFULL GAINというバンドがいて、BACK DROP BOMBもリリースしていたメガフォースというレーベルからインディーズデビューを果たしていたり、5個上の (理系の大学なので6年生~8年生は結構普通にいた) 牢名主のようなルックスの小出さんという先輩はRUDE BONESというジャパニーズ・スカパンクの先駆け的バンドでギターを弾き、<AIR JAM '98>にも出演していた。
実際、堤さんが叩いていたのは2年くらいだったと思う。彼はドーパンがインディーズデビューする直前に脱退した。当時、小出さんの紹介で僕たちはスキャフルキングも所属していたファランクスというレーベルからのリリースがまとまりかけていた。そんな時期に堤さんは「バンドで食べていく気なんてない。その為に大学に入ったわけではない」と言い放って、バンドをやめた。部室の奥に堤さんがいて「じゃあもういいです」と僕が部室から出て行ったのを鮮明に覚えている。
大学2年生の時、僕は、三鷹の実家から出て一人暮らしを始めた堤さんの家に毎晩遊びに行っていた。お茶目で、優しくて、異常に腕相撲が強いのだが、酔っぱらうと殺したいほど面倒くさくて、僕はよく堤さんと喧嘩した。他の部員の誰よりも喧嘩をした。だけど、年上なのに向こうから仲直りをしてくるし、大好きな先輩だった。
ドーパンが遊びの域を超え出して、HAWAIIAN6やジュニモン (Jr.MONSTER)、ストンピン (STOMPIN' BIRD) などとライブをするようになる頃、僕と堤さんの喧嘩の質が変わった。ドラムの練習をしてくれないし、対バンと仲良くなってくれないし、他のドラマーの悪口を言うし。その都度ぶつかりプライベートも険悪になって、最終的には、堤さんが「ドーパンなんてやりたくてやってるわけじゃない」としか言えないように僕は議論を操作し、そして彼は実際そう言って、バンドを辞めた。
本当は堤さんはドーパンが好きだったんだと思う。バンドで食べて行くことも真剣に考えてくれていた時期だってあったと思っている。ライブの打ち上げに無理して残っていたことも知っている。堤さんが辞めたのではなく、これからCDを作るという段階になって、僕が自分の為に彼を辞めさせたのだろう。
去年末、堤さんの墓参りに行って来た。堤さんは7、8年前 (7、8年前、と記憶が曖昧なところに僕の駄目さ加減がある) ずっと患っていた舌ガンで亡くなった。直前、小出さんから「結構ヤバいから一度タロティーと見舞いに行ってやれ」と言われていたが一度も行かなかった。お葬式に行って、目を腫らした先輩に「来てくれてありがとう」と言われたときは「僕はそこまでのことをしたんだ」とも思ったし、心臓を鷲掴みにされるような気持ちになったが、結局その夜、数年ぶりに会った懐かしい面々を引き連れて同窓会さながら、飲み会を開いてしまい、よく知らない、いくつも下の後輩部員達の前で泥酔した。
堤さんは僕が知っている通り、面倒見が良くて、天然だけど優しくて面白くて、卒業した後もサークルに顔を出し、多くの後輩達に慕われていたらしい。みんなを連れてスノボーに行ったり、軽音のイベントに積極的に参加したりして、本当に良い兄貴分だったと。「その分、古川さんは嫌われていますよ。それも相当」と去年の年始に飲んだ時、僕に近い後輩が何年もの沈黙を破って口を滑らせた。おまけに、お葬式の夜の失った記憶も丁寧に埋めてくれて。「お会計は俺がする!!」だとしても「あなたは悪人だ」って、そこまで言うかね。
正直そのことがあって、去年一年ずっとモヤモヤしていた。が、数年ぶりに志村の墓参りに行ったことがきっかけで、堤さんにも会いに行こうと思った。コラムに書いて贖罪とかじゃないですよ、後輩に言い訳したいわけでもないです、あの時、間違っていたとは今でも思ってないんです、強いて言えば辞めてくれって男らしく言わなかったのはズルかったでした、でもやっぱり堤さんがいなきゃドーパンは無かったですよ、だから'96年じゃなくて'97年結成なんだろうなと、謝るとかじゃなくてそれは思ってやってきた気がします、それは本当にありがとうございました。
先日ハヤトからのLINEでエンジニアの白神さんが亡くなったという報告を受けた。まだ46、47歳だったと思うが、ガンだったらしい。ドーパンはベアートというPAチームにライブの音作りをしてもらっていたのだが、彼は馬淵さんというメインオペレーターに次ぐ2番手のPAで、大きな会場でのモニターマンは「必ず白神さんで」と僕たちから逆オファーをしていた人だった。何度かツアーにも行ったし、お酒も一緒に飲んだ。日本酒のチェイサーがビールというほどの無類の麦酒好きで、寡黙なのだがたまに発するパンチの効いたブラックジョークが面白かった。メタルが好きでサマソニ (2006年) で「メタリカが見れないじゃん!」と本気で凹んでいたし、楽屋でつま弾いてると「それ、イングヴェイだっけ?」「いや、マイケルシェンカーです」なんて会話をしたのを覚えている。
3年前の<MONSTER baSH>で偶然あった時、珍しく興奮気味に話しかけてきて「頑張ろうね」って握手をされてそれが痛いくらいに強かったのが、3年も前だし恐らく病気とは何の関係もないし、本当に久しぶりに会って“ショボクれている僕”に率直なエールをくれただけに過ぎなかったのだろうけど、ハヤトからLINEをもらった瞬間、ふとそのことを思い出した。それが白神さんと会った最後だった。
夜、行儀の悪いのは承知していたが、お酒に酔ってダメカワユタカになった僕は白神さんをググった。すぐに見つかった彼のTwitterには、最後に仕事をした3月まで、音響のことばかり書いてあって、インスタにも卓の写真ばかり上がっていて。深くは音の話をしたことはなかったけど、これほどまでにストイックな人だったんだいうことを初めて知って、感情としては間違ってるかもしれないが、凄まじさにというか、鳥肌が立った。誰に見てもらうわけでもなく、そこにあるのは精進の為の逐一な記録で、とにかくこの人はこの仕事を愛していたんだ、と感極まりかけたところで「いやいや僕程度の関係性で野次馬のごとくここを覗いてはいけない」とページを閉じた。
それから、堤さんの事をコラムに書こうと思った。
1997年から20年。僕は東京でまだ音楽をやっている。最近思う。色んな選択肢を経て来たけど、辿り着く所は変わらなかったんだろうなと。いや、もちろん変えれば、答えは変わったんだろうけど、そもそも変えられなかったんだろうなと。だから、“正しい事をしていれば”とか“あそこでズルをしなければ”とかもういいじゃんと、これから真っすぐににやればいいじゃんと。でもこれって、深い事言ってるみたいだけど、当たり前のことかしら。
数日前、木下と須藤君と飲んだ。木下が「俺たちは20年後もこんな風に集って、グダグダ飲んで話をするんだよ、きっと」だなんて今は誰に影響を受けている時期なのかしらね? それっぽい科白を吐いていて微笑ましくってよ。須藤君も「そうだよねー」って相変わらずの生返事をしてて、どうしようもなくってよ。でもだとしたら悪くないよね。
白神さん
きっと大勢のミュージシャン達に惜しまれている事だと思います。心よりご冥福をお祈り申しあげます。
■2マン企画<フルカワユタカ presents「Play With」>
6月4日(日)新宿LOFT
w/ Bentham
OPEN 17:00 / START 17:30
一般発売日:2017年4月29日(土)
▼~with Melancholy A~
7月28日(金)新宿LOFT
w/ ASPARAGUS
OPEN 18:30 / START 19:00
一般発売日:2017年6月10日(土)
▼チケット
前売り¥3,990(税込、D別)オールスタンディング
▼Bentham
▼ASPARAGUS
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