【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第78回「菅谷館(埼玉県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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日本の城には城と呼ばず館の跡と呼ぶものも存在する。福井県の一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館が一番有名か。関東では埼玉県に最高の館が残っている。館と言っても基本は城である。呼び方の違い。ジョン・ボーナムをボンゾと呼ぶか、リチャード・スターキーをリンゴ・スターと呼ぶか、ロナルド・レーガンをロン。中曽根元首相をヤス、と呼ぶかの違いくらいなもんである。

もちろん菅谷城と呼んでも構わない。この城は畠山氏の居城となってはいるが現在の形に改修したのはおそらく北条氏であるという説がある。もっと歴史を辿ると鎌倉時代まで遡り、源頼朝の時代の戦の話になるという。どうしても確実な歴史が伝わってきていないため誰がどの時期にどのようにして作ったかは言い切れない。

だが城マニアからしてみると現在残っている城の作りはどうしても北条の匂いがプンプンする。ベールに包まれたこの感じがまた良いではないか、これこそが歴史のロマンというもの。あなたのイマジンあっての歴史、菅谷館ということである。

何が凄いってまずは土塁だ。これをナイスDと呼びたい。空堀も凄い。こちらはナイスKBだ。大概城ロケではこう呼んでいる。近年日本の城の石垣が崩れ落ちるなどのニュースが後を絶たない中、石垣よりも歴史の古い土塁は壊れることがまずない。これは本当に凄いことだ。保存状態が良い場合もあるが1500年代から今日まで土塁が崩れることなく残っていることに拍手、人力でこしらえた防御がこんなにも長く残ることに感動、まさにデビューしてから20年体型も体重も変わらず活動している中島卓偉のようだ。


現在は絡手口にある駐車場から見学コースが作られているが、ロケで訪れた時に国道からこの絡手口に曲がれず通り過ぎてしまった。すぐ次の角を曲がったわけだが、そこから三ノ郭、西ノ郭の外堀を縁取るように走った。これがまた凄いクオリティなのだ。堀こそ若干埋まってしまいその深さは浅くはなっているがその幅は健在、そして土塁の高さ、もちろん保存状態、三ノ郭と西ノ郭の間にある堀切のVの字の見事さ、まさにTHE BLACK CROWESのアルバム「amorica.」と同じVラインである。あのハミ毛と土塁の雑草がどうにもこうにもリンクしてしまう。車で来られる場合は是非この道を走って見てVを感じてほしいと思う。


大手は西ノ郭のサイドにある。あまり大手という感じがしないのはきっとまだ建築途中のまま城が落ちてしまったことが言えると思う。戦国時代はいつ攻め入られるかわからない日々の中で、それでも増築や補修を続けなければならない。暮らしを優先して本丸から頑丈に作っていくので、大手や城の外側、外堀がどうしても後回しになってしまう。後回しと聞くだけで音楽業界の卓偉の扱いとリンクしてしまう。正直大手側の防御が薄いのは否めない。だがもし大手が出来上がっていたならどれくらいの規模、どれほどの頑丈な守りになっていたのか、そういうこともイマジンしたい。

菅谷館は長野県の小諸城と作りと地形がとても似ており、大手よりも本丸の方へ向かって勾配が緩やかに下がる。本丸の裏にある都幾川、外堀も当時は槻川という川であり、現在の国道254号線が川であったと思っていただきたい。今でも道路の下を川が走っており、城の両サイドを縁取る空堀の中を水がかすかに流れているのを確認出来る。この音楽業界でかすかに活動していることが確認出来る卓偉とリンクする。都幾川から見上げると丘の上に立っているので平山城と言えるが、大手から本郭を目指すと完全な平城にも見えるところが特徴だ。その両サイドを縦に川が流れており、崖を利用した空堀&水堀と言ったところか。当時は本郭の堀以外は全部水堀だったとも言われている。確かに槻川が城内を流れているなら水は引きやすかったはずだ。



城の作りとして面白いのは搦手門の位置である。平面図を良く見るとこの場所こそ大手だったんじゃないか?と思ったりする。入口が水堀と空堀の二重堀になっていることもそうだし、土橋も太いし、道幅もある。三ノ郭の土塁の高さも半端ない。ただ、ここから入ると確かに本郭にすぐ行けてしまうので防御的にやっぱり違うのかとも思う。

西ノ郭にあった大手から入ると、三ノ郭に入る堀、門の虎口、何より土塁の高さ、これは確かに凄い。現在は木橋が復元、そのまま三ノ郭を横切り、二ノ郭へ橋で渡り、本郭に入る道順にもちろん納得もする。話は戻るがそう思ってしまうのもやはり大手が完全に出来上がっていなかったということが言えるのかもしれない。搦手の位置も本来なら本郭の裏にあって当然、もしかすると本当の搦手門の位置もこれからだったのかもしれない。デビュー20年経っても一度も売れてないので、まだまだこれからです!とライヴで発言し、20年経ってもこれからってどういうこと?と自分で自分にツッコミを入れたくなった卓偉とリンクする。

本郭の横に生門跡があるが、その先は崖になっており、出口のない門になっているので、もしかしたら川を跨いだ外郭まで何かしらの導線を作ろうとしていたのではないだろうか?橋を架けることも考えていたかもしれない。出口のない門って聞いただけでなんだか今の卓偉の活動と相当リンクする。

そもそも城をどういう場所に建てるかで武士達も仲間内で何度も話し合いをする。幹部達が集まり、ある程度中身を固めたところで殿様に伝え許可を取る場合もあるし、殿様が全て命令して一気に作らせる場合もある。余談だが、織田信長公は天守(信長公の場合は天主)を作るにあたり、大工達にデザインを募集させ、模型を作らせ、それを信長公に直接プレゼンし、そこで信長公が決めたものがめでたく建設されたという歴史が残っている。城の場所となると天守以前の問題になるのでまずは立地条件、眺め、近くに川が流れているかどうか、自然を利用した上での防御が整っているかどうか、卓偉ほど才能があるかどうか、などが検討される。これを殿様を囲んで幹部達で検証し合うのだから色々と問題も起きただろう。

「そんな作りじゃ攻められやすい!」
「いや、防御出来る!」
「山が高過ぎて毎回上り下りするのが面倒で暮らしづらいではないか!」
「それはお前の体力の問題だろ!」
「だいたいお前殿にイエスマンなんだよ!」
「お前こそ年功序列なだけだろがい!」
「そもそもそのホクロがムカつくんだよ!」
「うるせえ!お前毎日口が臭えっつうの!」
「お前のちょんまげこんにゃくみてえだな!」
「お前のちょんまげなんてういろうみてえじゃねえか!」
「お前8ビートは全部ダウンピッキングで弾けよ、ちっともPUNKじゃねえな!」
「お前のリズム感全部跳ねてねえんだよ、それでグルーヴとか抜かしてんじゃねえぞ!」
「THE CLASHはLONDON CALLINGまでとか言ってるやつは嫌いなんだよ!」
「LED ZEPPELINをメタルやハードロックとか言ってるやつもよっぽど嫌いなんだよ!」
「だいたいお前のマスタッシュ、サージェントペパーやフレディーな感じじゃなくてむしろ夏目漱石だろ!」
「お前良い歳ぶっこいてほじった鼻くそ食ってんの知ってんぞ!」

などなどいろんな意見を一つにまとめて城を建てるのである。それを代々受け継ぎ、増築、補修を重ねるのである。なので現在ある程度残っている城はある程度守りが固かったと言えると思う。

日本全国いろんな城を見てきたが、北条氏の城、いわゆる中世の城は本当に素晴らしい。私も最初は石垣の城が好きだったが、ルーツを辿っていくと中世の山城や平山城に魅せられた。防御に命懸けなところ、敵に対していかに意地悪に見せるかが素晴らしいと思うのだ。それを人力で作り上げていたという事実。アイディアも脱帽だ。なので江戸時代に入り、戦がなくなり、住む為だけのものになってしまった頃に建てられた城は正直そこまでくすぐられない。

関白豊臣秀吉の関東小田原攻めにより北条氏は降伏。それまで関東にたくさん作られた北条氏の支城は全部攻め落とされて全て廃城。徳川家康公が天下を取る頃、こういった城を廃城にするか、誰かしらに継がせるかで城の運命が決まった。北条氏は関東を支配していたことで東北からも北陸から駿河からも、そして太平洋側の海からも囲まれた位置におりその勢力を広げていくのに限界があったのかもしれない。


どんなに支城をたくさん作っても、滝の城や八王子城のように攻められた時に兵士が足らず、簡単に落ちてしまったケースもある。領地の広さより兵士の数をいかにたくさん持つか、これが大事だったのだ。もしかすると支城を作りすぎてしまったことも言えるかもしれない。これほどまでに良い城を建ててきた北条氏であるが秀吉に滅亡寸前まで追いやられてしまう。北条氏が建てた城が江戸時代まで、有り得ないイマジンだが幕末まで残っていたら今日の歴史も変わっていただろう。いやしかし素晴らしいのである。ここに私、北条氏が建てた城の大ファン宣言をしたいと思う。隠れ中島卓偉ファンが多い中、敢えて私は北条氏の城フリーク宣言をしたい。まだまだ北条氏の城跡で見れてない城がたくさんある。勉強したいと思う。

そんなわけで2018年も師走となり、来年は当たり前だが2019年だ。このコラムもおかげさまで78回目、当たり前だが次回は79回目となる。濃い胸毛をかき分けると当たり前だが乳首となる。その両乳首からセンターに下がってくるとヘソ、そこから真下に下がると当たり前だがどうしても股間となる。ここで改めてTHE BLACK CROWESのアルバム「amorica.」と非常にリンクする。とてつもなくリンクする。


私のこの文才、誰も注目していない。以前にも同じようなことを書いたことがあるが、この連載を始める頃、我が事務所社長は言った。

社長「卓偉!これ面白いから続けたら絶対に本にしようや!」
私「どれくらい書き溜めたら本になるんすかね?」
社長「そんなの50回でも書いたらすぐだろ!」
私「言いましたね?」
社長「もちろんだよ!本が出たら紀伊国屋でサイン会だな!ガハハハ~!」

こないだ社長に「もうとっくに50回超えたんすけど」と伝えると、

社長「俺、そんなこと言ったっけ?」
私「言ったじゃないすか~!」
社長(超笑顔で)「う~ん。でも時代やマーケットってのは常に移り変わっていくからな」

私も社長くらいの年齢になったらよくわからないことを言う嘘つきになろうと思う。

あぁ 菅谷館、また訪れたい…。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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