【コラム】女王蜂の話をしていたハズだった。〜BARKS編集部の「おうち時間」Vol.020

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1960年代、若き日のブラック・サバスは1日にソーセージ1本だけを食べて働いていた。もちろんそれでは餓死するので、バンド内でいちばんモテるトニー・アイオミが女の子に声をかけ、いろいろ食べさせて貰っていたらしい。「ミュージシャンに顔は関係ない」とはよく言われるが、やっぱりちょっと関係あると思う。

さて、このコラムは女王蜂の話をするために意気揚々と書き始め、いろいろあって5回ほど書き直した結果、1/3がブラック・サバスの話になってしまったという摩訶不思議なコラムだ。まあ、全ての道はローマに通じるらしいので、そういうこともあるだろう。筆者が家にいすぎておかしくなったわけではない。

最近にわかに注目が集まっている女王蜂は、華やかなビジュアルを持ちながら、ブルージーでストイック、そしてアングラな音楽を歌うバンドである。ビジュアルの美しさを活かしたミュージックビデオの面白さも特徴的で、新作が公開されるとTwitterのトレンドに入ったりする。

このバンド、人気者であることは間違いないのだが、メディアへの露出が多くない故に、ハマりそうな洋楽ハードロック、ヘヴィロック好きの層に届いていない印象がある。なので今回はブラック・サバスの話もしつつ、女王蜂という若くて素敵なバンドを改めて紹介したいと思う。

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女王蜂はヴォーカルのアヴちゃんを主軸に置く、本名・経歴・性別・年齢非公開の4人組バンドだ。ただし覆面バンドではなく、顔は普通に出している。ファッションセンスにも注目されてるんだけど、いかんせんアーティストのスタイルが良すぎて参考にならないのが愛おしい。

音楽のジャンルは「オルタナティブ」ってなってることが多いが、個人的には「進化系アングラ・グラムロック」って印象だ。とりあえず、流行りの王道路線ではない。ポピュラー音楽には「あなたの気持ちに寄りそう系」と「私の世界をごらんなさい系」があるけれど、女王蜂は後者だろう。

このバンドに関しては、いろいろ説明するよりも、映像を観たほうが理解しやすいと思う。2019年の夏に公開された「Introduction」のミュージックビデオには、パステルカラーの中に潜む薄気味悪さや、覆い隠された毒々しさといった“女王蜂”の魅力が凝縮されている。


映像を見ればわかるが、女王蜂はファッションやメイクが特徴的で、ビジュアル面でもインパクトのあるバンドだ。ゆえに「奇抜」「怖い」と取られたりもするんだけど、顔から釘がいっぱい出ているアーティストに見慣れた我々HR/HM好きにしてみれば、「OK、そういう感じね」である。まあ、ヤマンバギャルだってキッスと比べりゃ薄化粧だ。

というか改めて考えると、1970~1980年代のミュージシャンのファッションって何だったんだろう。オジー・オズボーンは全身タイツを身にまとい、股間に真っ赤な革製サポーターを付けていた。笑っちゃうけど、彼の場合はステージ上でケツを出すので、抑制効果があるのかもしれない。

話を戻そう。先ほど紹介した「Introduction」という曲。基本的には明るくポップで楽しいんだが、後半にある「黒白黄色/その奥の虹色」という歌詞を聴いて「人種とジェンダー」を連想するかで、いろいろ変わってくる。それに細かく見ていくと、歌詞の主格はポジティブな性格とも思えず、単純な「自由に生きよう」という啓発ソングでも無さそうだ。

女王蜂の曲は一見して聴きやすく、言葉遊びとポップさにあふれている。けれど、よく読めば70年代の英国ブルースロックばりに暗く、アダルティで、攻撃性が強いことがわかる。その攻撃力は、たぶんサバスよりも強い。喧嘩したら女王蜂が勝つと思う。ハイヒールは基本、鋭利なほうが強いのだ。

っていうかそもそもブラック・サバスは、世間のイメージほど攻撃性が高くない。「世の中には暴力が溢れてる!」という感じではあるけど、「俺は殺人鬼」的なスプラッタホラーではないのだ。ルシファーを自称する歌詞をもつ「N.I.B」だって、「おれはすごいんだぞ、ねえねえ付き合ってくれる?」みたいな感じで、ちょっと間抜けな印象すらある。

こういう特徴は、サバスの肉体的な強さにも由来していると思う。喧嘩となれば平気で殴り合い、暴漢を己の拳で諌め、ギャングと乱闘して、その経験を歌にしちゃう。それがサバスだ。だからこそ、彼らの楽曲の“恐怖”の対象は「暴力」ではなく「オカルト」になり、それに伴って音楽の持つ攻撃性も弱まる。


対して、女王蜂はマッチョ的ではない。超現実的なものを怖がるよりは、目の前にある現実世界の暴力性に傷つき、それに対抗するためにギラギラした音楽を纏いながら、猛烈に反抗しようとしている印象だ。それゆえ女王蜂の音楽には「誰かに何かを訴えたい」というよりも「とにかく私が叫びたい」というイメージが強い。

2ndアルバム『孔雀』に収録された「デスコ」は、溢れ出る初期衝動と攻撃性だけで書かれたような作品だ。絞り出すヴォーカルスタイルには取り付く島もなく、サウンドの隅々にも殺気が漲っていて、安易に「共感しました!」とは言わせない。でも、そこがイイ。


アヴちゃんはきわめて音域の広いヴォーカリストで、高音域も低音域もたっぷり出る。そうなると一人二役もお手の物だ。2015年に公開された「売春」のミュージックビデオでは、アーティスト自身も男装と女装をして、“ひとりデュエット”を演出している。音域の高低だけで男女を表現しているのではなく、発音の処理にも男女の違いを出しているのが面白い。


ちなみにこの「売春」という曲、なんとライブでもこのまんま歌われる。なので女王蜂がフェスに出ると、「音だけ聞いてツインヴォーカルのバンドだと思ってたら、ヴォーカルひとりしかいなかった」みたいな感想が流れてくる。生で聴くと音源以上に男声・女声の歌い分けがハッキリ聞こえるので、そういう感想も出てきて当然だろう。

その広い音域を存分に生かして、2019年には「火炎」というド級の傑作が出てきた。こちらはテレビアニメ『どろろ』のオープニングテーマとして大注目されたが、「歌えるもんなら歌ってみやがれ」感が半端ない。サビ部分がギターリフ+スキャットっていう、サバスでもやらない大胆構成にも痺れる。


この曲を聴くと、まず「これ、ライブだとどんな感じなの?」って疑問が湧いてくるのだが、なんとこの曲、アコースティックアレンジかつ一発録りの動画が投稿されている。聴いてみるとスタジオ版より難しいことをしてて、いっそ笑ってしまう。ちなみにこれ「音が高い」だけではなく、メロディーラインの音を取ることが非常に難しいので、カラオケで安易に歌うと大事故が起こる。


ところで、女王蜂は実のところブラック・サバスばりの「リフ系」バンドだ。8割くらいの曲がリフをメインに作曲されていて、バラードでも高打率の良リフを聴かせてくれる。「ヴィーナス」のストイックなリフなんて、ハードロック好きの大好物の匂いがする。


内に秘められていた強烈な怒りや悲しみを全部吐き出すようにしてデビューした女王蜂だが、10年もやっていれば、当然ながら音楽性は変化していく。休止期間やメンバーチェンジを経て、女王蜂のサウンドは洗練された。2020年リリースの最新アルバムでは全体的にシャウトが控えられ、柔らかい歌い方が多用されていた。

しかし、内容は全然柔らかくなっていなかった。ブラックな恋愛を歌った楽曲「BL」なんて、びっくりするほどドス黒い作品だ。こういうシド&ナンシーなラブソングは古今東西多々あるけれど、溺れるでもなく、嘲るでもなく、妙に生々しい視点で描かれているのが興味深い。


ところで女王蜂、アヴちゃんの歌唱力やパフォーマンスに注目されがちなのだが、何よりも歌詞がめちゃめちゃ良い。これ、普段はあまり歌詞を見ない方にも、是非読んでいただきたい。韻の踏み方や語彙の選択に、人間椅子や陰陽座といった和系バンドの作るものとはまた違った「日本語の美しさ」が見つけられるから。


デビューしたてのバンドは、当然ながらおおむね青い。完璧主義者で知られるクイーンですら、1stは粗削りだった。ブラック・サバスは終始達観していたが、それはアイオミが、指切断事故からの復帰とリフ神への目覚めを経て、“そういう領域”に到達してしまったからである。ケガをしていなかったら、初々しいブルースギタリストからスタートしていたことだろう。

女王蜂も、1stアルバム『魔女狩り』は強烈だ。強烈っていうか、あれこそ怪作。今まで聴いてきたすべての音楽が上品に思える音の作り方をしていて、「ここまで鮮烈な“怒り”を持つひとがいるのか」と驚かされ、そして嬉しくなる。だが「巧い」とまでは言えないし、あまりに強すぎて“料理”というより“香辛料”そのものと感じてしまう。

けれど、歌詞は1stの時点で完成されていた。語彙から色気が匂い立ち、単語のひとつひとつが詩情を持つ。4曲目に収録された「火の鳥」なんて最高だ。“朝焼けのネオンの街”から始まる10秒に、楽曲の持つ視覚的イメージが全て詰まってる。

3rdアルバム『蛇姫様』の最後には、「鉄壁」というとんでもない作品が収録された。この曲は本当に凄い。“理解した気でいる人間”を正面から睨みつけ、自己嫌悪と自己否定を吐き出して高い壁を作りながら、それでも希望を捨てずに他者を慈しむ曲だ。けれど最後まで自己肯定の言葉は出てこない。「自分を愛したい」の後には「けれど」が付く。


またこの曲、アルバムを通して聴くとさらに味わい深くなる。アルバム『蛇姫様』の冒頭を飾る「鏡」は極度に抽象化された幻想的な曲だ。楽曲の主格は美しい衣を纏って一面の花の絨毯を眺め、水の上を歩いていく。しかし中間部では夢の世界から孤独な現実に戻り、鏡を見つめて「あたしを放棄したい」と想う。

それがアルバムの全曲を経て「鉄壁」へ到達すると、主格は夢想に浸らず残酷な現実世界で足掻き、鏡からも目をそらさず、猛烈な自己否定の中でも、他者のために祈るようになる。アルバムを通して聴くと、単体では“自己否定”の曲だった「鉄壁」に、美しい希望の光が降り注ぐのだ。

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さて、筆者は大学生のとき、学生100人ほどに「あなたの人生を変えた曲は?」と訊いて、名前が挙がったすべての曲の歌詞を、そのひと個人のエピソードと絡めて分析したことがある。「人生を変えた」なんて言うと大仰だが、おおむね皆「どん底にいるとき、悩んだときに自分を支えてくれた曲」を教えてくれた。

そこで気づいたのは、「8割くらいの人はポジティブな曲に励まされている」「けれど、残りの2割くらいの人は超ネガティブな曲に励まされてる」ということだった。つまり、「みんないなくなっちまえ!」みたいな曲に癒されてる人が、人口全体の2割くらいいるのである。「2割って少なくない?」と思われるかもしれないが、日本国内だと単純計算で2,000万人強なので、そんなもんだろう。ちょっと多すぎる気もする。

ブラック・サバスを最初に受け入れたのは、この「2割」の層だ。どう聞いてもネガティブだし、ラブソングすらウジウジしてる。これはアーティスト自身の好みもあるけれど、当時は「愛と平和を歌って反戦を呼びかける」系の音楽が流行していたこともあり、狙って暗い曲をやっていた部分もあるようだ。

しかしサバスがウケたのは、単に音楽が暗かったからというだけではない。同じような音楽をやっていた人たちは絶対にいる。その中でサバスが生き残ったのは、いかにも「労働者階級の若者たち」といったアーティストの姿に励まされた者がたくさんいたからだろう。

「作品が良ければ自然と売れる」というのが間違いであることには、みんな薄々気づいてる。個性を出しにくいクラシック音楽の世界でも、「上手い」と「稼げる」は別問題だ。歴史に名を残すアーティストは、その姿やパフォーマンス、コンセプトや精神性といった部分にも特筆すべき部分がある。もちろん容姿だって、評価の要素に入っていく。

女王蜂は、その「特筆すべき部分」を強く持ったバンドだと思う。表明されているのはアーティスト自身の怒りや悲しみだけれど、芸術的に昇華された語彙と表現を読み解けば、そこには現代社会の問題が表れている。そこまで深く読まずとも、視覚的にも楽しいし、超人的なヴォーカルスタイルはリスナーを飽きさせない。癖と毒はあるが、それは裏返せば長所になる。

多様性への理解と尊重が叫ばれる現代、巷には「みんな私を理解して」「こんな自分が好き」「こんな私を愛して」という音楽が溢れている。しかし、「自分を愛せない」「自分を許せない」と歌うアーティストの存在に助けられるひとは、きっといるはずだ。50年前、ブラック・サバスのネガティブな音楽に救われた若者がいたように。


文◎安藤さやか

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