【音楽ギョーカイ片隅コラム】Vo.78 「# Manchester Strong(2)」

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「海外生活を楽しめるかどうかは、日本だったらどうのこうのといった御託を並べずに、その土地の人々や文化が持つ流儀を受け入れられるかどうかにかかっている」

そう教えてくれたのは海外留学経験者の友人だった。その極意は自身の海外旅行の経験からも頷けたので、郷に入れば郷に従えを守りさえすればすべてはきっとうまくいくと信じていたのだが、マンチェスターでの日々は予想を遙かに超えた刺激的なものであった。暮らしの違い、物事の違いもあったが、日本との最大の違いは‘人'だった。


様々な場面で主張すること、それは則ち、生きるという方程式を学んだ。それぞれが自立しているため、自己主張がとても激しい。日本であれば有り得ないようなことが平気で起こるし、相手のことを考えるのは二の次で、まずは自分ファースト、そしてどこまでも自分ファーストな人が多いと感じた。気性の荒い人が多いのには、イギリスで1位2位を争う天候の悪いマンチェスターの風土も関係していたのかもしれない。

そして彼らは一様に、自由そうで、ストレスがなく、人間らしさの塊のように映った。一方で、食べる、稼ぐ、寝る、をひたすら繰り返し、食事中の談話もなく、笑顔も一切なしというホストファミリーに遭遇した時は、こんなにも無機質な人間が存在するのかと驚きもした。


それから、マンチェスターのバスが大敵だった。濃霧のせいでバスの番号が見えず、止まってくれず、最悪の場合は来なかった。そのせいで毎日学校に遅れたこと、そして毎日同じバス区間を乗車しているのに毎日ドライバーの言い値が変わるなど、客が不条理を強いられるマンチェスターのバスが大嫌いだった。ロンドン以外にも別の街に住んだが、今のところそんな経験はマンチェスターでしかしていない。

平和で秩序ある日本から移り住んだ私は、こうした経験によって日々壊されていく固定概念と折り合いをつけながら生活を続けることに必死だった。頭の中で何度も唱えたフレーズは「そうだ、きっとこれはマンチェスター流のおもてなしってやつだ」とか、「やっぱりマンチェスターはロックな街だなあ」と楽観して順応しなければ、この街を選択した自分の判断を正当化できなかった。心が簡単に折れることは本能的に予期できたし、実際に日本人を含む諸外国からやってきた同じ学校の生徒が即帰国することも少なくなかった。やはり、その土地の言語が話せない人が頼るところもなく自立した移住をしようとするのには、それ相当の覚悟が必要なのかもしれない。

そんなエキサイティングなマンチェスターでの暮らしは、たったの数ヶ月で終わりにしてロンドンへ移ってしまったけれど、結局のところ、あの地にいい思い出はあまりない。それはマンチェスターのせいではなく、英語が話せない時期に、強烈な訛りのある、天候の酷く悪い土地へ余裕のない状態で行った私が悪かったと今では思う。

ひとつだけ、好きだったことがある。散歩だ。

日本でいう100円ショップに似た、ポンドランドで買った1ポンドのポータブルラジオでBBCを聞きながら街中を毎日よく歩いていた。そのおかげでたくさんの告知を目にし、到着翌週に開催されたミック・ロックの写真展も逃さず参加できたし、ロッキーホラーショーの無料上映イベントではヨーロッパを感じさせる冷たい石畳に出来たてホヤホヤの異国から来た友と腰を下ろして震えながら観覧もした。また、イギリスといえばフットボール、マンチェスターと言えばマンチェスター・ユナイテッドとシティということで、どちらも観戦して生フーリガンを目撃して感動したりもした。

マンチェスター出身であるオアシスの実家もホストファミリーの家からさほど遠くなかったので観に行ったり、週末にはバスで1時間そこそこで行けるリバプールにも通ってマシューストリートや退廃した港町を散歩してビートルズを感じたりもした。そうこうするうちに、イギリスの人や文化の面白さと美しさにも徐々に触れていき、慣れていったように思う。

もちろんライブも観に行っていた。到着翌日、ボックス・オフィス(日本でいうところの昔のチケットぴあのようなチケット販売所)へ出向き、最初に買ったチケットはマンチェスター・アリーナでのAlice Cooper公演だった。<(3)に続く>







文・写真=早乙女‘dorami'ゆうこ
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