【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第83回「興国寺城(静岡県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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歴史が入り組んだ謎の多い城である。今川氏、武田氏、北条氏で奪い合いを繰り返していた城である。静岡という場所は海も山もあり、東海道が通っているので絶対に抑えたい場所だったのだ。

諏訪原城、高天神城、丸子城でも書いたことだが、この地を自分の領地に出来るかどうかで天下を取れるかどうかが変わってくる。よって静岡には良い城がとにかくたくさんある。地元の歴史の伝え方としては北条早雲の最初の本拠地ということになっており、本丸跡には石碑も立っている。最初にも述べた通り歴史がはっきりしない分謎の多い城なので、この城が誰の城のデザインかがわかりづらい。

江戸時代に書かれた絵図が残っており、それを見る限りでは北曲輪の上、そしてその横にあったはずの清水曲輪が描かれていない。もっとも二の丸から本丸にかけた場所に三日月堀が発掘され(堀が深くて危ないのでもう埋められてしまった)、三日月堀があったとするなら武田の城でしょという言い方をするマニアも多い。確かに三日月堀を作っていたのは武田氏だけなので感慨深い。こういう絵図も正直当てにならないことの方が多い気がする。よって決め付けたことを書くよりも、やはり私は私のイマジンを元に、こうだったんじゃないか?そういう表現で広げて行きたいと思う。1400年代半ばくらいに築城されたとの説、今川氏が最初なような気もするが北条早雲が韮山城よりも先に最初本拠地にしていたというのは事実。どれもこれもロマン溢れる話ではないか。そこはあなたのイマジンで楽しんでほしい。


この城の魅力は何と言っても本丸の裏、北曲輪の前にある大空堀、大堀切だろう。まずこれにビビる。正面からすると天守台の石垣が見えたり、両サイドにクワガタのような土塁が見えたりして普通に良い眺めの城だなあってな訳だが、この深さを目の当たりにすると「え?なんで?」とマジでビビる。これは事件だ。まずこれだけ深い堀切が、これだけ凄まじい空堀があることを全く想像出来ないのである。エド・シーランや卓偉が可愛い人懐っこい顔をして全身にTATOOだらけなのと同じである。極端にも程があり、唐突にも程があり、外からは全くそれを感じさせない仕組みに脱帽、そして圧巻である。深さは20メートル近くあるそうだ。堀の下も導線として歩けるようになっている。


ここ最近見た城の空堀の中でダントツでNo.1だった。形がV過ぎる。ハイレグ過ぎる。草木が茂ってハミ毛も溢れ出す。まさに空堀グラミー賞である。この堀を見るだけでも価値がある。外側からは想像が付かず、裏を見るとここまで極端、まさにおぼっちゃまくんの中に出てくるびんぼっちゃまくんを初めて見た時と同じ感覚である。


この大空堀、両サイドまで切れており、西側は曲がりくねって外に出る。その先は当時、沼であったそうで、いわゆる湿地帯、それを堀扱いしていたそうな。途中横穴が三つあるがこれは第二次世界大戦の頃の防空壕の跡とのこと。危ないので入るのはやめよう。反対側は途中で二本に堀が分かれる仕組みになっており、やはりその先も沼、湿地帯という名の堀だったことがわかっており、当時は船着場もあったとされる。城内を歩くより、そのまま大手の方まで船で下った方が外に出やすかったのだろう。なかなか粋な作りである。現在もここを通って水が城内を流れている。

そもそも北曲輪の先に新幹線が通っているが、ここも当時は外堀だったとのこと。もしかしたらここも相当な大堀切だったと言えるかもしれない。小幡城や江戸城などをはじめ、外堀が高速道路になってしまう場合、そして電車が走ってしまう場合がある。

興国寺城もまさにそれ。これからもひっそりと応援させてもらいます、という場合。陰ながら応援していますなどと言われる場合がある。中島卓偉もまさにそれ。陰ながら応援、ひっそりと応援は応援のうちに入らないとどんなバンドもアーティストも思っているので私が代表して言わしてもらうわ。みんなが言えないことを私が言わしてもらうわ。それで私が汚れようが構いませんわー!

今回もtvkのロケで来城させてもらったわけだが、季節も夏前ということもあり草木や雑草がボーボー。正直北曲輪と清水曲輪は歩いても縄張りをしっかりと把握出来ず終いだった。やっぱり土の城は草木が枯れた冬がお勧めである。にしても新幹線が通っている場所こそ外堀だとイマジンするだけでとても上がる。真裏は富士山、なんだか凄い場所に建っていた城だったんだなとしみじみ。山の中腹に、山をバックに建てられた城が結構好きかもしれない。すげえ金持ちの娘で、いくらでも奢ってくれる女が結構好きかもしれない。


この北曲輪と本丸の導線だが、橋が架けられていた場所や面影がどこにもない。徹底した防御だと言える。もっとも天守台は現在の音楽シーンと同じくらい全く奥行きがない。小天守とも言える西櫓台まで細い土橋になっており、天守曲輪と言った方がしっくり来る。この曲輪もとても面白い作りをしている。この辺の城、この時代の城には珍しく天守台には石垣が設けられている。と言っても正面だけではあるがこれがまたとてもイケている。現在は石が半分近く崩れており、その石は真下にある神社の石として再利用されていたり、天守台の基礎石として並べられている。発掘調査で瓦が出て来なかったとのことで天守というより全部木で作った物見櫓的なものが建っていたのではないか?と言われている。まあでも当時取り壊す時に綺麗に片付けたってこともあり得る。高取城の天守台の下のように今でも割れた瓦がそのままになっている場合もある。そこもイマジンしたいところだ。たとえ小さな天守だったとしてもここからの眺めは半端ない。城下町をまっすぐ突き抜ける興国寺城通りが見えるし、海までも見渡せる。城下は根古屋という地名なだけに家臣が住んでいたことがわかる。城下が根古屋という地名で現在も呼ばれている場合は大概が武家屋敷の跡である。


大堀切に話を戻すが、現在の興国寺城を正面から見ると両サイドに土塁が伸びている。だが当時は本丸と二の丸を区切るように土塁が囲んでいた。現在は土塁が正面の部分だけ撤去されている。おかげで天守台の石垣が正面から見渡せるようになった。

この手前に三日月堀が発掘されたのであるが、そもそもこの土塁。土の量を見る限り、もともとここにあった土とは思えない。というのも大堀切の掘った土をここに盛ったんじゃないかと私は思うのだ。堀ったならその土を盛って土塁にして一石二鳥なわけなので、本丸をより高くするよりも本丸の両サイドを固めるために土を盛った、そんな気がするのである。いや、私のイマジンは当たっている。お前も結局てめえで決め付けとるやないか。

現在は駐車場のスペースになっており、城内にアスファルトの道が伸びているが当時はしっかり土塁で虎口になっていたことが絵図でわかっている。大手も県道に対して正面ではなく清水曲輪側に虎口になっていてそれを水堀が囲んでいた。県道の先にも現在もちょっとだけ土塁が残っているのが確認出来る。湿地帯に浮いた丘を城にしたこともあり自然の防御は完璧だったと言える。


だが1607年に城は廃城。天下統一を果たした徳川家康公は静岡の城を軒並み廃城にする。江戸で政権を握るにあたり、駿河に、東海道に、このレベルの城があってはいけないのであった。家康公は得に武田氏の血が入った城を徹底して廃城にした気がする。若い頃に信玄公に戦で敗れた経験がそうさせたのだろうか。武田氏の怖さを身に染みて分かっていた家康公だからこその指示、行動だったと言えるかもしれない。三方ヶ原の戦いで武田信玄公に命辛々追い詰められ、ビビって糞を漏らしてしまった若かりし頃の家康公。その情けない自分を絵に書かせ、その絵を見るたびに今後絶対に戦に負けてはならぬと自分を鼓舞してきた家康公。ロケの帰り三島駅のレンタカー屋でスタッフが手続きをしている時に軽く屁をこいた私だったが、軽くのつもりが軽く実が出てしまった。ロケでは着替えにいつもパンツを持って行っているので、トイレで軽く着替えた。男には軽く屁をこいたつもりが軽く実が出てしまうことがある。彼氏、旦那に聞いてみてくれ。軽く屁をこいたつもりが、実が出てしまうことってある?と。あるよと即答出来ない格好付けた男は嫌いである。少なからず私の友達界隈では軽い屁のつもりが軽く実が出てしまったことを「負けた」と言う。使い方としては、「軽く屁をこいたつもりがちょっと負けちゃったんで着替えて来ていいすか?」である。なんの話だ。

あぁ 興国寺城 また訪れたい…。

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