【音楽ギョーカイ片隅コラム】Vo.118「音楽ライター、ラジオに出る」

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音楽ギョーカイで働く人の中には表舞台に立てなかったから裏方に回ったという人も在るけれど、私の場合は物心ついた頃から音楽も踊りも好きではあったが表に立つことに興味はなく、「この裏側はどうなっているんだろう?」と考えるような子どもだった。だからこの20年あまりの時を歩んできたのは音楽ギョーカイの裏方道ばかりであったし、表に出ることも好きではないので極力顔を出さずに仕事をしてきた。そんな私が今回の仕事をお引き受けしたのは他ならぬBARKS編集長からのご紹介だったからだ。内容はK-mixこと静岡エフエム放送のザ・イエロー・モンキー特別番組で、年末から始まるバンド初のドームツアーや再集結前と後についての私見を僭越ながらお話させていただいた。任務を終えて心に残ったのは、結局というかやっぱりというか、「話す」という行為は本当に難しいということだった。

「書く」と「話す」という2つのアクションには言葉を用いて伝達・表現するという共通点がある。しかし、書く仕事の場合はインタビュー記事であっても最終的に記事にまとめる作業は独り相撲なので〆切までなら何度でも書き直しができる。それに対し、話す仕事ではその場の空気を瞬時に読み取り、言葉をポンポンと出し紡ぎながら間合いも取り、さらに相手がある場合には呼吸を合わせることも要される。私のようなど素人相手でもテンポ良く話しを進め、決められた時間の枠の中で伝えるべき情報を的確に、そしてポジティブに放送するのは非常に大変なことのはずだ。特にラジオの場合はテレビと違って映像を使った情報の補足や誤魔化しができないメディアであるが故、DJやパーソナリティ、進行を担う人の言葉遣いや話すセンスが番組の善し悪しに直結する。“ただ話す”のと“伝えたいことを思い通りに話し伝えきる”ことはまったくの別ものであるのは書く仕事とも同じと思えるが、生放送等での緊張のピークが絶え間なく続くという点では大きく異なる。今回出演させていただいて感じたことがある。常日頃から自分が好きな音楽や好きな番組、好きな読み物に触れた時、それがどんな形式であれアートとして同列に捉えているのだが、音楽も、書いた原稿も、電波でのしゃべりも、“表現・伝達”という点では同じであるはずなのに後者2つがアート作品として扱われることはほぼない。記事、しゃべりとされることがほとんどだろう。ラジオのDJにシンパシーを感じるのはそのせいかもしれない


それからもうひとつ。久しぶりに電波にのった自分の声を聞き、いつも自身が体感しているそれとはまったくの別物のようで可笑しかった。インタビュー取材で録音したものを文字におこす作業時にも毎度同じことを思うのだが、相手の声はインタビュー時とほぼ同じに聞こえるのにも関わらず、自分の声は違って聞こえるのだ。機械を通すと違って聞こえるのか、そもそも私の声はこういう音質であって私だけが違う音の鳴りを日々感じているのか。人の不思議は尽きないから面白い。

文◎早乙女‘dorami'ゆうこ

◆早乙女“ドラミ”ゆうこの【音楽ギョーカイ片隅コラム】
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