【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第67回「諏訪原城(静岡県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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武田好き、徳川好きにはたまらない城、おさえておかなきゃいけない城、諏訪原城を紹介したい。先にこの城の魅力を言ってしまうと、三日月堀、丸馬出の極みの城、そんな諏訪原城だ。いかん!この城を見てないのはいかん!それは卓偉の音楽を知らずに生きてるとの同じくらいいかん!名城とは諏訪原城を言うのだ。もっと評価されたい!もっと来城してほしい!

築城は1569年とも、1573年とも言われるが、最初は武田勝頼が徳川攻略の為に築き、近くにある高天神城とこの諏訪原城を武田勝頼と徳川家康とそれぞれ押し合いへし合い奪い合い、最終的には1575年、徳川家康が諏訪原城を攻め落とし、大手曲輪などを増築、1590年に家康が関東を治めることになると役割を終え廃城になった。約30年で廃城になってしまった不運の城でもある。1570年代から石垣の城が増えていたが勝頼は築城した1573年であっても石垣は用いず、土塁と空堀で作った城であった。時代が総石垣の城になって行く中、戦国最後の土塁の名城とも言えるかもしれない。家康がこの城を管理していた時であっても石垣に組み直しすることがなかったのも意外である。卓偉もあんな顔してこんなに文才があることが意外である。

城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名付けられた。ご存知の通り勝頼は諏訪氏の血筋であるので(そんなこと知らねえってか?)自然な命名だ。だが家康はこの城に入った後に牧野城と改名(牧野原城とも呼ぶ)したが現代になりこうして諏訪原の名前に戻るってことはどんなに徳川が改修した城であったとしても、徳川の城というより武田の城の濃さが強く残っているからかもしれない。


城の大手周辺を東海道が通っており、近くには旧東海道の石畳が復元されている。静岡と神奈川、そして山梨に通じるこの場所に城を築くこと、東海道を封じることも可能なこの地で城を守ること、これに相当な意味があったのだ。高天神城しかり、戦国時代は自分の領地の真ん中に築城するのではなく、危険であってもいかに敵の領地に近い場所に城を持ち、常に戦いに備えるかがすべてだったのである。守りより攻めあっての戦国時代だったわけだ。決して守りに入らずデビューしてから19年間ひたすらに変化と進化を求め、ファンが離れても攻め続けた卓偉に似てる。

諏訪原城は山城だが、城そのものは盆地の平地の上に建てらているので見学中は平城に思えてくる。私のファンも私がファンクラブイベントなどであまりにも優しくフレンドリーに接するものだから途中から私のことを友達に思えてくる。親しき仲にも礼儀あり、そう耳元で大声で叫んでやりたい。

大手までに登るのは大変だが、今は大手まで車で行けるし駐車場も用意されている。女子にも嬉しい綺麗な公衆トイレもある。駐車場に城の平面図の掲示板があり、無料でパンフレットがもらえる。杉山城と同じ無人のシステムだ、こういうのは超ありがたい。タダだったのにいつの間にか入場料を取るようになり、行くたびに値段が上がってるどっかの城とはわけが違う。


大手周辺は一面茶畑。これは大政奉還後、明治になり徳川慶喜が駿府に配されると、慶喜の家来達がこの城周辺に住み、茶畑を作ったそうな。それが代々伝わって現代に至るとのこと。昭和の発掘調査前は本曲輪も二の曲輪も茶畑になっていたらしく、今でも石段、石積みなどが残っているがこれは当時の城の石ではない。これは茶畑の後付けである。2000年代に入っての発掘調査で木を切り草を刈りシェービングジェルを付け、スウィングする4枚刃で剃ったところ城の全貌が明らかになった。それまでは堀の深さや馬出のでかさがムダ毛でかなり見えなくなっていたのである。しかも夏になると虫がすごくて大変だったのだ。しかし今の諏訪原城は本当に見やすい。ムダ毛がない。剃刀負けもしてない、切れてな〜い。マジで見やすい。電気を付けっぱなしの営みだ。たまに来る下ネタってか?

改めてお伝えするが何が凄いって三日月掘と丸馬出である。三日月堀と言えば武田氏と言ってもいいくらい、武田の城はこういった半径の丸い堀をよく用いる。敵を二つに分け両サイドを虎口にして敵を撃つシステムだ。その名の通り馬を待機させておくことにも使われたともいうし、攻めてくる敵を迎え撃つ為にこの馬出の中で兵士も戦ったとされる。諏訪原城にはなんと5つの丸馬出と3つの三日月堀がある。これがまず凄い。どこの城にもこんな数はないのだ。大概はあっても1つだ。しかも空堀が深い。7メートルはあるだろうか?近年の発掘調査でよっぽどこの凄まじさが垣間見れるようになった。感謝である。至る所に切り株があるがこれが今までは全部生えていたことを考えるとその凄さはなかなか伝わらなくても仕方ない状態だった。だがこれがなくなったことで見渡せるこの壮大な景色。半端ない。二の曲輪中馬出の先端に立ってあたりを見渡すとまさに武道館センターステージだ。武道館やったことないけど。二の曲輪大手馬出も同じだけの面積があるが諏訪神社が立っていることと木が切られていないこともあり、いまいち凄さが伝わらない。大手の周りを縁取る外堀もかなり深い、忘れた頃にやってくる摩天楼の縁取り〜傷だらけのエンジェ〜ルである。この周りに大手を正面して右に歩くと二の曲輪南馬出、二の曲輪東馬出も存在する。この両サイドにある東馬出と北馬出は端が崖になっていて竪堀の役目を果たしている。天然の要害を上手く利用した見事な作りである。そもそも諏訪原城の本曲輪の裏、搦手はほぼ崖になっており、大手からしか攻められない作りになっていることも凄い。その為にはこれだけの数の馬出が必要だったということだろう。諏訪原城は本曲輪を軸に大手に向かって扇子のような形をしている。いわゆる三角形だ。そのサイドのラインがソリッドで、崖になっているだなんて、まさに浮き出たパンティライン。岡本夏生のバブル期かもしれない。しれないってなんだよ。



二の曲輪に入るとこれまた壮大。戦国時代築城の城はこういった場所に御殿などはなく、常に戦いに備え、武器庫や家臣達の館があった程度だったとされるが、にしても凄いスペースだ。卓球台が一億台くらい置けるのではないだろうか。真ん中には仕切り土塁もあり、奥を見せない仕組みは新府城の二の丸と同じ、まさに武田の城の面影である。この先にある本曲輪の前にある内堀もこれまた深い。土橋も細い。堀から曲輪に入る手段は大抵が土橋になっているがこれがまた結構細いのだ。二の曲輪東馬出の土橋は細すぎてさすがに通行止になっていた。しかもその横が絶壁だったので黙聴も無理だった。と言うか諏訪原城の空堀はどこもほぼ絶壁だ。レッド・ゼッペキンとしか言いようがない。本曲輪に向かう度にカシミールのイントロが聴こえて来そうで怖い。

本曲輪から見渡せる島田市街の景色も最高である。私のレコードを持っている人など一人もいないという空気がビンビンに伝わって来た。若かった頃、島田という苗字の女の子と付き合っていて、結婚する気がないなら別れて、と言われて終わった恋愛をこの島田市街を見て思い出した。天気が良ければここから富士山が見渡せる。2度目に来たのはtvkのロケ。この日はあいにくの雨で富士山が見えなかったのが残念であった。曇った空にBOOWYのCLOUDY HEARTが聴こえて来るようだった。霧がかった空にジミヘンのPurple Hazeが聴こえて来るようだった。引き続き島田の街の住人には私のロックンロールが一切聴こえていないようであった。

帰りに島田市内にある和菓子屋「菓子処 叶家」に立ち寄って和菓子をいただいた。ここはめちゃくちゃ美味い和菓子屋だった。和菓子屋だけど洋菓子もあり、ケーキもあり、だがここはやはり和菓子で攻めようと茶どら焼きを食った。最高だった。その他に茶饅頭(茶マン)お茶で作ったパイ(茶パイ)割と響きが好きな食い物が多くてニヤニヤしてしまった。



先にもお伝えしたように夏の山城は草木が剛毛でヒッピーな頃のGREATFUL DEADなのでマジで虫がきつい。蚊が多すぎて岡本夏生のVラインで歩いたらVラインの外を全部刺される。よって脱いでもVラインだ。うわ!めっちゃくだらねえ。夏は場合によっては蛇も出る。よって何度も言ってることだが山城は冬に来城することをおすすめしたい。そう言えば静岡の人は幼い頃から常にお茶を飲んで暮らしているのでカテキン効果もあり風邪をひく人が少ないんだとか。子供も給食に常にお茶が出るとのこと。良いよね、元気で風邪ひかない女性って。ずっと脱がしておけるってことでしょ。うわ!めっちゃくだらねえわ。茶マンと茶パイとパンティライン、もう私を大井川に突き落としてくれ。

あぁ 諏訪原城 また訪れたい…。


◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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