『うる星やつら』からオーケストラまで、日本屈指のマルチ・ミュージシャンのキャリアを紐解く

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小林”mimi”泉美が日本のシーンから姿を消して30年以上が経つ。10代の頃からプロ活動を開始し、20歳だった1977年にレコード・デビュー。当時率いたフライング・ミミ・バンドには渡嘉敷祐一(Dr)、渡辺モリオ(B)、清水靖晃(Sax)、土方隆行(G)と、後にスタジオ・ミュージシャンとして活躍する若き才能が揃っていた。

自身のリーダー作はもちろん、ザ・スクェアやパラシュート、高中正義バンドといったテクニカルなフュージョン・バンドのメンバーとして、キーボード・プレイヤーとしてライヴのバッキング/スタジオでのセッション/作曲/アレンジ/プロデュース/CM…果てはオーケストラのスコアまでを手掛けてしまう小林泉美の才能は、男性のミュージシャンを含めてもほとんど例がないほどマルチなもので、今で言えば菅野よう子に近いポジションかもしれない。1980年代に入るとその忙しさはピークに達する。小林がシーンから姿を消したのはそんな時だった。

小林泉美の代表曲といえば、『うる星やつら』の主題歌「ラムのラブソング」(1981年)を思い出す人が多いだろう。作曲とアレンジを担当したのは小林だが、歌っているのは松谷祐子。それでもこれが小林泉美の代表曲と多くの人が記憶しているのだがら、この曲のインパクトは相当なものだったということだ。この曲は1990年代以降、多くのシンガーにカバーされ、アニソンの域を超えて支持を増やし続けている。また、近年のシティ・ポップのムーブメントでは、小林泉美&フライング・ミミ・バンドやソロ作品が再評価され、アナログレコードは軒並み高値を呼んでいる。いま再び、小林泉美という才能に注目が集まり始めた。しかし、近年の動向を知るものは少なかった。

実は、いま小林は、長らく拠点にしていたロンドンをベースに音楽活動を再開している。というわけで、帰国したタイミングを狙って、小さな規模ながらイベントをやりませんか?と声をかけさせてもらった。内輪の非公式なものを除けば、日本での演奏活動は約33年ぶりとなる(詳細は記事の最後を参照)。

そんなわけで、この機会に、初期の話はもちろん、知られざる渡英後の話まで、小林泉美のキャリアを俯瞰したロングインタビューを行った。可愛らしくコロコロと笑いながら話すこの人には、人や運を引きつけるの不思議な魅力がある。それを感じ取ってもらえると思う。

■コード3つぐらいしか知らなかったのに、お金をもらえてこれはおいしい(笑)

──ピアノを習い始めたのは10歳からなんですね。もともと自分でやりたかったんですか?

小林泉美:普通の人より遅いですよね。最初、音楽の授業で声がすごい大きいって言われて、先生が歌を習わせた方がいいっていうので歌を習い始めたところ、やっぱりピアノもやりたいなっていうことで、親にピアノもやらせてもらったという感じです。

──やっぱりクラシックですか?

小林泉美:あ、クラシックです。超つまんないですよね(笑)。

──バンドも早い時期からやってますよね。

小林泉美:そうですね。15歳、中学3年ぐらいになってバンドをやりたいなと思って、ヤマハのそういう雑誌に(募集を)出したところ、高校入ってからやってくれっていう話がきて。地元、船橋のダンスホール、そこで弾いたらお金をもらったと。コード3つぐらいしか知らなかったの、そのとき。なのにお金をもらって、これはおいしいと(笑)。もう最初から収入があったんですね。1日1000円とかですけど、15歳ですから。

──それはどんなバンドだったんですか?

小林泉美:社交ダンスの仕事バンドですね。みんな大学生とかで、私だけ高校生で。スタンダード・ジャズみたいなのやってましたけど。あとジャズロックみたいなのも。

──その頃、自分ではどういうバンドをやりたいと思ってたんですか?

小林泉美:なんでもよかったですね。赤坂の方からお呼びがかかったり、六本木とか。でも、東京が怖くて行けなかったんです。まだ15歳ですよ。だから近場のバンドにしたんです。そこでコードを覚えました。同じ頃、ヤマハのエレクトーンも習ってて、それで仕事がやっぱり入ってきて、船橋の西武とか、あとレストランとか、ゆくゆくは高校2~3年になったら銀座に呼ばれたりとか、平河町の政府関係のクラブで弾いてたりとか。

──それは弾いてくださいって仕事が来るんですか?

小林泉美:入ってきましたね、どんどん。ラッキーでした。

──じゃあ、もう名前を知られてたんですか?

小林泉美:どうなんでしょうね。どこか1カ所で弾くと、いろいろ仕事が入ってきましたね。自分ではぜんぜんプロモーションしなかったですから。だから、高校生のときにけっこう稼いで、ピアノのレッスン代とか、大学の授業料は全部自分で払いましたね。うふふ。

──そんなに儲かってたんですか!

小林泉美:そうですね。当時はミュージシャンにはお金をすごく払ってくれる。それでも一晩8000円とかですけど。

──こういう曲をやってくださいとか言われるんですか?

小林泉美:いや、言わないですね。あってもなくてもいいんです、ただバックで流れていれば。当たり障りのないのを弾いてればよかったから、すごい楽だった(笑)。あと、小岩のパブとかね、今でいうガールズバーでしたっけ?、ああいうところで弾いてました。オルガントリオを組んで、それは毎日やってて、土日の昼は喫茶店で、夜はパブ。1日15ステージとかやってましたね。大変だったです。

──そんなんでいつ学校にいくんですか?

小林泉美:学校も行ってましたよ。朝早く起きて。すごいですよね。寝なくても大丈夫だったから。それから、高校2年か3年くらいから米軍キャンプやりだして、それがターニング・ポイントです。米軍キャンプからはすっごい影響受けました。私がエレクトーンはちょっと違うなと思って、赤坂のハモンド・オルガン教室に行ったんです。そこの人が”ミスター・カンパニー”っていうロック・ミュージカルをやってて、それを手伝ってる人がチェリッシュってバンドをやることになって、ツアーに行くから、自分がやってる米軍キャンプのバンドを代わりにやってくれないかっていうので、そこに入った。アメリカ人5人と日本人3人のグループで、もうみんな上手くてびっくりして。フロントがアフロにして。カッコいいバンドでしたね。

──それはソウル・バンドかなんかですか?

小林泉美:モロにファンクですよね。で、そんときのドラムが渡嘉敷(祐一)。矢沢永吉さんのところでギター弾いてた伊藤チャキ(久之)。みんなティーンエイジャーだったんですけど。あとはアメリカ人で。

──みんな10代!

小林泉美:渡嘉敷はもちろんすごい上手かったし、ベースの人は兵隊だけどプロを目指してたので、ものすごい上手かったですね。渡嘉敷もすごく影響を受けたと思います。リズムが良くなったのは彼のおかげだと思います。もうブリブリでした。

──ファンクはどんな曲をやってたんですか?

小林泉美:オハイオ・プレイヤーズとか、どファンクですね。コモドアーズ、アース・ウインド&ファイヤー、KC&サンシャインバンド…そういう。新宿のディスコとかでもやってましたけど。

──ファンクはここで初めて聴いたんですか?

小林泉美:ジャズとか黒人音楽は好きだったんですけど、それほど知らなくて、でも、あそこの影響は自分のミュージックキャリアではすごく大きいですね。

■アイドルにされそうだったので、移籍してミミ・バンドになった

──そのあとがASOCAですか?

小林泉美:同時ですね。高校終わりから大学に入ったくらいからASOCA。渡嘉敷に誘われたんですけど。

──これはどういうバンドだったんですか?

小林泉美:これは千葉のバンド(笑)。渡嘉敷は東京ですけど、土方(隆行、ギター)は市川なんです。ボーカルも市川で、私が船橋で、ベースの子(渡辺モリオ)は木更津の方なんです。それで、千葉のバンドとしてヤマハのコンクールに出て優勝したんですよね。そうそうそう。

──それがEAST WESTですね。1976年。

小林泉美:第1回目の。そのとき高中が審査員で、後々、高中から誘いがあったんですね。

──ASOCAの音楽性はどんな感じだったんですか?

小林泉美:ドゥービー・ブラザーズとかロック系です。ヴォーカルがロックだったので。あと、土方くんがロックなので。ジェフ・ベックとかそういうのやってました。オリジナルは私が書いてました。私が書くとファンキーになっちゃうんですけど(笑)。

──その後がデビューになるんですが、ASOCAから発展的にミミバンドになるんですか?

小林泉美:大学のときに、中村雅俊さんのツアーでバックをやってくれって話がきて。あと、舘ひろしさんのLPとかもやったんですけど、中村さんが最初だったんです。業界の仕事って。それで、中村雅俊さんのマネージャーやってる人が、私にソロを出せって。リハーサルで、歌ってごらん?って。それが後にX JAPANを有名にした人で、真下(幸孝)さんっていうんですけど。仕掛け人として有名な(笑)。

──ああ、いい意味でも悪い意味でも有名ですね(笑)。

小林泉美:そうそう(笑)。真下さんは矢沢永吉の事務所にいて、私が中村雅俊さんやってるときのステージ・マネージャーだった。真下さんが私をソニーに引っ張ってったんですよね。で、「マイ・ビーチ・サンバ」(1977年)を出すときのソニーのディレクターが、名前忘れちゃったけど有名なアイドルのディレクターだったんですよ。だから私もアイドル系にずっぽりはめられてしまい、違うってことになってフォノグラムに行ったんです。で、これを録音するときにどういうふうにやりたいか真下さんがきいてくれて、私は自分のバンド(ASOCA)はすごく上手だから、自分が一緒にやってた人たちとやりたいって言って、演奏聴いたらぜんぜんOKってことで。そのころ19(歳)くらいだったんですよ、みんな。なので、業界ではびっくりされて。

──それがフライング・ミミ・バンドになると。

小林泉美:真下さんが決めた名前ですけど(笑)。レコード会社や真下さんとしては、そのころキーボードを弾いて歌える女は少なかったので、それを売りにしたかったんだと思うんですよね。だけど、私がずるずるって(メンバーを)連れてきちゃって、逆にそれが話題になったと思います。みんなすごかったから。で、(フライング・ミミ・バンドで)2枚作ったんですね。2枚目の『シー・フライト』(1978年)で渡嘉敷が抜けて、マーティ・ブレイシーが入った。黒人で、すごくやさしい人。米軍キャンプ時代、同じバンドじゃないんだけど(交流があった)。で、フォノグラムから、なんでキティに…。あ、高中(正義)をやりだしたんですね。

──同時進行ですか?

小林泉美:大学はもう卒業してて、高中をやり始めたときにキティに移籍したんです。同時期にパラシュートとスクェアからもお誘いがあったんです。

──スクェアではレコーディングはしてないですよね?

小林泉美:してないです。スクェアでユーミンのツアーをやったんですね(1979年の<OLIVEツアー>)。で、ユーミンのツアーが終わったときに、(正式メンバーで)バンドをやってくれないかっていわれたんですけど、パラシュートもあって、高中もあって、どれにしようかなってすごい悩んで。

──なんでパラシュートと高中を選んだんですか?

小林泉美:高中さんはラテンの要素があったので、音的に。パラシュートはけっこうロックの要素が。今(剛)さんとかはロック系だったので。でも、私はあんまりロックな感じではなかった。スケジュールが完全に重なってたので、どれかを選ばないとできなかったですね。

──そういうテクニカルなフュージョンの人たちって、この時期に一斉に出てくるわけじゃないですか。カシオペアもいるし。

小林泉美:みんな顔見知り、仲間内って感じですね。何かとジャムしたり、スタジオで会ったり。

──この頃のブラジルとかラテンっぽい要素って、どういうところから影響を受けたものなんですか?

小林泉美:それがすごい不思議で、周りのミュージシャンには誰もいなかったですよ。高中のパーカッションの人とかはもちろんラテンで、キムチ(木村誠)とか、菅原(裕紀)とか。木村がすごかったですね。

──でも、そういう音楽性ってそれより前からですもんね。

小林泉美:う~ん、それはたぶん幼少の頃に、私の叔父が家でけっこうラテンをかけてたんですよ。それが残ってたんだと思うんですよね。なんか自然に出てくるんですよ。それは自分でもすごく不思議です。最初に買ったアルバムがアストラッド・ジルベルトだったんですよ。13歳くらいのとき。

──自分で欲しいと思って買ったんですか?

小林泉美:そう。買いに行ったんですよ。周りからヘンな子だねぇ~ってよく言われました。髪の毛洗ってそのままにしとくとこうなっちゃうんですけど(天然のカーリー風)。だから、どこかそういう血が混ざってるんだって、イギリスの方ではみんなそう言いますね(笑)。だから、ラテンは誰かの影響っていうのはあんまりないんですよね。

──高中さんのやつはYouTubeにも動画が上がってましたね。「レインボー・ゴブリン」のやつとか。

小林泉美:あはは、あれは大変でしたね。高中さん、曲ができなくて、ギリギリになって作って。それで武道館のとき、みんなは譜面見るけど、私は見たくなかったから全部暗譜したんですね。徹夜で暗譜してすごい大変でしたね(笑)。演奏はよくなかったですよ。細かいところがぜんぜん合ってなくて。だって曲ができて4日くらいしか練習しなかったのかな、それですぐ武道館ですから。

──高中さんのはレコーディングも参加してますよね。「ブルー・ラグーン」とか代表曲を。

小林泉美:いい曲ですよね。高中さんはいい曲書きますよね。

■「ラムのラブソング」は10分くらいで書いて、そのままOK

──そのあとにアニメとかをやり始めるんですね。

小林泉美:作曲の仕事が増えたんです。「うる星やつら」は、キティの社長の多賀英典さんという方が、私を見て"君は漫画をやると売れる"って言ったんですよ。何言ってんのかな?って思ってたんですけど(笑)、直感のすごい人で。社長室に呼ばれて、こういう漫画があるんだけど書いてみる?って言われて、この漫画は少年サンデーに載ってた時から読んでてすごい好きだったので、ぜひやらせてくださいって。次の日に3曲書いていったら、3曲とも使われたんですよね。10分くらいで書いたのに(笑)。

──「ラムのラブソング」ですか?

小林泉美:ラムちゃんは10分か15分くらい。私の場合ぜんぶ曲先なんで、漫画のイメージはもう入ってたので、なにも考えないでそのまんま。修正もぜんぜんしてないし、書いたまんまですね。でも、多賀さんに怒られましたけどね。(16ビートが)難しいというか細かすぎるというか、シンコペ(ーション)が多かったので。多賀さんは小椋佳とか安全地帯、井上陽水をやってる人だったので、オン(1拍目、表拍)で始まるのが(普通で)、私はなんかウラではじまったりするからっていうのはありました。でも、「うる星やつら」でずいぶん助かりました。

──で、「さすがの猿飛」(1982年)「ストップ !! ひばりくん!」(1983年)などの漫画シリーズが続いてくわけですね。

小林泉美:コマーシャルもけっこう書きましたよ。カネボウとか書き下ろしで。

──スタジオ・セッションも多かったんですか?

小林泉美:スタジオの仕事はものすごくたくさんやりました。中島みゆきさんとか。CMですけど、阪急デパートのお歳暮の仕事はすごく気に入ってるんです。それはテレ朝のスタジオでオーケストラとやったんですけど、私は演奏しないで、こっち(コントロール・ルーム)でディレクションだけやってたんです。オーケストラとホーンとコーラスと歌と、ぜんぶ一発録りで素晴らしかった。ぜんぶスコアも書いて。ストリングスとかオーケストラも。

──そういうのはどこで覚えたんですか?

小林泉美:あ、音大で作曲科を取ってたので。ピアノ科だったんですけど、副科で作曲をとってて、作曲の方が好きで。オーケストラの譜面とかはそこで教えてもらって。

──1stアルバム『Orange Sky』(1977年)ではアレンジまで全部やってたじゃないですか。最初の作品からアレンジまでやってるってなかなかないですよね。

小林泉美:そうですよね。生意気ですよね(笑)。でもそれは真下さんのおかげです、やっていいよって言ってくれたので。プロデュースも自分でやりました。やっちゃダメっていってもやるタイプだったので(笑)。でも反省点はたくさんあります。

──そういえば、「ストップ !! ひばりくん!」に布袋(寅泰)さんが入っているのはどういう経緯で?

小林泉美:入ってないような気がするんですけど…分かんないなー。土方がやったような気がするんですけどね。マーシャル2台積んで。私のソロには入ってますよ、布袋さん。「Nuts Nuts Nuts」には入ってますね。クレジットも入ってますけど。

──なんで布袋さんだったんですか?

小林泉美:いや、知り合いだったんですよ、昔から。デビュー前からの。ASOCAのベースの渡辺モリオくんがBOOWYの最初のアルバム(「MORAL」1981年)のプロデュースをしたんですね。そのデビューの前にモリオくんが布袋くんちに遊びに行くっていうんで、一緒に遊びに行ったりして。あと小林径っていうDJがいたんですけど、ジャズ系の。

──過去形になってますが、今も活躍してますよ(笑)。

小林泉美:小林径と布袋と私と3人でトランプとかして遊んでた(笑)。布袋さんってまだぜんぜん有名じゃなかったし、デビュー前だから。小林径の家に行って、コタツに入ってトランプしたり、みかん食べたりして(笑)。

──小林径さんが布袋さんの1つ上の先輩なんですよね。

小林泉美:そうそう、出身が同じで。仲良くて。布袋さんは何年か前にロンドンのスタジオで会いましたけどね。やぁやぁやぁって(笑)。いい感じですよ。でもすごい有名になっちゃったからね。

──あと「ロック・イン・ジャパン」ってなんですか?

小林泉美:テレビのプレゼンターですね。テレビの司会やってたんです。すごいヤだった(笑)。ぜんぜん合わないですね、こういう仕事は。ぜんぶ台本に書いてあって、つまんない冗談も書いてあって言わなきゃいけないし、演技できなくて。でもクイーンが来たんですよ、あのクイーンが。あと、雑誌のコラムね。いっぱい書いてましたね。キーボードマガジンとか、サンレコとか、連載もいっぱい書いてました。

──かなりマルチにやってたんですね。

小林泉美:そうですね。依頼が来たら、自由業としては来るものはなんでも(笑)。でも、なんかもう忙しくってあんまり考えてる時間がなくて、振り回されてました。次から次へと仕事がきて。

■ミュージシャンとして外国に行きたかった

──その後、アルバムが出た(『i.Ki』1989年)と思ったらホルガー・ヒラーがプロデュースで。

小林泉美:いきなりね(笑)。いきなり行っちゃいましたからね、向こうにね。

──なにが起きたんですか?

小林泉美:私は外国に行きたかったんです、ミュージシャンとして。この頃ね、コマーシャルの仕事がものすごく多くて。(ボソっと)お金はすごくあったんですけど(笑)。寝る時間もあんまりなくて、もう仕事に振り回されてて、このままだと使い捨てだなと思って、そうじゃなくて自分の作品をゆっくり作りたいなと思って、外国から来た人たちに自分のストリングス・カルテットの(音源を渡して)、ダンスカンパニーとかに書き下ろしもしてたんですね、弦楽四重奏の。

──演劇用にってことですか?

小林泉美:そうそう。ストリングス・カルテットのカセットをホルガー・ヒラーに渡したら、君はヨーロッパに来てこういうのをもっと伸ばした方がいいって。「うる星やつら」とかも聞かせたんですけど、ホルガー・ヒラーはああいう音楽なので(笑)。そうしたらホルガー・ヒラーのマネージャーでワーナーブラザーズのディレクターが航空券とビザを送ってくれて、住むところも用意してくれて、ホルガー・ヒラーのヨーロッパツアーをやってくれって。そりゃー行くでしょーと。棚ボタで(笑)。

──ホルガー・ヒラーってミミさんのイメージとずいぶん違いますが、音楽的には大丈夫だったんですか?。

小林泉美:私には二面性があって、「うる星やつら」みたいなメジャーなわかりやすい音楽と、ドロドロっとしたのもやってたんですよ、陰で。

──それは趣味的に?

小林泉美:そうです。お金にはならなかったですけど、ダンスカンパニーだったり、JAGATARA周辺の前衛チックな人たちとつるんで。あとEP-4とか、大阪の。

──佐藤薫さん。

小林泉美:そうそうそう。あのへんの人たちとかと。それとか板倉文とか。

──チャクラの人ですね。そういうのはいつ頃から興味があったんですか?

小林泉美:大学の頃から現代音楽が好きだったので。(ヤニス・)クセナキスっていうギリシャの作曲家がいるんですけど、ハードコアの。すごい好きで。

──イギリスに行ってからはどんな感じだったんですか?

小林泉美:イギリスは半年くらいで帰ってこようかなと思ったら、いろいろ仕事が来て、そのままイギリスにいたんですけど。デペッシュ・モードとか。300万枚売ったやつ(『Viorator』1990年)で弾いてるんですよ。あと、アソシエイツってバンドのビリー・マッケンジーとか。あと、スティーヴン・ティン・ティン・ダフィって、デュラン・デュランの人のアルバムをやったりとか。ヨーロッパの活動はこっちではあんまり知られてないですけど、けっこういいとことやったと思います。

──スタジオ・ミュージシャンみたいな感じですか?

小林泉美:スタジオ・ミュージシャンですね。スティーヴン・ティン・ティン・ダフィのやつは1日で30万くらいギャラが出ました。デペッシュ・モードは安かったけど(笑)。あと、スウィング・アウト・シスターのシングルの1枚目と2枚目(「Blue Mood」1985年と「Breakout」1986年)をサーム・ウエストっていうアート・オブ・ノイズのスタジオで録音して。あとはホルガー・ヒラーのアルバム。それから、オランダのマチルダ・サンティンっていう人に気に入られて、ツアーをやって。私がプロデュースしたアルバムがあるんですけど(『Breast And Brow』1989年)、それはオランダで賞をとったりしました。あとドイツの映画音楽をやったんですよね。それもすごい面白かった。ハンガリー録音だったんです。アメリカの会社とかが録音にくるようなすごいスタジオでやって、オーケストラ使って。ストリングスはジプシーの人が入ってるから熱いんですよ。そのあとに坂本(龍一)さん、教授がね、世界陸上競技大会の前夜祭でオーケストラ使いたいから誰か知らないかって、イギリスでやりたいって日本から連絡あって。イギリスのストリングスは印税払わなくちゃいけないんですね。後々面倒くさいから、私はハンガリーにコネクションがあるから、ハンガリー行きましょうって言ってやったんですね。それもまた素晴らしい演奏でしたね。

──スウィング・アウト・シスターはイギリスに渡ってすぐくらいの時期ですよね。そのときってマネージメントとかついてたんですか?

小林泉美:ついてたわけではないですけど、ガンガン仕事がきましたね。ワーナーから来たりとか、誰かがオススメしてくれる(笑)。マチルダ・サンティンはホルガー・ヒラーの知り合いだったので、ちょっと手伝ったらトントントンって。

──どこに行ってもトントン拍子にいっちゃうんですね。

小林泉美:そう、ありがたいですよね。なんとなく、正しい人たちに会ったって感じですね。でも、日本にいたらもっとアニソンとかも書いてただろうし、作曲家として絶好調のときに(海外に)出ちゃったんですよね。

──そういう仕事は続けたいと思ってたんですか?

小林泉美:いや、もう日本は出たいと思ってました。

──もういいやって感じ?

小林泉美:もういいやって(笑)。世界で活躍したいなと思って。ヨーロッパ止まりでしたけど。

──それでもなかなかそういう人はいないですからね。もう少し後になると鈴木賢司さんが。

小林泉美:ああ、賢司さんね。ウチの息子がすごいかわいがってもらってる。(屋敷)豪太さんの仕事もやりましたね。ヨーロッパで。屋敷豪太さんがパリのシンガーをプロデュースしたときに呼ばれてって。

──豪太さんだったらシンプリー・レッドとか、あのへんは絡んでないんですか?

小林泉美:シンプリー・レッドは絡んでないです。子育てしてたんです、その頃。1988年に息子が生まれたので。子育ての間、シスコとかやってたんです。

──ミュージシャンの活動ができないからですか?

小林泉美:そうですね。ツアーとか行けなくなっちゃう。スタジオとかも遅くまでできないので休憩ですね。あ、「Moves In Motion」やってたか。これはアシッド・ジャズ系なんですけど、ロンドンのDJとユニット組んで、Destination Xっていうレーベルを作って、それで2000枚売れたのかな、ロンドンで。日本ではメルダックでライセンスしてもらって、CDも出てますね。「Thank You」って曲がカッコいいですね。

──この頃、日本の「悪女(わる)」ってドラマもやってますね。

小林泉美:あ、これはキティから連絡があって、ドラマをやってくれって言われて書き下ろしたんですけど、ロンドン録音ですね。こないだ「悪女」がYoutubeに上がってたのを見たら面白かった(笑)。しょっぱなから自分が弾いてるのがバーッって出てきて、音楽もすごいいっぱい使われてたので。

■会社員になったことがないので、株を買って経営者に

──このときはもうシスコ(輸入レコード屋)をやってる時期ですか?

小林泉美:そうですね、被ってますね。最初はコレスポンダンスとしてやってて、それでロンドン支社を作るから手伝ってくれっていわれて。それが1997年ぐらいですね。会社員になるのはやったことないので、株を買うから経営者になりたいっていって、経営者になった(笑)。

──その発想がすごいですね…。

小林泉美:でも、株買ったらぜんぜん扱いが違いますよ。オーナーの一部になると。1997年くらいからシスコのロンドン社長になって、2008年に潰れたんですね。損しましたけどね。でも、いいやって感じ(笑)。

──この頃は音楽活動はやってなかったんですか?

小林泉美:できなかったですね、忙しくて。人を雇ってたから。もう経理の数字ばっかりです。私数字好きなんですよ。あと、1989年ぐらいに自分の会社を作ったんですよ、制作会社。その頃、電通、ソニーが一番多かったですけど、あとNHK。この3本とシスコが主で。

──音楽の制作会社ですか?

小林泉美:そうです。あとコーディネイション。トイズファクトリーのニンジャ・チューンとモー・ワックスの総合プロモーションをやってたんです。ソニーの方で抱えてるレーベルも総合プロモーションやってて、ケンイシイさんがベルギーにいったときにソニーがR&Sの株を買ったりして、そういうやつの手配とか契約書のコンサルタントやったり。R&Sがケンイシイを出して、それをソニーがライセンスしてっていうところからやってるんで。それでブンブン・サテライツを入れたんですよ。

──あの頃、日本でもそういうのいっぱい出てましたもんね。コンポストとか。

小林泉美:ああ、コンポスト。それも関わってましたね。あとワープだ、ワープ。プロモーションやって。あのへんのテクノはぜんぶウチですね(笑)。

──こんなところに仕掛け人がいたとは(笑)。日本でもこういうのやった方がいいですよって売り込んだんですか?

小林泉美:そうですね。あとソニーの方からこういうのあるから、プロモーション用にインタビューしてきてくれとか。私は働かないで遊んでたんですけど(笑)。でもDJと話したりして繋げてって。ドラムンベースは向こう(日本)では知られてなかったけど、私は個人的に繋がりあったので、強かったですよね。あとはレゲエとか。テクノはちょっと弱かったんですけど、仕事はいっぱいきましたね。(石野)卓球くんの手配とか、DJクラッシュとか。あと卓球くん(を出してた)のレーベルでフロッグマンレコードをヨーロッパでバーンって売ったりとか。

──うわ、これその辺に詳しい人が訊いたら、盛り上がりそう(笑)。

小林泉美:ジャマイカも演奏の仕事で3回ぐらい行ってるんですけど、レゲエ・フィルハーモニック・オーケストラってのを3年間やってたんですね。それでジャマイカン・ツアー行ったんですけど。それはアイランドレコードで、ボブ・マーリーの追悼盤をやってます。クリス・ブラックウェルって社長からの依頼で。ボブ・マーリーのマルチテープを聴きながらやったんですよ。もともとのトラックをいっこいっこ別々に聞けたんですね。ドラムだけとかベースだけとか。演奏がすごかったですね。めっちゃうまい。もうちょっとしたところでのタイミングと(音を)入れる瞬間とかがもうすごいですね。あれはビビりましたね。すっげー!と思って。宝でしたね、あの経験は。

■息子が好きな事やっていいよって言ってくれた。キューバ行こー

──音楽活動を再開したのはいつからですか?

小林泉美:息子が大学を出てから、キューバに行ってたんです。2012年から2017年まで毎年4ヶ月ずつ5年間行ってましたね。息子が、僕も巣立ったから好きな事やっていいよって言ってくれたので、やっぱり音楽やりたいなと思って。会社もわーいって潰れたし(笑)。もう縛られるものがないから、じゃあキューバ行こーって。

──キューバに行ったのは何か目的があって?

小林泉美:自分のソロをやろうと思って、スタジオのリサーチとかミュージシャンとかといろいろ会って、こういう風にしたいとかいろいろやってたんです。(制作は)やってないですけどね、まだね。でもゆくゆくやる時は、どのスタジオでどのミュージシャンでとか、もうコネクションは作ってあるので。

──ひとりで乗り込んで行ったんですか?

小林泉美:そうですね(笑)。いつもそうです。スパニッシュ話せなかったから、現地の人とおしゃべりして覚えて。

──最初にロンドンにいったときも英語は…。

小林泉美:少しですね。

──そういうのって大丈夫なんですか?

小林泉美:音楽は大丈夫です。演奏する方は。あんまり喋れなくても大丈夫。私、フランスでもレコーディングしたことあって、その時はフランス語ですよ。それこそぜんぜん喋れなかったけど、なんとかなりましたね。そのとき隣でフェラ・クティがレコーディングしてた、そういえば。それすごいでしょ。

──それ、けっこう最後の方ですよね。

小林泉美:1989年とか90年とかそれくらい(おそらく、1989年の「Overtake Don Overtake Overtake」のレコーディングだと思われる)。すごかったですね。フェラ・クティ、今聞いてもカッコいいですよね。でも怖い人でしたよ。みんなビクビクしてるの、ミュージシャンが。もう兵隊みたいな感じですよね、スタジオでも。コーラスの女の人が3人いて、一人クビになっちゃったんですよ。泣きながらどっか行っちゃった。で、奥さんか、女の人が4~5人いるんですよ。こうやってお尻振って。同時録音で、15人くらいいるんですかね。それを見て興奮しましたけどね。

──今やってる活動は?

小林泉美:キューバから帰ってきて、2016年から音楽活動を本格的に始めたんですけど、アフリカのバンドの仕事がちょうどきて。いま、スコーピオス(https://www.facebook.com/thescorpiosafrik/)っていうアフリカのバンドをやってて、ジャイルス・ピーターソンとかミスター・ボンゴとか、ああいう人達が好きみたいです。最近アビーロードでアルバムを録音しました。アフロ7っていうスウェーデンかなんかのレーベルですけど。で、ロンドンに帰ったらすぐにBBCに出ます。あとはアムステルダムのフェスティバルに行って、あとはアフリカツアーも入るかもしれない。


──それは正式メンバーで、パーマネントな活動をしていこうというバンドですね。

小林泉美:そうですね。ほかのバンドの仕事もいろいろ。

──個人では日本でも活動するんですか?

小林泉美:チャンスがあればですね。

──もういろいろ声かかってるじゃないですか。

小林泉美:またアニソンとかもやりたいですね。今のアニソンってまた違いますよね。なんでもね、当たって砕けろって感じです。そういう活動ができた方が人生も楽しいし。よろしくー。ピッ(と録音を切る)。

取材・文:池上尚志

<小林”mimi”泉美City Pop Connection Vol.2>

2018年5月11日(金)
@カブキラウンジ
東京都 新宿区歌舞伎町1-23-13 第1大滝ビル5F
03-6205-5125
ライブアクト:小林”mimi”泉美
DJ:金澤寿和、クニモンド瀧口、池上尚志
※シークレットゲストあり
OPEN / START 19:00
CHARGE ¥2500(w/1D)
前回からちょうど1年ぶりとなる「City Pop Connection」第2回目は、なんと、うる星やつら「ラムのラブソング」などで有名な小林”mimi”泉美さんをお招きします。1980年代から拠点をロンドンの移してしまったため、ミミさんが日本でオフィシャルな演奏活動をするのはなんと33年ぶり。ロンドンから一時帰国したタイミングを狙っての貴重な生演奏です。DJイベントの形態をとりながら、小林”mimi”泉美さんの生演奏とトークをお送りします。近年はシティポップ・シーンにおける再評価も極めて高く、レコードも軒並み高騰中ですが、それらのアルバムの曲を中心に演奏していただく予定です。DJには、シティポップ~AORブームの立役者、Light Mellowでおなじみのライターの金澤寿和氏と、自身のバンドである流線形や一十三十一、ナツ・サマーなどのプロデュース、また和モノDJとしても活動するクニモンド瀧口氏にご参加いただきます。イベント主催者である池上もおまけでDJします。そして、このメンバーにぴったりの大物シークレットゲストが参加。この人だけで会場が満杯になっちゃうので、名前は出せません。まさかのあの曲を歌ってくれるかも!自分で言うのもなんですが、マジで伝説の夜になる予感。DJバーでの開催のため、50人限定となります。予約で定員に達した場合、当日券は出ない場合が有ります。また、当日はかなりの混雑が予想されますが、ご了承ください。(池上尚志)
【予約方法】
予約は以下の項目を添えて、こちらのメールアドレスまでお願いします。
citypopconnection@gmail.com
件名:予約希望
・お名前
・人数
・返信先メールアドレス
※折り返しの返信があった時点で予約完了となります。代金は当日の入場時にお支払いください。
※予約受付は終了しました(記:2018年4月17日8時)
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