【インタビュー #5】大田紳一郎、doa15周年と波乱万丈な音楽履歴「やっぱり歌いたいんでしょうね」

ポスト

■“これを最後に”と応募したのが
■『Being “BADオーディション”』

──本格的に音楽家を目指すのは高校を出てからですか?

大田:まず、僕は東京に憧れすぎていて、“高校を出たら絶対に上京しよう”と決めていたんです。たとえば、夕方のニュースとかに映る東京の夜景を見て“絶対に行く!”と(笑)。もちろん音楽には興味があったので、高校を卒業したら音響系の専門学校に進学しようと。

──スムーズに上京できたわけですか?

大田:愛媛からだと、とりあえず大阪を目指す人が多くて、いきなり東京という人は滅多にいなかったんですよ。しかも、志望校が東京の音響芸術専門学校だったんですけど、その高校に前例がないから先生方も親もちょっと困らせつつ、なんとかいかせてもらえることになったという。

──ただ、プロミュージシャンを志望していたわけではなく、音響の仕事に就こうと思っての専門学校進学だったんですね。

大田:はい。東京へ行きたかったというのが第一ではありつつ(笑)、音響関係の仕事……いわゆる裏方になろうと本気で思っていたんです。だからギターは実家に置いて上京しました。それこそ東京には凄い人がいっぱいいて、自分なんかミュージシャンとして絶対に通用しないと思っていたから。

──音響芸術専門学校ではどんなことを学びましたか?

▲doa

大田:ミキサーのことを勉強し始めるんですけど、途中で挫けまして。僕らの時代はデジタルではなくて、アナログテープでのレコーディングでしたからね。テープを切って貼ってとか、怖くてできないと(笑)。それ以上に、元々テレビ局で働いていたという専門学校の講師から最初に「君らはこの学校を出てもテレビ局に入れない」って言われたり、実習で行ったレコーディングスタジオで「この仕事は体力勝負だから。不眠と早食いができないと無理だよ」と言われたり、“……これはちょっと違うな?”と思ったんです(笑)。

──ただ、そうなるとちょっとマズい状況じゃないですか? 東京にいる口実がなくなってしまいますよね。

大田:その頃にバンドに誘われたんです。当時、僕はレンタルレコード屋で働いていて、バイト仲間のボーカルから、「今はギター1人だけど、ツインギターのバンドにしたいんだ」と言われて、リズムギターで加入することにしました。

──そのバンドの音楽性は?

大田:ジャパニーズメタルです。そのバンドでは紫色の口紅を塗っていました(笑)。メタルなので僕の初ライブは神楽坂エクスプロージョンで、目黒鹿鳴館に出演するのが夢みたいな(笑)。ただ、そのバンドは問題が多くてメンバーがどんどん辞めていったんですよ。最終的にボーカルと僕で新しいバンドを組んだんですけど、そのボーカルも辞めて、自分で歌うようになっていったという。

──いろいろなことを経て、バンドが夢に?

大田:デモテープを作って、いろんなオーディションに送りましたね。そうしたらレコード会社のアポロンの人が興味を持ってくれたり、シンコーミュージックからも声がかかったりとか。でも、なかなかデビューが決まらなかったんです。落胆しながら某音楽誌を見ていたら、『Being “BADオーディション”』が載っていて、“そういえば、「大田くんの声はBeingに合う」と言われたこともあったし、これを最後に応募してみよう”ってデモテープを送ったんです。その後日、Beingから「ボーカルではなくて、ギタリストとしてバンドをやってみないか?」と電話がかかってきたんです。

▲ベストアルバム第2弾『doa Best Selection “MIDDLE COAST”』

──それが、1993年に「どんな時でもHold Me Tight」でメジャーデビューを果たしたBAADでしょうか?

大田:はい。BAADは、いわゆる歌謡ロックバンドで、もっと言うと“Being系バンドの典型”のようなサウンドコンセプトだったんですよ。メロディーはキャッチーだけど、ギターが激しいみたいな。メジャーデビューだったので、雑誌取材とか音楽番組『ミュージックステーション』『カウントダウンTV』へ出演したりして、いろんな経験ができました。あとアニメ『スラムダンク』の影響もあって、第一期オープニングテーマに起用された「君が好きだと叫びたい」が日本のみならず世界各国で知られるまでになったことは嬉しかったですね。ただ、2ndアルバムまでの初代ボーカリスト山田恭二のときはほとんどライブをしなかったんですよ。それが、秦秀樹にボーカルが変わってからは初めて全国ツアーを組むことができて、音楽制作や演奏の楽しさはもちろん、ツアーの楽しさを知ることもできました。

──1999年のBAAD解散後、大田さんはBAADの新井康徳(Dr)さんとRAD HAMMERを結成、ボーカリストとしての活動をスタートさせますね。

大田:実は秦君が辞めてしまったとき、僕がボーカル&ギターのトリオとして3人で曲を作ったり、事務所のスタジオで練習したりしていたんですよ。でも、契約の問題があったのでBAADに見切りをつけて、新しくRAD HAMMERを立ち上げることにしたんです。

──新しいバンドではどんな音楽を?

大田:BAADでは、曲を書いても僕の理想の形に仕上がらないことも多かったんですよ。だったら、自分で歌おうと思ったし、新しいバンドでやりたいことが見えていたということもあった。気持ちとしては“RAD HAMMERがダメだったら諦めよう”という崖っぷちでしたね。実は、BAADの活動が止まってしまったとき、親に「愛媛に帰ってこい」と言われたんですよ。僕は長男ですし。でも、やっぱり東京にいたいからRAD HAMMERを始めたという(笑)。RAD HAMMERでは少しヒネた人間性だったり、翳りみたいなものを表現したいと思っていたんです。それはできたと思うけど、やっぱり厳しかったですね。

◆インタビュー【3】へ
◆インタビュー【1】へ戻る
この記事をポスト

この記事の関連情報