【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第75回「笠間城(茨城県)卓偉が行ったことある回数 4回」

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笠間城は中世の山城が近代城郭になった日本でも珍しい城である。私、笠間城結構、いやかなり好きである。関東に石垣の城はほとんどない中、山城に石垣を組んだ城であり、二層の天守閣も存在した。しかも八幡台櫓は城の麓にある真浄寺に移築されていて現存。市内の民家には二つの城門も移築されておりそれも現存。嬉しい限りである。見学のポイントとしては最初にこの八幡台櫓を見てから城に登るか、城を見てから八幡台櫓を見るか、これでイマジンの感じは随分と変わる。私は行くたびに気分でどっちにするか決めてから見学している。



築城は1200年代と古い。笠間氏、宇都宮氏、蒲生氏、最後は牧野氏としょっちゅう城主が変わっていた。だが今の形に改修したのは蒲生氏によるものである。最初にも書いたように中世の山城がそのまま石垣の城に発展するケースはほとんどなく、家康さんの天下のタイミングでその頃の城のほとんどが廃城になった中、笠間城は進化と変貌を遂げた唯一の城なのである。進化と変化を恐れない、これはまさに中島卓偉さね! かと言って総石垣の城ではなく、ところどころ石垣な感じがまた良い。当然ながら中世の城の感じも色濃く残っているところも良い。戦国時代と江戸時代をまたぎ、良い具合にコラボした感がある最高な城、笠間城だ。



現在は城の中腹にある的場丸まで車で行ける。残念ながら的場浩司が出迎えてくれるわけではない。この曲輪が千人溜駐車場になっている。この曲輪も私の心と同じくらいかなり広い。その先が大手門跡となっているのだが、すでに正面向かって右側が空堀となっていて、土塁が虎口を見せる。左側は崖となっており、歩く道はまさに土橋とも言えるだろう。その大手門跡にも見事なまでの石垣が組まれている。虎口が二度折れていることがわかる。現在は大手門の先は車道がS字に曲がりくねっているがこれは後付け。石段を登ることが当時の正しい道である。だがよく見てみるとこのS字の道こそ空堀の跡だということがわかる。本丸まで登っていく道の随所に石垣が登場する。しかも結構な急斜面だ。木が生い茂っているがいくつもの曲輪の跡がうかがえる。肉眼でちゃんと把握は出来ないがおそらく二の丸とのこと。本丸の正門の石段を登るとこんな山にこれほどの平地が用意されているのかとたまげる。内側から見てもこの本丸の土塁に圧倒される。高さ、太さ、そして長さ、土であるのに今日までこの保存状態、素晴らしい。この土塁の上に八幡台櫓を入れて三つの櫓、そして二つの櫓門が存在したのである。マジでイマジンを頼む。土塁の上に建てる櫓はイキである。弘前城や土浦城などにも土塁の上に存在する櫓はどこか住まいを感じさせる。戦闘状態というよりは武器庫、そして生活にも使われていたんじゃないかというイマジンも出来るところが良い。この平地には本丸御殿が存在したという。面積的にもかなり大きかったことがイマジン出来る。少なからず安土城の本丸御殿、そして南殿よりも大きかったことは一目瞭然だ。山城の山の上のスペースの確保って本当に大事だと思う。いくら外面の威嚇に成功しても自分たちが暮らしづらいのでは意味がない。安土城の本丸御殿はスペースに目一杯建ててしまったことで日当たりが悪かったとされる。この本丸で笠間城の暮らしや政治の一つが完結していることがわかる。


一つ疑問なのは八幡台櫓のあった場所である。その櫓台跡に石碑が建っているのだが、本丸の正門から見ると土塁がL字になっており、天守台へと続く櫓門を隠すように折れ曲がっている。武田氏の城によくある城の奥を簡単に見せない隠し土塁的な作りだとは思うのだが、八幡台櫓がこの折れ曲がった出っ張りの場所に立っていたとされる。果たしてそうだろうか?私の推測はL字の外側の角に立っていたんじゃないか?と思うのである。この本丸土塁の一段下には東隅櫓が建っていた。本丸の天守曲輪側のコーナーにである。その一段上に更に外側を強化するにあたり、そして景色を高いところからチェックする意味で八幡台櫓があったんではないか?そう思うのである。現在の八幡台櫓跡の場所に櫓があったとしても、櫓は真浄寺で見ての通り二層で小ぶり。この場所にあったとしても敵が攻めてくることを把握出来るほどたっぱがない。にもかかわらずこの出っ張りに櫓など建てるだろうか?外側に建てられていたのであれば見張りとしての意味もあったと納得出来るのだが、ここにあったとしても絶対に日当たりも悪いし、眺めも悪いし、本丸でただ一つだけこんな出っ張りに建てられた櫓ってあるかなあ?と思うのである。土塁だけでも十分高さもあり、隠し土塁としても役割は十分に果たしている、それでもその土塁の上に建てていたかなあ?と疑問を抱くのである。もっと言えば、本丸の搦手門がこの櫓のせいで本丸正面から全く見えなくなる。搦手を見せないということも言えるが、土塁でそれはもう果たせているのに?う〜ん、毎回来る度に疑問は膨らむばかりである。


そんな本丸搦手門の跡を抜けると両サイド空堀の土橋を渡り、いよいよ天守曲輪である。天守曲輪と本丸が違う山に建てられており、その間は深い堀切になっていることも素晴らしい。当然ながら天守曲輪の方が標高が高いが、スペースで言うと本丸の方が広い。天守曲輪は完全な見張り、そして少なからずの権力の象徴だったのかもしれない。天守曲輪は段になった石垣で組まれている。イマジンしてほしいのは、この段にすべて土塀が縁取られており、そこには鉄砲狭間がくり抜かれていたとのこと。天守が最後の逃げ場とも言えるくらいその守りは相当頑丈に出来ている。現在の天守台は明治初期の廃城とともに建てられた神社の拝殿がそのサイズと同じ面積で存在する。面白いのは、その天守を撤去&解体したようで実はそのまま拝殿に作り変えただけということである。よって、天守台の周りにある土塀に瓦が埋め込まれているのだが、これは何を隠そう笠間城天守の瓦だそうだ。天守は2層だったようで、もし現存していれば備中松山城と同じ二層の天守閣だったと言うことである。これは本当に惜しい。ほぼ半分現存しているようなものである。二層とは言えもちろん八幡台櫓よりも規模は大きい。比べた感じは備中松山城の天守よりはちょっと小さいか。この場所で標高182メートルということなので眺めは十分である。確か笠間城の絵図も残っていると聞いたことがあるのでこの拝殿の素材をそのまま生かして天守を復元出来ないものであろうか?段の石垣のてっぺんに建てられた二層の白壁の天守、イマジンしただけでもヨダレが出る。


城の魅力はまだまだあり、これほどまでに険しい山城なのにも関わらず、城の周りの至る所に空堀が巡らされている。この距離や長さ、深さ、脱帽である。これも時間がある時は是非探して見てほしいものである。こういった規模の山城には山の中腹に長い空堀が作られているケースが多い。これも私の推測だが、山城こそ雨の水捌けが命、山全体を縁取るように空堀をこしらえておくとそこに水が溜まり水堀になるとまではいかないが沼的な滑りを醸し出す掘に出来るので防御的にも一石二鳥だったんではないだろうか?

見学するに的場丸から天守曲輪までは急斜面もかなりあるが基本石段なのでトレッキングにしても丁度良い距離だ。いや、いくらか体力は欲しいか。初めて来城した時、的場丸まで戻って親父と兄貴と三人で大手を見上げながら、良い城だったなと話していたところ、後ろから老夫婦が訪ねてきた。

「天守曲輪までは結構登りが大変だったりするかね?」

親父はすかさず返した。「すぐです。ちょっと登ればすぐ着きますよ」

兄貴と私は思った。そりゃ親父の感覚であってこの爺様と婆様の感覚とは違うっつーの。
親父は常に鍛えていた人だったので階段ともなればすぐに走って競争となる。見学もクソもない。ゆっくり見せろやといつも思っていた。

約30年後、三度目に来た時に同じような状況になり、城から降りて来た私にきっと同い年くらいのおじさんが話しかけて来た。

おじさん「これてっぺんまで登るのどれくらいかかんの?」

初対面でタメ口、敬語を使えない奴は大嫌いなので言ってやった。

私「すぐです。ちょっと登ればす〜ぐ着きますよ」4〜5年前の話なので今頃おじさんはようやく天守曲輪の下の土橋に着き、石段をこれから登るところだろう。


見学で鉄板なのは城の麓にある真浄寺に移築されている八幡台櫓である。正面だけ寺院風に改築されているが近くで見るとまさにナイスな戦国の櫓である。面白いのは櫓の裏までまわって見てほしいのだが、一階の部分が出っ張った作りで付櫓的なデザインになっていることである。これを見るとますますあのL字の櫓台にどの向きで建っていたのだろう?とイマジンが膨らむのである。石垣ではなく土塁の上に建てられていた櫓。移築されたにせよこうして現代まで現存していたことに感謝である。これが本丸に三つも並んでいたのかと思うと笠間城マジで格好良いっす。

笠間城に来城した二度目と四度目は温泉をセットにした小旅行だったのだが、二度目の時に泊まったホテルで従業員にサインをせがまれた。私は基本サインをすることがあまり得意ではない。プロモーション中などでサイン会はやるしキャンペーン中にポスターなどには当然サインするがプライベートはほぼサインをしない。わかってほしいのはあなたにサインを書くのが嫌なのではなく、お決まりごとにように書くサインは必要がない、そう思っているのである。何度も断ったが最後にチェックアウトする時、従業員は言った。

従業員「見てください!あそこのガラス張りのケース!あそこにたくさんの芸能人の方々のサインを頂いてるんです!」

私「いやいや僕は芸能人じゃないですから、ミュージシャンですし、誰も僕のことなんて知らないですし、そんな知らない奴のサインが飾ってあってもハクも付きませんし、」

いやいや!是非中島様のサインも是非あそこに飾らせていただきたいんです!見てください!演歌歌手の方がこれだけいらしてくれましてね!ダメでしょうか?お願いします!そこをなんとか!」

ってな感じのやりとりがずっと続き、結局最後に私が折れて、色紙にサインを書かせていただいた。

私は言った。「刺青してても入れていただき本当にありがとうございました。また泊まりに来ますんで、その時このガラスケースに僕のサインが入ってなかったら泣きますから、って言うか、そうやってサインが増えたら僕みたいな有名じゃない誰だかわかんない奴のサインが一番最初に省かれるんですから、だから書くの嫌なんすよ」

従業員「何をおっしゃいます!ずっと!いやこれはもう永遠に飾らせて頂きますので!本当にありがとうございました!」

それから6年後くらい経った頃だったろうか、また笠間城を観光し温泉に浸かろうとたまたま予約したホテルがそのホテルだった。急に思い出した私は正面玄関からガラスケースに直行した。そこにはまたしてもたくさんのサインが飾られていた。よ〜く、よ〜く、一枚ずつ色紙を見ていった。そこにはなんと!

私のサインはなかった。挽肉にすんぞ。

あぁ 笠間城 また訪れたい…。

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