ヴァン・ヘイレンを発掘したプロデューサー「デイヴィッド・リー・ロスが頭痛のタネだった」

ワーナー・ブラザーズ・レコードに所属し、ヴァン・ヘイレン、ドゥービー・ブラザーズ、ヴァン・モリソン、サミー・ヘイガーらの作品を手掛けてきたプロデューサーのテッド・テンプルマンが、先月、自叙伝『Ted Templeman: A Platinum Producer’s Life in Music』を出版した。
テンプルマンはこの中で、1977年、彼とワーナー・ブラザーズ・レコードの当時の社長モー・オースティンがヴァン・ヘイレンと契約を結ぶにあたり、彼が最も懸念したのがデイヴィッド・リー・ロスで、シンガーの入れ替えを考えていたと綴った。ファンの間では知られていることのようだが、テンプルマンはあらためて自叙伝で当時の胸の内を明かした。
「パフォーマー、ヴォーカリストとして、彼は僕をひどくガッカリさせた。ステージ上ではぎこちなく、歌も素晴らしくはなかった。モーがシンガーにうんざりし、ヴァン・ヘイレンを見送ることにするんじゃないかってちょっと心配だった。本当にロスは僕をひやひやさせた。このバンドと契約し、シンガーが責任を果たせなかったらどうしようって考えてた。最悪、ギター・プレイヤーはソロ・アーティストにできるとしても……。僕は、シンガーをより強力なヴォーカリスト、モントローズのリード・シンガー、サミー・ヘイガーあたりと交代させることを検討し始めた。ヘイガーはぴったりだと思った」
しかし、一緒に過ごす時間が増えると、ロスの才能に目を見張るようになったという。「彼と長いこと話をした。そのとき、彼の驚異的な知性に気づかされたんだ。彼はトム・ソーヤーの一節を用いた次にコミック・ブックの一節を持ってきたりした。彼のように意識の流れをその場でポンポン、上手く口にできるような人を僕は知らない。彼の歌詞、とくに“Ain’t Talkin’ Bout Love”を読めば読むほど、僕は感銘を受けるようになった」「彼はものすごく博識で頭がいい」
そして、スタジオに入った当初は、ロスは「最大の問題」「修正できない」と思い込んでいたのを、どうやったら彼の強みを引き立て弱点を抑えられるかと考え直すようになり、ヘイガーに連絡を取るのは止めたそうだ。「もし、僕が1977年にサミーをヴァン・ヘイレンに迎えていたら、僕はロック史最大の間違いを犯していたことになるだろう。ヴァン・ヘイレンはデイヴがフロントマンでなければ、成功していなかった」
テンプルマンは、ヴァン・ヘイレンのデビュー・アルバム『Van Halen』(1978年)をはじめ、セカンド『Van Halen II』(1979年)から『1984』(1984年)まで6枚のスタジオ・アルバムを連続でプロデュースし、9枚目『For Unlawful Carnal Knowledge』(1991年)にも共同プロデューサーとして参加した。
Ako Suzuki
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