【特集 vol.4:対談】植田真梨恵×阿部真央、「迎合しないし、できない。そういう人、好きなんです」

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■美しいJ-POPというものは書けていない
■と、今も思っていますね──植田

阿部:曲を聴いてそう思ったんですね。それと、私もそうなんですけど、元々シンガーになりたかったというルーツのある人が、今は自分で曲を作って歌っているシンガーソングライターになっていることが非常に面白いというか。

植田:それこそオーディションの時に阿部真央さんを見て、“うわー、こんなに歌が上手い人がいるんだ”って、“負けた!”と思ったんです。“ここでは仲良しになっちゃダメだし、私が勝ち進まなければいけない”という負けん気は、オーディションを受けていたその頃に培われてしまったものかなと思うんですけど、そんな中でも“負けた!”と思ったんですよ。すごい存在感があって、いい意味で浮いてたんです。マットな質感の存在だったんですよ。

阿部:言われるたびに、心がエグられるわ(笑)。

▲植田真梨恵×阿部真央 画像ページ (※画像8点)

植田:ほんとにほんとに! ただただ歌を唄うことを全うしているという存在感が強くて。それで、19歳の時にテレビ番組で「こんばんは、阿部真央です」っておっしゃっているのを観て、“あの時の人だ!シンガーソングライターになったんだ”と思って。その時、私は19歳で『葬るリキッドルーム』をリリースした頃だったので、私もシンガーソングライターとして活動していて、同じ九州出身で同じようにずっと頑張っている人がいるんだなと思って、すごく嬉しかったんですよね。

阿部:負けん気、強いんですか?

植田:強いんですよ。もう嫌で。そういうところが本当に嫌なんですよ。

阿部:なんで? いいじゃないですか。必要ですよ、絶対。

植田:自分との戦いとか、何にも負けないぞ!と思ってステージに立つのは必要だと思うんですけど。いっぱい損もしてきたと思います、20代前半は特に。自分で嫌だなと思うところです。阿部さんはどうですか?

阿部:私はけっこう弱いです。真梨恵ちゃんは、「オーディションとかで負けん気が培われたかも」っていうことですけど、私は逆に、自分の弱さを思い知らされた気がして、“もう二度とイヤ”と思ってましたね。そういう意味では、負けん気が強いというより、非常にプライドが高いんですよ。自己評価が異様に高い、昔から。誰かに負けたというよりは、自分が評価されなかったというところにすごくフォーカスしちゃって、だからもっと危険かもね。爪を噛んで、“クソー!”みたいな感じ。負けん気は外に向かうけど、私の場合は内に向かうエネルギーなので、大変でした。今も大変です。

▲植田真梨恵 画像ページへ (※画像7点)

──さっきの話、そもそもシンガーになりたかった子が、ふたりともシンガーソングライターになったというのがすごく面白いです。

植田:阿部さんとオーディションで一緒になったあとも、私、オーディションを受け続けていたんですよ。

阿部:一緒。私も受け続けてた。

植田:ひたすら受けては落ち続けて、中学校3年生のときにやっと受かって。その会社が大阪にあったので、高校1年から大阪で一人暮らしを始めたんです。“さあ、ここから毎日忙しくなるぞ!”と思っていたんですけど、意外と時間があって(笑)。週3日1時間のボイストレーニングと、ギターレッスンを入れてもらって、でも、そのほかはすごく暇で。“どうしよう?”と思って、バイトしながら、高校は通信で行って頑張っていたんですけど、“このままだと何にも繋がらないものになる”と思っていた頃に現マネージャーと出会って、「曲を書いてみたら?」って勧められて、書き始めたのがきっかけです。

阿部:それで書けるのがすごいと思う。

植田:“これでできているのかな?”とずっと思っていました。今でもそう思ってます。私の気持ちとシンクロしたものはできているけど、美しいJ-POPというものは書けていないと、今も思っていますね。

阿部:美しいJ-POPね……。

植田:それまでは誰かが作った歌を、歌の上手い人が唄うものが好きで、シンガーソングライターとか、バンドとか、そういうふうに音楽をしている人たちのことを、中学時代の私は、“すごく楽しそうに音楽をやっている人たち”と思っていたんですよ。それは歌手として自分が唄っていく歌とはまた別のものと思っていたようなところがあったんですが、むしろそういう趣味で聴いていた音楽だったり、友達との共有として聴いている感覚だったものが、いざ自分が曲を書くとなった時には、むしろすごく力になったというか。“私もあんなふうに、聴いてて楽しい曲とか、その人のリアルな気持ちを歌う曲を書きたいな”と思ったりしました。阿部さんはどうですか?

▲阿部真央 画像ページへ (※画像7点)

阿部:シンガーソングライターになったきっかけ? 中学3年生まで、私も同じようにオーディションを受けてたんですけど、全部ダメで。でも音楽にはしがみついていたかったし、当時、アヴリル・ラヴィーンが大好きで、アヴリルのカバーができるようになりたくて、中3までやっていたピアノをやめたあと、楽器店がやってるギター教室に移ったんですよ。高校入学と同時に。それで高校1年生の終わりに、練習してたらたまたま1曲できちゃって、そのあともう1曲ワンコーラスだけの曲を作って。それを楽器店の店長が聴いて「コンテストに出てみないか?」って押してくれて、出場したのがヤマハの『TEEN’S MUSIC FESTIVAL』だった。最初にできた曲はほかのコンテストで歌っていたので、ワンコーラスしかできてない曲で出場して、九州大会が終わった時にヤマハのディレクターに声をかけてもらって、「コンテストの結果とは別に、デモテープを一緒に作らないか?」と言われて、「とりあえず今歌ってる曲を1曲に仕上げなさい」と言われてできたのが、今もライブで歌ってる「母の唄」なんです。それがきっかけですね。だから私も、高2ぐらいで「えー、曲書けるのかな?」っていう感じだったんですけど、「とりあえず思ったことを書けばいいよ」って、すごく自由な感じのディレクターだったので、書けたんでしょうね。それで高校卒業と同時に上京して、次の年にデビュー。良かったね、デビューできて(笑)。

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