【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第76回「岩槻城(埼玉県)卓偉が行ったことある回数 4回」

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私のデビュー20周年イヤーのファンクラブイベントの司会をNoGoDのヴォーカル団長が務めてくれた。団長は埼玉県岩槻出身である。バックステージで埼玉の歴史、そして岩槻城の話になり、彼からとても為になる話を聞けた。今まで何度か黒門や裏門を見学しに行ったことはあったがこの度改めて岩槻城をロケ。このコラムで書く良い機会だなと思い執筆した次第である。

埼玉県にはたくさんの城が残っているが、城の大きさ、そして江戸時代の埼玉周辺で(武蔵国)一番の面積を誇る城、それはズバリ岩槻城である。埼玉なら川越城かと思いきやずば抜けて岩槻城がでかい。いや、でかかった、そういう言い方になるだろう。現在の日本の城は明治時代に廃城になり、ほとんどが道路拡張や街の発展の為に埋め立てられて縮小してしまった。中には面影すらない城もある。この岩槻城も武蔵国で一番の城であったにも関わらず、主に新曲輪と鍛治曲輪を残すだけというイレギュラーな埋め立て、そして街開発を余儀なくされてしまった。通常は本丸を残し、外堀を埋め立てるというケースが多いが、岩槻城は城の端にあるこの二つの曲輪が残り、本丸や二の丸、大手などは現在住宅地になっている。住所を見ればわかるが、本丸1丁目から3丁目と書かれた地名になっているのでこの住所になってる場所が当時の岩槻城の中心である本丸だったということである。しかし住所が本丸ってすげえな。


築城期は古く1478年成田氏という説と太田氏という説がある。その後北条氏が改修、城の作りを見ても北条氏のデザインとセンスが垣間見れるのは城マニアとしてもかなり熱い。江戸時代に入ってからは城主が入れ替わり立ち替わり。最後は大岡氏で幕末を迎えている。まずどれくらい広かったかということだが、当時は搦手側の外堀に荒川を利用し、大手側に大構えという土塁と外堀を張り巡らせていた。これの長さが大手側だけで約8キロにも及んだ。現在の皇居ですらジョギングコースとなっている内堀を1周走ると5キロと言われている。現在の新曲輪にも球場があるが、東京ドームで考えても軽く100個以上の広さになるだろうか。団長の実家のトイレの面積で言うと10億個くらいでは足りないか。

とにかく広大な面積を誇る城だったのである。荒川に縁取られた湿地に浮かぶ島を上手く利用し、土を組んで本丸、二の丸、三の丸とし、全方向に堀の役目を果たす水堀という名の沼、この水堀の面積は日本最大との声もある。福岡城の大濠公園の堀もその名残があるが、確かに城全体にこのレベルの堀が巡らされていたと考えたらまさに日本最大の水城だったと言えるだろう。現在の岩槻城址公園に設置されている地図を見るとどれだけ形を変えて埋め立てられてしまったかがわかる。いや、もしかするとイマジンが出来ないほどの変わり様と言えるかもしれない。注目すべき点はやはり新曲輪と鍛治曲輪、そして現存している黒門と裏門だろう。



鍛治曲輪の内側に今でもしっかりとした土塁が残っており、そこには発掘調査で障子堀があったことが判明。これこそまさに北条氏らしい堀と言える。現在は散歩コースとなっていて空堀だったような感じになっているが、これが当時は水堀である。よって現在歩ける散歩道は水堀の底を歩いているということである。しかも安全の為にいくらか埋め立てられており、歩いてる道から更に3メートルも深かったとされる。一瞬喰い違い虎口か?と思わせるところもあるが単純に馬出しの近くの堀だったりもするのでいろんな方向に折れ曲がっているのである。新曲輪と鍛治曲輪の間に走るアスファルトの道路は当然当時はなく、馬出しの土橋を利用してそこから道をぶち抜いてしまっていることがわかる。いくつかの土橋が現在も綺麗に残っていることに感動。鍛治曲輪の中に池があり、赤い手すりの橋が架かっているがこの池は当時の沼であり、堀の名残である。この水堀が荒川の近くまで伸びていたとイマジンしてほしい。曲輪の内側にも更なる段になった土塁がある。現在は公民館が立つ場所も曲輪の跡である。この外側にも歩ける空堀があるがこれも当時は水堀である。

もっとマニアックな見学をお伝えすると、新曲輪には球場とさいたま市民会館いわつきが立っているが、この周りにも実は保存状態が素晴らしい土塁が残っている。ロケ中に勢い余って土塁の上を蜘蛛の巣にやられながら歩いた。その下にはこれまた物凄い面積の平地の曲輪の跡があり、見学した日は物凄い人数の爺様婆様がゲートボールをされていた。この高さのある土塁を下からも見たいと思い、土塁を下るとドクターマーチンのソールがどんぐりで滑って転び婆様集団に笑われた。この土塁の麓の木陰に爺様婆様はゴザを敷き、折りたたみ椅子と荷物を置いてゲートボールを楽しまれていたわけだが、ここをかき分けて踏み込まないとリアルに土塁が見えなかったもので、悪いなとは思いつつゴザを踏まずに土塁を見上げて一人で唸っていたら爺様に痰の絡んだ声で言われてしまった

「何だ!?つみは!?そこで何してんだ!?」

何だつみはってか?と思ったが、大きな声で「城の土塁を見てるんです、僕城マニアなんです」と返したら怪しまれずに済んだ。この爺様は良い人で元の本丸があった場所、大手門があった場所、市民会館の中にある豆腐ラーメンのことなどを詳しく教えてくれた。

「大手門があった場所でもねえのにあのラーメン屋さ、大手門って言うんだよ~ガハハ~!」

と言って入れ歯が外れていた。「とにかくこの辺は沼!とにかく沼だったんだよ!」と連呼。この沼の発音は「ヌメイッ!」であった。

この爺様が言うには当時の荒川はよく氾濫していたらしく、でもそれを見越して防波堤は敢えて作らず、土塁を高く設定していたこともあり、城内に水が入水してきても持ちこたえれたそうな。むしろ水城だけに水の幅が城内に広がって守りが頑丈になったとも言えた。雨が降った翌日などは城内に薄く霧がかかり、城が見えなくなるという幻想的なことがよく起きていたらしい。超COOLだ。確かに当時の平面図をよく見ると新曲輪と鍛治曲輪の城内側は水堀を土塁で遮ってないことがわかる。搦手に広がる湿地帯も水で埋まってしまえばよっぽど水堀が広くなるということまで計算されていたということ。素晴らしく粋な作りだ。現在アスレチックになっている公園も全部水堀の跡であり、まさに水に浮かぶ最強な城であったことがわかる。

当時の姿形を変えてしまっている岩槻城だが黒門と裏門が現存。これはでかい。どちらの門も明治時代に一度城下町に移築されて、昭和になってこの場所に戻ってきた。あまりに城が大きかったことと払い下げられた時のデータが乏しくどこに設置されていたのかがわかっていないがマニアの中ではおそらく黒門は本丸の門として、裏門は本丸の搦手門として使われていたのではないかと推測。黒門が大手門だったという説はマニアからするとデザイン的に違うと思う。まず大手門だったとしたら入口のタッパが低すぎることが言える。馬に乗ってでも潜れることが大手門条件だったりするのだ。どこに設置されていたにせよ、当時を物語る建造物が現存してることは嬉しい。



岩槻の街も道路だけを良く見て見ると完全に城下町の名残がわかる。城内を突き抜けた道と現住所の本丸周辺の道以外は現在の街の道がほぼ当時のままの地形と言えるだろう。団長から聞いた話だが、埼玉は明治維新の頃、この岩槻の街が県庁所在地になるはずだったという。だがこの城下町を最初はなかなか上手く開発出来ず、住みやすさも含め武家屋敷から動く人も少なく、仕方なく土地が空いていた浦和に仮住まい的なノリで県庁舎を建てた。仕事する時は浦和まで行き、岩槻に帰るという流れである。だがそれがいつしか浦和が発展しだし、岩槻に帰ることなく浦和に人々が移り住むようになってしまった。そもそも浦和も東京にはまだ遠く、それならば東京の板橋からすぐの大宮周辺に移り住もうという動きになり、県庁所在地は浦和のまま大宮が一番栄えるという現在の埼玉県が出来上がったとのこと。当時の岩槻の住民は岩槻の街を壊されたくないという想いもあったかもしれない、だが結局大正時代の発展、そして戦後の時代の流れの中で現在の岩槻の地形に発展していくことになる。もし早くから岩槻が県庁所在地として発展していたら現在の埼玉の中心は間違いなく岩槻だったと言えるだろう。正直浦和と大宮には戦国や江戸の歴史がない。もともと武士が住んでいたわけではない街なので歴史が根付いていないのである。これもある意味面白い埼玉県の歴史の移り変わりと言えるだろう。

岩槻ご当地グルメとして、先ほど触れたさいたま市民会館いわつきの中にある大手門というラーメン屋さんの豆腐ラーメンをご紹介。このラーメンは埼玉県B級グルメでNo.1になっている。団長に教えてもらい早速混むことを予想して午前中の11時半に行ってみた。もう行列が出来ていた。シンプルな醤油ラーメンに大きめの豆腐一丁くらいがランダムに切ってド~ンと乗っかっており、それが辛くないあんかけになっている。そこにネギとわかめという組み合わせ。麺は縮れ麺で団長のビブラートと同じくらいの周波数で波打っている。これめちゃくちゃ美味い。全然B級グルメじゃない。是非食べていただきたい。店内には同じく岩槻出身のTRFのSAMさんのサインがあったが、出来ればNoGoDのファンの方々、彼らからもらったサインを無理やりこのラーメン屋に置いてもらうように頼み込んでくれ。


そんなNoGoDは今年の12月23日の団長の誕生日にこのさいたま市民会館いわつきでライヴを行うそうな。団長ならいつかは岩槻の親善大使になれるはず。まずは地元でライヴすることで親善大使のポストに近づくはずだ。岩槻は人形の街でもあるので団長の人形が街に溢れる日もそう遠くないはず。その時は団長の人形の顔をわざとしゃくれた感じにして、キャッチコピーを「人形は顔が命」ではなく「人形は顔が猪木」にしてほしいと思う。地元岩槻にて、一家に一体、幸せの団長人形、これは夢じゃないぞ。こういうのはちびっ子に絶対にウケる。12月23日は岩槻城、豆腐ラーメン、NoGoDのライヴをセットで楽しんでほしい。きっとこの日のSEはTRFの「EZ DO DANCE」で登場してくれると思う。この日の気温が低かったら「寒い夜だから…」になるかもしれない。

NoGoDは、そして団長は今後もやってくれると思う。演奏力も歌唱力はもちろんのことメンバーの人間性が素晴らしい。何よりライヴにおけるファンの方との信頼関係、コール&レスポンスも素晴らしい。ジャンルの滲む場所に立ち活動するバンドは長い目で見ると絶対に強い。悪魔をテーマにしたKISSがそうだったように、正義の味方を装うバンドやアーティストよりもカルチャー的な存在の方が長く愛してもらえるはず。それが人間の深さでありジャンルの奥行きなのだ。タモリさん、みうらじゅんさん、大槻ケンヂさん、その先はきっと団長が来る。そもそもNoGoDっていうバンド名が振り切っててとても良い。最高にアナーキーだ。

最後に、団長と対談させてもらった時に、2ショット撮影をするにあたり、彼はその場ですぐメイクをするという。じゃあ1時間くらい休憩にしましょうかと言ったら「3分で出来ます」と団長。いやいやそんな急いでやることないからゆっくりやってよと伝えたが「3分で出来ます!お待たせしません!すぐ仕上げますから!3分もらえれば大丈夫ですから!」と言う。するとすぐさまメイクを仕上げた団長。手際の良さも素晴らしかった。が!私は測っていた。団長の3分で出来ると言うメイクはその時、

4分8秒かかっていた。

あぁ 岩槻城 また訪れたい…。


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