【鼎談・前】鮎川誠(SHEENA & THE ROKKETS)×ジョニー・ダイアモンド&ナオ(首振りDolls)、生き様で示すロック礼讃

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「俺たちをみつけてくれたんね。ありがとう」
憧れが溢れ返り、緊張からの体の硬直と震えが止まらなかったジョニー・ダイアモンド(首振りDolls・G)に、鮎川誠がかけた第一声は、どこまでも優しく、あたたかな言葉だった。

ジョニーが自らのギターバイブルとし、今もその音を自身の基盤にしているとして1位に掲げる1975年にリリースされたサンハウスの1stアルバム『有頂天』は、鮎川がシーナ&ロケッツ結成前にギターを務めていたバンドである。ジョニーが愛して止まないそのサウンドは、鮎川が今から45年も前に生み出したものであるが、現在もその音は錆びることを知らず、輝きを増し続けながらロックシーンを牽引し続けている。

日本のロックシーンの先駆者・鮎川誠に対し、“ギタリスト対談”というにはあまりにも分不相応であり、先輩と呼ぶにも烏滸がましいのだが、鮎川は、シーナ発信で地元(北九州・若松出身)に立ち上がった<高塔山ジャム>で、同じステージに立った経験があるという同郷の首振りDollsの音を、“最高にカッコイイロックよね。バンド名もNew York Dollsみたいでカッコいいし。すごくいいね”と評価しながら、ロックへの憧れに目を輝かすジョニーと、後半からインタビューに参加したナオ(首振りDolls・Vo&Dr)に終始目線を合わせ、自らが歩んで来たロック人生とロック・スピリットを語ってくれた。

ジョニーとナオが感銘を受けた、ロックに選ばれた男・“ロックレジェンド鮎川誠”の最高にカッコイイ生き方とは?

◆鼎談動画・画像


──ジョニーにとって、鮎川さんは、日本のギタリスト界の神であり、尊敬して止まない憧れの存在ということで、極度の緊張状態にありますが、どうぞよろしくお願いします。

ジョニー:よろしくお願いします!

鮎川:こちらこそ、よろしくお願いします。

ジョニー:【ギタリスト対談】というにはあまりにもおこがまし過ぎるので、とにかく、“好き”という想いをお伝え出来たらと、、、、。『ギター・マガジン』(リットーミュージック刊)7月号の特集『完全保存版・ニッポンの偉大なギター名盤100』でもサンハウスの1stアルバム『有頂天』を1位に上げていたほどのリスペクトなんです。

鮎川:それはどうもありがとう。嬉しいよ。

ジョニー:いや、もう、そんな! こちらこそ、本当に尊敬してます! ハタチくらいから、はい。、、、はい(緊張マックス状態のジョニー)。

鮎川:俺たちをみつけてくれたんね。みつけてくれてありがとう。

ジョニー:はい! 地元が北九州なので。

鮎川:そうやね。北九州の人達は、サンハウスとかシナロケ(シーナ&ロケッツ)をよく聴いてくれるよね。もう何回目かいね? シーナの地元の北九州・若松の高塔山ジャム(北九州・若松出身のシーナの「高塔山でロックがしたい」という一言から、2004年に始まったロック・フェス。現・高塔山ロックフェス)。20年前くらいに、“ここでロックフェスやりたいね”ってみんなで言うてたら、それがすぐに実現したんよね。

ジョニー:3回くらいご一緒させて頂いて。

鮎川:うん、知っとるよ。シーナがまだおるとき、一緒にしたよね。

ジョニー:あのとき、アンコールで一緒のステージに立たせて頂いたんです。鮎川さんの後ろで、

鮎川:ギター弾きよった?

ジョニー:いやいや、鮎川さんがギターを弾かれているのを後ろから見てました! アンプの前に居ました!

鮎川:そうね。あのアンプ、もう40年くらい働きよるけね。すごいよね。

ジョニー:最高に音がカッコいいです! 憧れの音です。

鮎川:そう。ものすごくいいんよ。

ジョニー:あのとき、たしか、アンプのツマミが全部10だったんです!

鮎川:うんうん。10はね、ロックを始めるときの基本なんよ。俺が17か18の頃、いや、もう19になっとったかね? 本を読んで、ジェフ・ベックが、アンプはこげんするとかさ、デヴィッド・ギルモアのアンプの使い方だとかさ、マイク・ブルームフィールドは、ベースは0にして、トレブルだけ10にするとか、全部インタビューで読んで、その通りに云い伝えというか、言伝よ。でも、マーシャルは2でもものすご良い音なんよ。2から10まではあんまり変わらんのよ。

ジョニー:はい。急に音がデカくなりますよね。

鮎川:そう。ちょうど2.5くらいでやってくるんよ。そんときはもう裸のギターの音がする。カリカリしてね。その後はずっと圧縮されたような、リミッターがかかったようなディストーションやけ。昔、ロックンロールをラジオで聴きよった頃には、放送局でリミッターをかけるから、そやけんワッフワッフワッフちゅうビートがくる。マーシャルがカッコイイのはディストーションやけ。俺は他のアンプは、そんなには知らんけど。

ジョニー:じゃあ、ずっとあのアンプなんですか?

鮎川:そう。ずっとあのアンプ。1987。昔、ラモーンズと対バンしたときに俺は国産で新品の50ワットくらいのアンプやったけど、ラモーンズはマーシャルで。全然音が違って、悔しくてね。それから新品のマーシャルを買ったんだけど、それは今サブで、メインで使っとるのは、知り合いが勧めてくれた古いマーシャル。それは本当に音が全然違って。音を出した瞬間に“これ買う!”ってなったくらい衝撃やって。「ピンナップ・ベイビー・ブルース」をそれで弾いたら全然違った。お気に入りの音やけ。やっぱりバンドは1番音が大事やけね。俺たちは音に魅せられてバンドマンになったんやから。

ジョニー:本当にそうですね! 最高の話ですね。いいなぁ、俺もそういうアンプに出逢いたいです! レスポールカスタムと一緒にですか?

鮎川:うん。そう。いい音出しよるんを聴いて欲しい。毎回ライブちゅうのはさ、“やろう!”って、心では思いよるし、口でも言いよるけど、とにかく、このアンプを使って、このギターを弾くことが出来てただただ幸せやけんね。1回でも多くステージで音を出したい。

ジョニー:分かります! 音出してるときって、最高ですよね! もう、それだけでいいっていうか。鮎川さんがギターを始めたキッカケって何だったんですか?


鮎川:ものすごく遡るけど、10歳のときに、母親に“ギター買うて!”って、ねだってプレゼントしてもらったのが、最初。楽器屋さんに行って、1番か2番目に安かったギターを買ってもらったんよ。箱ギターで、鉄の弦が張ってあるやつ。

ジョニー:ガットギターですか?

鮎川:ガットギターの形をしてるんだけど、弦は鉄なんよ。スチールギターになるのかな? それと教則本を一緒に買ってもらったんよ。(弦が)1個だけの音だとちょっと頼りない感じなんやけど、2個の音が一緒に鳴るとすごくいいんよ。初めてギターを弾いたときのあの感覚は忘れられんよね。教則本を見ながら最初に弾いたのは、「シューベルトの子守唄」やったんやけど、それが弾きたかった訳じゃなかったから、なかなか上手く弾けなくて、結局そのまま放ったらかしにしてしまって。それから3年くらい経って、中学生になったときに、リトル・リチャードとかレイ・チャールズのレコードを、学校から帰って来て毎日聴いていて。リトル・リチャードの「Lucille」を聴いて、ギターを手に取って頭の中でループしている音を聴き真似で弾いてみたんよね。手を慣らす為にそればっかり弾いてた。それが1番最初。そのうちザ・ベンチャーズが流行りだして、エレキギターを持っとるクラスメイトが出てきはじめて。ギターの名人が俺の地元だった久留米の街にもたくさん出てきはじめた。それは高校になってからやったけど、いろんな人のところにギターを聴きに行かせてもらっとった。ザ・ビートルズを聴いたのがキッカケになってのめり込んで。アニマルズやローリング・ストーンズにも夢中になった。1964年にラジオでロック革命が始まったんよ。もうみんな、【自分がやるロック】になっていったんよ。人に雇われて“あーしろ、こう弾け”って言われとったバンドマンが、ザ・ビートルズのおかげで、周りから指図されんでもロックが出来る時代が始まった。ローリング・ストーンズは、それをもっと分かりやすくしていった。ジミー・リードの曲を歌詞を変えてエレキ用にチューニングアップして試してた。ブライアン・ジョーンズが、みんなに“こう弾いたらいいよ”って教えてた。初期のカヴァーアルバムなんてバイブルだよ。ブルースから生まれたロックのお手本。俺らはそれを聴いたんよ。高校3年のときにザ・ビートルズが日本に来てね。そのとき、板付空港(福岡空港)に不時着するっていう噂が流れたから、バイク飛ばして板付空港まで行ったんよ。夜のガラーンとした空港に、不時着の噂を信じた俺みたいな奴らが何人かおった(笑)。ザ・ビートルズの武道館ライブはテレビでも放送されたんやけど、1曲目にジョン・レノンがチャック・ベリーの「ロックンロール・ミュージック」を歌ったんよ。そのとき、3人がお客さんに背を向けて、おもむろにチューニングをしてたかと思ったら、誰も合図せんのに、3人がクルッと正面向いた瞬間に曲が始まって。そのときの感動は今も忘れんね。

ジョニー:最高の瞬間ですね!

鮎川:そう。それを見てた俺とは違う高校の奴らがバンドを組んどって、俺、そのバンドに誘われたんよ。ある日、本屋で立ち読みしとったら、“まこっちゃん! 見に来んね!”って、そいつらが練習しとった農家の納屋に連れて行かれて、“弾けるやろ”ってギター渡されて。“「デイ・トリッパー」知っとるやろ?”って言われて。

ジョニー:それが最初のバンドですか?

鮎川:そう。名前もよく知らん奴らとね。お互いのことは知らんのに、みんなザ・ビートルズだけは知っとった。さっきまで本屋で立ち読みしとった俺が、ザ・ビートルズの曲弾いてバンド組んどる!? っていう不思議。

ジョニー:すごいですね。音楽の力を感じるというか。

鮎川:そうね。それから1ヶ月後にある<サマービート>に申し込んだら当たって出られることが決まったけ、みんなで一生懸命に練習しよって。それが俺のバンドマンの始まり。

ジョニー:すごいキッカケですね。最初に使ったエレキギターってなんだったんですか?

鮎川:最初に買ってもらった鉄の弦のギターは恥ずかしくて何処にも持って行かれんかったけ、高校1年のときにテスコのT65っていうやつやった。アコースティックになったエレキギター。

ジョニー:フルアコですか?

鮎川:いや、フルアコではない。薄いやつ。グレッチみたいな指板がついてて、2マイクで、1カッタウェイ。友達から買うたんよ。高校生やし、お金なんてないから、修学旅行用に積み立ててたお金を先生に言って解約して、5、6万返してもらって、そのお金で買うた。4,500円くらいでね。それが俺の初めてのエレキギター。すごく気に入っとったんやけど、その時代はザ・ベンチャーズが流行っとった時代やけ、みんなは音がキャンキャンいうソリッドギターを持っとった。いろんなギターがあったよ、あの頃は。日本も活気があって、業界がいろいろと試してた。ヤマハもいいギター作ってたし、グヤトーンやテスコは手頃なギターをたくさん出していたし、モーリーやボイスフロンティア、ちょっとそこより遅く出たのは、ファーストマンやハニーっていう、本当にいろんなギターが出てきた。俺の最初のテスコのエレキギターは安モンやったから、あんまり良い音が出なくて。友達から借りた3マイクのグヤトーンのギターを使いよった。型番はなんやったかな? 忘れたけど。

ジョニー:何色だったんですか?

鮎川:ピンク色。

ジョニー:ピンク!?

鮎川:そう。ピンク色やった。いいねぇ、ギターの話は楽しいね。ギターの話やったらなんぼでも出来る(笑)。

ジョニー:はい! めちゃくちゃ楽しいです!

鮎川:楽しいね(笑)。久留米や大川は木工の街でもあるんよ。そやけん、ギターが田んぼの裏にいっぱい並べてあって。まだボリュームとかが乗る前(付けられる前)の、黒やら白やらいろんな色で塗られた土台がいっぱい干してあってね。ギターが大好きやから、そんな加工段階のものを見るのも好きで。ギターのフォルムを見るだけでワクワクする。

ジョニー:分かります!

鮎川:ちょっと変わった形のギター持ってる奴を見ると、“ちょっと弾かせて!”って、触らせてもらってた。ヤマハは職人が丁寧に作った感じが出てて、グヤトーンのギターは本当にロックンロールを感じるギターやった。

ジョニー:その当時、まだグレコはなかったんですか?

鮎川:まだそのときはグレコ無かったんよ。おっ、その話に行く?

ジョニー:是非っ(笑)!

鮎川:浪人して大学に入ったんやけど、まぁ、大学に入る目的っていうのもロックンロールがキッカケで、その頃中洲にアタックちゅうバンドがおったんやけど、そのバンドに入れてもらいたくて、定期券を手に入れる目的で大学に進学しようとしてたんよ。

ジョニー:すごい動機ですね(笑)!

鮎川:そう(笑)。そのころの九州大学は授業料が1ヶ月1,000円で。そこも魅力だったんやけど、とにかく目的は、なんとかアタックに加わることだけやった。毎日アタックに加わる夢ばっか見よって。浪人してやっと入った九大の入学式が終わった後、すぐに中洲まで行ったんよ。そしたら、後にサンハウスを一緒に組むことになる篠山さん(篠山哲雄)に、“おー、まこっちゃん! 久留米なのになんでここにおると!?”ってビックリされたんやけど、“久留米から福岡までの定期券を手に入れたんで、もうこれからは毎日中洲に来れるんです!”って言うたら、“そうね! ほんなら今から弾いていき!”って言われて。ヤッター! っていう感じやった。そこから、スペンサー・デイヴィス・グループの曲やら、ソロモン・バーク、ウィルソン・ピケット、ジェームス・ブラウン、フォー・トップスっていう、ローリング・ストーンズがお手本にしとるアーティストの曲をレパートリーとして練習したんよ。まだその頃の日本ではブルースは流行ってなくてね。エリック・クラプトンのクリームや、ジェフ・ベック、ヤードバーズやらローリング・ストーンズから広がっていって、進化形のホワイトブルースバンドにジミ・ヘンドリックスが入って火が付いて。ボブ・ディランやらもアメリカでブルースしおるしね、バターフィールド・ ブルース・バンド。それで世界中がホワイトブルースになったんよ。ちょうどその頃、深夜にやってた『ザ・ビート』っていうテレビ番組を見よったら、フレディ・キングっていうブルースマンが出てきて。ギターの持ち方が違うのに衝撃を受けてね。音がすごく伸びるギターを弾きよるときに、顔がキューってなって。“おぉ! 顔で弾くんや!”って、また衝撃で。

ジョニー:はい! はい! そうですね! たしかに顔で弾いてますよね!

鮎川:そう。その頃あたりから、いろんなレコードが輸入盤で入ってくるようになって、それまで夢にまで見た、空想でしか聴けなかったブルースマンの音が聴ける様になったんよ。1968年、1969年あたりかな。それで、サンハウスを作ったときに、最初に買うてもらった鉄の弦のテスコのギターを持ち出して、アンプのボリュームを10にして弾いたら、最高の音で、いつまでも消えなくてさ。フィードバックするんよ。本当に最高だった。そこからテスコのギターを復活させてね。俺たちも、ウッドストック・フェスティバルの後、1970年に集まってサンハウスを結成したんだけど、柴山さん(柴山俊之)や、浦田(浦田賢一)や奈良(奈良敏博)に出会ったのは、ちょうど1968年、1969年あたりやったからね。

ジョニー:、、、すごい。ロックの歴史そのものですね。

鮎川:ギター始めてから10年くらいを一気に話したよ(笑)。

ジョニー:ありがとうございます! ありがた過ぎます!

──鮎川さんは、サンハウスを結成されたとき、やはり目標はメジャーデビューというところだったりしたんですか?

鮎川:いやいや。当時は誰もそんなことは考えとらんかった。自分たちのレコードを出すなんて、誰もそんなこと思ってないんよ。そんなこと出来るわけないやんって。空想のまた空想でしかなかったから。だから、俺たちは毎日中洲でアンプ繋いで演奏するのが最高なんよ。いろいろと実験したり、新しいレパートリーを増やしてみたり。レッド・ツェッペリンの曲をやってみたり、ジェスロ・タルちゅうバンドの曲をコピーしてみたり。1番のお手本は、フリートウッド・マックだった。

ジョニー:おぉ! ピーター・グリーンのですね!

鮎川:そうそう。フリートウッド・マックのレコードは全部聴いた。昔はね、みんなバンドが目指したのは、大好きなアーティストに近づく様に練習したり、技巧を高めたりすることだったんよ。サンハウスが結成した頃あたりは、その街1番のバンドっちゅうのがおったんよ。長崎やったらキャンディーズとか、国士無双やらシンデレラやらっていうのもおった。

ジョニー:あ、名前聞いたことあります!

鮎川:当時、福岡にもバイキングちゅうバンドがおったんやけど、福岡のダンスホールに行かなくちゃ聴かれんバンドで。200円くらいの入場料で、毎晩そこのダンスホールでライブしよったと。久留米にもダンスホールが3つも4つもあった時代やったからね。【めんたいロック】っていう名前が付いたのは、一つのシーンに火を付けるための戦略だったというか。地元とロックを結び付けるキャッチコピーだったんだろうけど。もともとあった言葉ではなかったし。みんなロックは同じやけ。ロックは個人のもんやけ。街のためにロックするもんやないから。みんな、“俺のロックが分かってたまるか!”ちゅう想いでロックしよるから。本当に分かり合えたのがサンハウスのメンバーやった。その頃は、レコード出して売れたいとか、そういうんじゃなくて、みんなただただ音楽が好きでやっとったけ。その場所で音楽をする。そういう時代やった。

──すごく純粋ですね。今の時代も、メジャーデビューや売れることだけを考えずに、ただただ自分たちの好きな音を鳴らしたくてバンドをやっているバンドもいるとは思うんですけど、やはり多くはメジャーデビューや大きな会場でライブをやることを目標としてるバンドが多いと思うんですよね。鮎川さんご自身は、全く“売れたい!”“売れる為に上京したい!”という想いはなかったんですか?

鮎川:そうなんよね。昔、よく遊んでいた海援隊が東京に行くことになったり、チューリップが一足先に上京して、イカした曲をレコードにして出したのを見て、正直、“ふ〜ん”ちゅう感じやったんよ。みんな、レコード会社が上京後の生活も全部面倒見てくれるっていう条件で行ったんやけど、俺たちはそんなんは嫌やったんよ。みんなで家に集まってレコード聴いたり、パワー・ハウスっちゅう須崎のロック喫茶に好きなレコード持って集まったりするのが楽しかった。みんなブルースのレコードを持ってくるから、集まり過ぎて、1ヶ月に一回ブルースコンサートをしたりもしたんよ。ちっちゃい共有が嬉しかった。1人で聴くのとは全然違うんよ。

ジョニー:あぁ、なんかすごくいいですね。そういうの憧れます!

鮎川:ものすごく楽しい時間だった。1972年頃に、高田渡やら、今、3KINGS(鮎川誠、友部正人、三宅伸治)っていうバンドで一緒にやりよる友部正人やら、泉谷しげるやら井上陽水やら、カルメン・マキ&OZやらも出て、地元のバンドもたくさん呼んで初めて福岡でロックコンサートをしたんよ。僕らももちろん出て、いろんなバンドのカヴァーをやった中で英語が普通の感覚やったから、とくに日本語で歌うことは意識してはいなかったんやけど、ちょうどその頃、『ニューミュージック・マガジン』とかで、日本語の歌詞という、言葉を取り沙汰されていてのもあって。フォークとかロックとか、いわゆるニューミュージックが商業的な音楽ビジネスとして成長した時代やった。ある日、柴山さんがレシートの裏に“俺の身体は黒くて長い 夜になったらぬけだして 手当りしだいにはいまわる 俺のあだ名は キングスネーク俺のあだ名は キングスネーク”って書いた歌詞を俺に渡してきて。お、いいやん! って思ったんよ。

ジョニー:おぉ! 「キングスネーク・ブルース」ですね!

鮎川:そう。俺は、レッド・ツェッペリンみたいなリフから行こうと思ってたから、ピッタリはまるなと。それがキッカケで日本語の歌詞で曲を作るようになったんよ。

ジョニー:「キングスネーク・ブルース」が最初なんですか!?

鮎川:そう。「キングスネーク・ブルース」が最初。

ジョニー:すげぇ! すごい話聞いちゃいました! 感動です!

──鮎川さんは曲を作られるとき、詞先なんですか?

鮎川:うん、もちろん。今でもそうよ。歌詞で言いたいことが、100年経ってもカッコイイか見ないとね。曲は作れない。ブルースはとくにそうやと思う。“今日、辛かったね!”っていうことを言う為にブルースは有るからね。

ジョニー:そうですね。「キングスネーク・ブルース」から日本語の曲を作るようになったんですか?

鮎川:そう。日本語の曲を作るようになった時期から、東京のバンドとの交流も出来て来て、よく博多に来るようになって。福岡にも夢本舗ちゅうプロダクション(イベンター)が出来て、吉田拓郎とかを呼んだりしてた。夢本舗の人達もサンハウスを応援してくれていたのもあったから、よくイベントに呼んでくれていて。トランザムっていう東京のバンドとのツアーを組んでくれてたりもした。1974年頃には、上田正樹とか、大阪からはウエスト・ロード・ブルース・バンドとか、名古屋からはセンチメンタル・シティ・ロマンスとかも来て。地元から発信していける時代がきた気がしたんよね。あの頃はそうやって地元でのテリトリーみたいなのがあったし、自分の家にレコードもいっぱいあったし、なかなか上京しようっていうところに頭がいかなかった。俺たちにもテイチクからレコードデビューの話が来たんやけど、当時の俺たちは地元から出る気持ちがなくて。そしたら、上京しなくても力になりたいって言ってくれて。ただ、レコーディングは、機材の関係や環境もあるから東京でやってくれって言われて。そんで、1975年に『有頂天』ちゅうアルバムでデビューしたんよね。

ジョニー:それは東京でレコーディングしたんですか?

鮎川:そう。マガジンハウスが入っていた音響ハウスでね。

ジョニー:その頃もレスポールカスタムだったんですか?

鮎川:そう。1969年のね。津和野(津和野勝好)が買ったギターやけどね。津和野は、その当時ずっと博多でハコ(専属のダンスホールで演奏するバンド)しおったんよ。津和野が買うたって聞いて、触らせてもらいに行って。カッコ付けて津和野よりも先に写真撮って(笑)。津和野はいつもそのギターを勝負せないかんライブのときに貸してくれとったんよ。『有頂天』のレコーディングで東京行くときも貸してくれて。だから、『有頂天』は、借り物のレスポールで弾いたんよ。その頃、俺はストラトキャスターを買うとったんやけど、自分が望んで選んだんじゃなくて、当時のマネージャーが探して来てくれたやつやって。ずっとそれで弾いてたけど、やっぱりレスポールの音が最高やって。その頃、ヤマハがSG85っていうギターを作ったんやけど、それをくれて。1974年からは、しばらくそれを使っていたかな。それもすごく良かったけど、やっぱりレスポールは別よ。全然違う。メンバーみたいなもんで。“あぁ、そういう曲好きなんやね”って、ギターの方が分かってくれて、その音を出してくれるんよ。

ジョニー:ギターが出したい音を分かって出してくれるんですね! すごい! でも、その感覚分かる気がします!

鮎川:うん。なったごとよ。俺の人生なったごと。結局、サンハウスのメンバーは、誰1人として上京は望まんかったけ、東京に行くことはなかったね。でも、テイチクから次の年にもレコードをもう1枚出したけど、なんとなく日本でのロックのブームが少し去って、仕事があんまり来んくなって。ロックも、裏には商売が潜んどるとこも少しはあるかも知れんけど、でも、やっぱりロックは商業ではなく、教えてくれるものやから、その後もずっとロックと出逢ったときと変わらず夢中になれた。やっぱりロックは特別やったね。

ジョニー:俺たち首振りDollsは、去年の6月に上京してきたばっかりで、やっと1年なんですけど、鮎川さんもシーナ&ロケッツで上京を選んだんですよね? それはどうしてですか?

鮎川:シーナのお父さんの一言がキッカケやった。“あんたの曲は、使い物になるのか、ならんのか。やってみるだけやってみらんね。娘(シーナさんのこと)をほんとに幸せにしきるんか、こぎゃんとこに居るくらいなら、一回、東京で勝負してみんね。「ビールス・カプセル」とか、痺れとるばい、わしゃ。俺たち夫婦もまだ若いけん、子どもは任せて、思い切り、スパッと勝負してみい!”って言うてくれて応援してくれて。シーナも本当に応援してくれて。“歌がいるなら、アタシが歌とうてやるよ”って言ってくれたから、“なら歌って”みたいなね。

ジョニー:それが結成と上京の経緯ですね! 

鮎川:そう。それで、勝負かけに東京に出たんよ。シーナのお父さんが“精一杯やって来いよ!”って言った、その“精一杯”を、今もずっと心に置いてる。東京でやっていくって大変や。北九州やら久留米はどんだけ気楽か。“精一杯やるのは今やけ”“金をケチらんと、今、金使わんでいつ使うね! 今勝負せんで、いつ勝負するんね!”ってね。その言葉が背中を押してくれた。

ジョニー:シーナさんも素敵だし、シーナさんのお父さんもすごく素敵な方ですね。

鮎川:そう。本当にね。本当に感謝しとるよ。

◆(続き)「上京してきて、埋もれてしまわないために言葉を考えたんよ」
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