【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第87回「玄蕃尾城(滋賀県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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織田信長の家臣、柴田勝家の名城である。かっちゃんは(愛を込めてあだ名で呼んでみる)福井県の北ノ庄城、現在の福井城が本拠地であるが、羽柴秀吉との「賤ヶ岳の戦い」に備え急ピッチで建てられたのがこの玄蕃尾城とされる。読みは「げんばおじょう」しかし昔の呼び名は漢字も含めて本当に格好良いです。築城期は柴田勝家が建てたとされる1581年~1582年頃か、朝倉氏が1400年代に築城したのをその時期に勝家が回収したとされる場合とあるようだが、現在の縄張りは完全に柴田勝家の城である。標高468mの山城で、滋賀県と福井県の県境に立っている。このコラムでも紹介した埼玉県の杉山城と良く似た作りで、まさに山城の教科書と言って良い。杉山城は平山城で玄蕃尾城よりも歴史が古いが、石垣の城が普及する前の最後の山城と言えるだろう。非常に良く出来ている。


何よりもまず草木が刈られていて非常に見学しやすい。草刈が正雄状態だ。整備されていることが本当にありがたい。城の面積も大き過ぎず小さ過ぎず。保存状態が素晴らしかった。空堀はいくらか埋まっているのだろうがそれでも今見てもしっかり深い。戦に備え突貫工事で建てられたとは思えないクオリティだ。城は馬出しも入れると約9つの曲輪で成り立っており、縦長ではあるがそれぞれの曲輪のスペースは広い。山城でこれは凄い。しかも大手道に繋がる道幅がとにかく広い、これは搦手の道もそうなのだが、山城では考えられない道幅なのである。そこまで登ってくるまでは急斜面で道は狭いのだが、山の尾根まで登ってきた途端に道幅が広くなる。これは何故こういう作りにしたのか考えさせられる。大手門までの道をこれほどまで広げる意味が何かしらあったはずである。道の幅に使わず、先端を番所にして、いくらでも曲輪を増やすことも可能だったはずだ。何故だ?いや、もしかすると、いや、やっぱり言うのやめとく。やめるんかい。


城内の門はいくつもの虎口で折れ曲がり、その都度高さのある土塁が行く手を阻む。城の両サイドに腰曲輪があり、張出郭という見張りの為の曲輪もある。城の周りをほぼ全て空堀が一周していて、その空堀の先は崖になっているので攻めるにしても大変だったはず。玄蕃尾城は賤ヶ岳の戦いで勝家が本陣とした場所であるが、秀吉勢に押され北ノ庄城に退散するのでこの城での直接対決はなかったようだ。

この城の魅力として天守台が残っていることが言える。本丸のコーナーがこれまた結構大きなスペースで一段高くなっている。敷石も転がっており、かなりリアルだ。本丸からの眺めも素晴らしく、3層の天守、もしくは櫓だったとしても相当な威嚇だったと思う。


本丸には3つの出入り口があり、大手からの正面がおそらく正門(ここは何故か虎口になっていない)。横に出られる出入り口は張出郭へ行く導線。裏にあるのが若干ではあるが喰違虎口になった門がある。その3つは土橋で渡れるようになっている。門の大きさによって土橋の幅も違うところが実に良い。注目すべき点はまだあり、本丸の裏手にある虎口郭というこれまた大きな曲輪があるのだが、ここは本丸よりも広い。サッカーが出来る。どうやら駐屯地だったようだ。この曲輪の周りの空堀が凄い。深く掘った空堀の土を城の外側にも盛ったことで二重土塁に仕上げたところにも注目したい。搦手こそ攻められてはならないという信念を感じるのだ。この時代の武将達は山城でも家族と共に暮らしていたので、もしかするとこの虎口郭は女性や子供が暮らす曲輪だったのかもしれない。もしくは家来達の屋敷があったとも言えるだろう。いや、もしかすると、いや、やっぱ言うのやめとく。やめんのかい。

この虎口郭の搦手口を出ると、またなだらかな大手道と同じような道幅を持った場所がある、現在ここは木がかっちゃんの髭やスネ毛くらい生い茂ってしまっており、その先まで見学出来る雰囲気ではなかったのだが、大手道と搦手道にそれぞれ道幅を広げた理由が本当に気になる。とても面白い発想だと思うのだ。家来達がゆったり歩いて行き来出来るように考えたのだろうか?確かに細い1本道では守備につくのも攻めに行くにも混雑は避けられない。イマジンが物を言う。いや、もしかすると、いや、やっぱ言うのやめとく。やめんのかい。とにかくこの城、なんだか気が良い。敗れた武将の城とは言え、悲壮感がない。勝家の人柄が出ているのかもしれない。



柴田勝家という戦国武将は、最初にもお伝えした通り織田信長の家来で、元は信長の父、信行に仕えていた。年齢は信長よりも上である。明智光秀と同じく信長を支えた重要人物で、戦上手で頭角を表す。その功績を信長から認められ現在の滋賀の北部、福井県などを治めており、多い時では75万石だったそうな。出身は名古屋。しかし戦国時代の有名な武将はみんな名古屋出身だ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、そして柴田勝家もである。みんなスガキヤのラーメンで育ったことだろう。ソフトクリームとラーメンを同時に食べることに違和感なく育ったことだろう。ソフトクリーム食ってばかりじゃ麺は伸びるし、ラーメン食ってばかりじゃソフトクリーム溶けるし。なんか良い食い方ないんかい。ラーメンの後にソフトクリーム出すじゃいかんのかい。同時じゃないといかんのかい。

そんな勝家。泥臭い、男らしい、生真面目、戦好き、真っ直ぐな性格だったようで、信長の妹、絶世の美女と言われたお市と結婚するが、すでにその時点で還暦。しかも初婚。相当お市のことが好きだったようである。かっちゃんちょっと可愛いではないか。お市は浅井長政に嫁ぎ、二度目の結婚、この時点で30代後半だったが見た目は22~23歳くらいだったそうな、そりゃかっちゃんたまんねえわ。そりゃ柴田が勝家してしまうわ。

城下町の整備も熱心に行い、橋や道、川の氾濫のための防波堤、何よりいつでも京都に出陣出来ること、信長の呼び出しにすぐ対応出来る事を考慮した上で北国街道を一番に整備。勝家の北国街道の整備がなかったら京都から金沢まで安全な道のり、文化の発展はもっともっと遅くなったと言えるだろう。当時の文化は太平洋側よりも日本海側の方が断然都会。発展のレベルも雲泥の差だったらしく、勝家は現在の福井を安土の城下町よりも大きな城下町に整備して農民の信頼を得たそうな。

勝家は信長の死後の清洲会議で秀吉と対立。もともとは全然勝家の方が座布団は上だが、信長の仇を秀吉が取ったことにより立場が逆転。賤ヶ岳の戦いになり、北ノ庄城にてお市と共に自害することになる。その後玄蕃尾城も廃城。建物が近くの城にリサイクルされたという情報もない。とても切ない。何よりもったいない。これほどまでの城なのに。


この城の最寄駅と言うと距離が少しあるが、木ノ本駅徒歩7分に「木之本つるやパン本店」がある。昔ながらのパンを売るお店だ。勝家が整備した北国街道沿いにある。ここのサラダパンはマヨネーズとたくあんをコッペパンに挟むというシンプルなパン。袋のデザインも黄色と青というブラジルカラー。美味い。虎口郭でサッカーがしたい。なんでまたブラジルカラーにしたのだろうか?いや、もしかすると、いや、それでも、いや、こればかりは、断腸の思いですけれども、う~ん、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン…。そうじゃなくて、いや、やっぱ言うのやめとく。結局言わんのかい。

あぁ 玄蕃尾城 また訪れたい…。

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