【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第84回「芥川山城(大阪府)卓偉が行ったことある回数 1回」

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大阪は高槻にある山城、大阪にある山城では一番の大きさを誇る城である。天下人、三好長慶の居城、そうなのだ、織田信長公よりも前に天下統一を目指した武将がいたのだ。

戦国時代は当然ながら戦が日々行われ、自分の領地を守る意味でも命懸けの毎日だったわけだが、どんな武将も攻めて来られたら戦わないといけないという気持ちの方が強く、誰しも全ての領地を自分の物にして天下を取るぞという目論見はそこまでなかった。そんな時代に三好長慶は1500年代中期よりも前にこの天下統一を目論んでいた武将だったのである。この時点で関西の地を統一し、京都にも近いこの場所で城を構え、戦で持ってもっと領地を拡大していこうと計画していた。言わば天下統一の先駆者なわけである。


そもそも三好長慶という武将の前に天下統一というフレーズは出て来ていない気がする。歴史の教科書にも三好長慶こそ天下統一の先駆者とは書かれてはいない。若かりし信長公もこのフレーズを聞き、野望をより大きく掲げたとも言われている。三好長慶はこの城に7年ほどしか住んでおらず、御隠居の意味も含め息子に芥川山城を譲り、飯盛山城を築城しそっちに移っている。だが息子が若くして病死、翌年に自分も病死してしまい、三好氏は若き信長公に敗れてしまう。戦国時代の猛スピードの展開と共に歴史から聞こえなくなってしまった三好氏、そして芥川山城。だがここ最近続日本の名城にも選ばれ(当然だろ、遅すぎるわ)、その評価は高まっている。そういう名城を全力で紹介するのが私の役目だと思っている。こういう想い、私のファンに伝わらんか…。

この城の作り、そして縄張りは織田信長公に多大な影響を与えたと言っても過言ではない。特に安土城に影響をもたらしたと言える。土塁、言わば土で作った城の時代から石垣の時代へ移り変わろうとする頃に現在の形になったとされる芥川山城だが、この縄張りにしたのがまさに三好長慶。ソロでありながらバンドサウンドで追求し、ソロアーティストのロックの道を切り開いたのがまさに中島卓偉。城の在り方、作り方、魅せるという威嚇も含め、素晴らしいアイディアが施されている。


まずは何と言っても大手門の巨大な石垣だ。大手道の急な坂道を登って行くと山の急斜面に突如現れるのがこの大手門石垣である。現在は残念ながら半分ほど崩れてしまってはいるが、登って行く道の先に遠くからでもわかる石垣が組まれているのを見ると十分な威嚇になる。しかも城内の石垣でこの大手に使われた石が一番大きくごつい。大手の道を真っ直ぐに作り、その先に天守が見えて威嚇するというのはまさに安土城の大手道と同じである。数々の武将がこの作りを真似て築城している。石垣が崩れてしまっているのでイマジンがしづらいが、この大手門は虎口ではなく正面の門だったと言うことでよろしいか?いや、実は石の中を潜らせた櫓門だったかもしれない。この石垣だけでも復元してほしいものである。高槻市でなんとか!山城にこれほどの石垣のスケール、観光客が増えること間違い無しだ。そうすれば高槻に金が落ちる、悪くねえな。


城内もとにかくたくさんの曲輪が存在するが、これは全ての家臣を住まわせる為に作られたとされる。本当に曲輪が多い。完全に曲輪祭りだ。曲輪を固めた石垣も見事。段々畑のように石垣が組まれており、よく見ると石垣が切れている場所があり、そこが入り口だったことがわかる。この当時に築かれた城はほぼ山城で、家臣も皆山の上の城内に住むことが基本とされていた。城は見張り台であり、住むとなったら城の麓というのは江戸時代に入ってから。むしろちょっとでも高い場所にある曲輪に住めればステイタスだったことだろう。

城内に残る曲輪群を覗くと、池が残っていたりする。え?こんな山の上にこんな池があるのか?とビビる。戦いに備えることも大事だが暮らす上でも楽しくなくてはならないという美的感覚を持つ三好長慶なりの余裕、もしかすると女性や子供に対する配慮、そういった目論見が感じられる。とにかくみんなで城に暮らす、この時代はみんなそういう城の作りをしている。江戸時代になると城下町が整備され、家臣は皆城下町の土地と家を与えられ、仕事をしにいく時に城に顔を出すというスタイルに変化して行く。また安土城の話に戻るが安土城こそ本丸に到達するまでたくさんの家臣の屋敷跡が残っている。殿様こそ、自分の城に家臣をいかにたくさん住まわせるかがステイタスだったということである。確かに安土城は総石垣で凄いが、山のスペース、曲輪の数、はっきり言って窮屈に作られていることは否めない。暮らしやすさに欠けていた気がするのだ。そう考えたら信長公がお手本とした芥川山城はその辺の不具合さが一切感じられない。実によく考えられていると思う。


東曲輪の途中に山城としては考えられないほどの大きな多目的スペースがある。ここで何をしていたのかをまたイマジン。ちょっとした集会?キリシタンも認めていた三好氏だけにお祈りの為の広場だった?などなどイマジンは尽きない。山に登るまではそこそこ大変かもしれないが城内はそこまでアップダウンがなく移動しやすい。それもみんなで暮らす城として持って来いな地形だったのかもしれない。しかし芥川山城、石碑には城山城など、三好山、など、いろんな呼び方が多過ぎる。そこは芥川山城で統一していただきたい。卓偉のことを、天才、鬼才、パイオニア、カリスマ、KING OF PUNK、歌唱力の化け物、城の親父、芥川賞候補作家、などいろんな呼ばれ方がある。そこは統一していただきたい。いや、今のままで自由に呼んでくれて構わねえけど、さっ!全部間違いじゃねえから、さっ!

本丸も山城とは思えないほどのスペースを確保している。発掘調査で基礎石が発見され、御殿などが建っていたことがわかっている。本丸は石垣はなく完全な土塁で固めているが、もしかしたらまだまだ改修する予定もあったかもしれないので信長公よりも先に総石垣の城になり得たかもしれない。ここからの大阪の街の眺めも最高で、天下取りの城として申し分無い。天守閣こそなかったらしいが、コーナーには櫓もあっただろうし、二層の櫓だったとしても相当な眺めだっただろう。城の裏は山に囲まれてはいるのだが、その谷を縁取るように芥川が流れており、これが見事に外堀の役目を果たしている。立地条件が素晴らしい。城の正面から見て大手側の右端が搦手とされているが、大手と搦手が同じ向きにあるのはおかしい気もするので、やはり、東曲輪の裏導線か、本丸の裏の抜け道を搦手とした方が正解かもしれない。


現在は城の半分が所有地になっていて、金網で入れない場所があるのがちょっと残念ではある。金網や有刺鉄線を乗り越えるのが私のPUNKスピリットであったが私も40歳で人の親、しかもこの城に来れたのはtvkの城ロケ。そこは感謝がなくてはならないし、現代の世間が大好きな正しい人になりすまし見学。良い子は「生きよう…有刺鉄線を払い、培ったHAPPY、GET BACK 1978」と言う歌詞に感銘を受けたんで無理ですー!とかは言わないように。

この城特有の竪堀ならぬ竪土塁なども存在する。これは石垣の城で言ったら登り石垣や、土塁の城で言う所の仕切り土塁のようなもので、それが急斜面に縦に伸びている構造だ。素晴らしい。要は登ってきた敵が横に避けられなくするために遮断する役目を果たすわけである。縦にも横にも攻められない工夫が施されているというわけである。大手の両サイドにも出丸が設けられ、見学した時はその出丸に行く道がわからず断念したが、大手から来る敵を両方向から仕留められる仕組みになっている。そこにもでかい土塁や空堀が存在。山城は敵に登って来られたら一気に攻められてしまうので、いかに登らせないかが物を言う。竪堀の配置、土橋の両サイドの堀切の深さ、どれも見事である。


戦国の山城はいつ攻められるかわからないという危機感が漂っているが、芥川山城にはそれプラス美的感覚が感じられるところが個人的に素晴らしいと思う。戦のことを考えすぎて窮屈になるのではなく、心に余裕を持ち、楽しく暮らす、そういう発想力を持った武将の城だったからこそ名城と言えるのではないだろうか。後継の急死、自分も病死してしまうことで運が遠のいてしまった三好氏。それがなかったら歴史は全然変わったものになったはず。全てにおいてパイオニアだったとされる信長公にもこうした影響を受けた武将がいたという事実。歴史の教科書に絶対に書かれないことだが戦国歴史ファンは知っているのだ。どんな人も必ず影響を受けた人間がいる。それが自分の親じゃない場合も多い。それをまんまコピーするのではなく自分のアイディアも取り入れながら新しいものにして作り上げる。歴史はこうして発展していったのである。何が言いたいかと言うと、最初に真新しいことや物を作り上げた人は大抵有名にはならず、それを次にコピーした人間が成功する、これ世の常である。よって常に斬新に新しいこと変わることをモットーに活動してきた中島卓偉、売れない。やかましい。

あぁ 芥川山城 また訪れたい…。

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