マシュー・ロー、クラシックのイメージを変える “癒されない”ピアノアルバム

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「クラシック音楽」と聞いたとき、あなたはどんなイメージを抱くだろうか。癒し、ヒーリング、安眠、リラックス、集中力向上……。そんなイメージを一掃するマシュー・ローのプログレッシブなピアノアルバム『Mélangé』(メランジェ)が、7月22日(水)にリリースされた。

◆マシュー・ロー 動画、ジャケット写真

イギリス人の父と日本人の母を持つマシュー・ローは、桐朋高等学校音楽科を首席卒業後、パリ国立高等音楽院のピアノ科および修士課程を審査員満場一致の最優秀および首席で卒業した新進気鋭のピアニストだ。ちなみにパリ国立高等音楽院は『のだめカンタービレ』で主人公が留学している学校(のモデル)である。

なお、マシューは2019年に発表した楽曲「Want Money」でシンガーソングライターとしてもデビューしており、6月には1stデジタルアルバム『LOST2』がリリースされている。高密度かつ透き通った中性的な歌声が紡ぎ出す地盤のしっかりした音楽を、ぜひお聴きいただきたい。


さて、新作アルバム『Mélangé』だが、これは分類的に「クラシックアルバム」ということになる。しかし収録曲は近・現代のものばかりで、最も新しい「トッカティーナ(『8つの演奏会用エチュード』より)」は1984年作曲と、日本でチェッカーズやサザンオールスターズがヒットしていた頃に生み出されている。これはクラシック音楽史的に言うと、「ちょっと前の曲」を通り越して「ごく最近の曲」である。

このアルバムの何に注目するかって、まず作曲家の顔ぶれが凄い。カプースチン(1937~2020 露)、ドビュッシー(1862~1918 仏)、バルトーク(1881~1945 洪)、メシアン(1908~1992 仏)が並ぶのは、まさに“近・現代オールスターズ”な豪華さだ。これで面白いアルバムにならないわけがない。

選曲や曲順も、作品ごとの個性とアルバム全体のバランスを俯瞰した上で、ピアニストとしての技巧と特性を表現している、という印象だ。全体的には聴きやすい楽曲が選ばれており、曲の長さも1曲あたり4分程度(最長でも8分)なので、プログレッシブ・ロックを聴くような気軽さで最高峰のクラシックに親しめるのが、今作のある種の魅力だろう。

しかし、メシアンの超難解な作品もしっかり収録されているのが面白い。このアルバムは近・現代クラシックの“美しく、ロックやポップスにも通じる”部分だけを見せるのではなく、“難解で、知識が無いと表面をなぞることも難しい”部分も教えてくれるのだ。

演奏は正確かつ冷静で、エモーショナルながら過剰にヒートアップしない落ち着きも併せ持つ。技巧面では音色の種類や音量の幅が広く、特にスタッカートと連打には極上のものを感じた。それをしっかり聴かせてくれる録音表現も感動的である。

アルバムを再生すると、まずカプースチンの万華鏡めいた幾何学的なナンバー「トッカティーナ」が耳に飛び込んでくる。カプースチンはジャズの音楽理論とクラシックの音楽理論を組み合わせた作風で知られており、確かにこの曲も“クラシック音楽”というより、いっそ先進的なロックのようにも聞こえる。アルバムの性格を印象付けるのにぴったりな選曲だ。

楽曲は2分程度の小品だが、その2分間で、マシューの演奏技術の高さは遺憾なく発揮されている。楽曲の印象を支配する連打音は、鋭利な針先で音の粒を縫いつけているようだ。丸く透き通った音色からは、ガラス玉が固い床に降り注いで跳ね回るイメージが浮かんでくる。

それが終わると、ドビュッシーの作品が続く。ドビュッシーは伝統的な音楽理論から程良く離れた作曲家で、少し変わった音階やコード進行を好んでいた。作風は品良く豊かな色彩感と、民族音楽から影響を受けた親しみやすさとが混在しており、独特な個性に加えて、言語化できない浮遊感が漂う。

まず演奏されるのは、ドビュッシー初期の名作『2つのアラベスク』だ。流麗な第1番は打弦楽器を思わせる音色で奏でられ、溌剌とした第2番は飴玉を転がしているようなスタッカートが特徴的で、音に手触りや質量を感じさせる演奏表現が素晴らしい。

続く3曲は、小品集『前奏曲集第1番』から抜粋された、それぞれ個性の異なる作品となっている。まずはイタリアのナポリに位置するカプリ島西部の美しい風景が浮かぶ「アナカプリの丘」から。アナカプリは紺碧の海と、岩肌を緑が覆う丘、家々の白い屋根が美しい場所で、楽曲は涼やかな風が丘や街並みを駆け抜けて行くように聴こえる。ピアノという楽器の音域による音色の違いを存分に活かした演奏では、高音部のチカチカした無邪気な明るさが耳をくすぐる。

次に収録された「西風の見たもの」は、ドビュッシーの作品の中でも特に派手でテクニカルな1曲である。フランスにおける“西風”は、吹き荒れる強風や不穏な風を意味しており、この曲もドロドロとしたメロディが複雑にぶつかり絡み合いながら、インパクトのある不協和音に流れ込んでいく。強風の中に立っているかのような遠近感の表現と、濁ったハーモニーを穿つ連打音の透明感には思わず心を奪われる。

『前奏曲集第1番』からの最後の1曲は、“信仰の薄さの罰として海没した大聖堂が、ときおり水面に浮かび上がってくる”という伝説をもとに描かれた「沈める寺」だ。こちらは退廃的な和声の平行移動が、やがて壮麗な聖歌へ変容していく圧巻の作品で、ピアニストの強弱表現の巧みさが、音楽をより劇的なものに仕上げている。

ドビュッシーに続いては、バルトークが登場。バルトークは蓄音機を担いで農村を回り、人々が歌う“生の民謡”を採集した研究者としても知られており、土着的で荒々しく、「ピアノを打楽器として扱う」という発想も随所で見られる野心的な作風を特徴としている。しかし実際には確固たる音楽理論に基づいて作曲されているのが解釈の難しいところだ。

今回収録された『ピアノ・ソナタ Sz.80』は、先ほどまでのドビュッシーの作品とは打って変わった衝撃的な作品だ。このピアノ・ソナタには“ピアノの繊細な響きを活かした”という印象がほとんど感じられず、いっそオーケストラの音色のように聞こえるから面白い。

「1楽章 Allegro moderato」は行進曲めいた重々しく力強いリズムで幕を開ける。ゴツゴツした泥臭さや硬派な雰囲気はバルトークの特徴だ。ショッキングな打音も手堅くまとめ、真っすぐ音を積み重ねる演奏は、ピアニストの楽譜に対する誠実な姿勢を感じさせる。

「2楽章 Sostenuto e pesante」は“急-緩-急”の“緩”にあたるが、穏やかというよりは神経質で不愛想な空気が漂う作品となっている。この楽章の演奏は均等な音色の表現が美しく、音量の強弱に響きの質が左右されない細かな技術の精密さを聴かせてくれる。

総括的な「3楽章 Allegro molto」は舞曲的な作品で、軽やかにステップを踏みながら駆け回る踊り子の姿がメロディから浮かぶ。演奏は土着的な空気や奔放さを演奏者の個性とあわせて存分に活かしつつ、楽譜と真剣に向き合い、バルトークの意図を描き出そうとしているように聴こえた。

『ピアノ・ソナタ第1番』が終わると、メシアンの難曲「喜びの精霊の眼差し(『幼子イエスに注ぐ20の眼差し』より)」の冒頭部分が聞こえてくる。こちらはアルバム中で最長かつ、最も難解な楽曲だ。メロディは硬質な冷たさと熱狂を併せ持ち、熱を帯びた演奏は1音1音の色彩を星が瞬くように描き出す。

メシアンという作曲家は独自の理論と感性、思想に基づいた作曲を特徴としているので、たとえ音大生であっても、解説を読んでスルっと理解するのは難しい。感覚的に言うと、メシアンの作品は「オリジナル言語とオリジナル文法で書かれた小説」というイメージだ。特にこの『幼子イエスに注ぐ20の眼差し』は彼独自の理論(文法)が詰め込まれた、論文的な作品でもある。

アルバムの最後を締めくくるのは、ドビュッシーの「月の光(『ベルガマスク組曲』より)」の静謐としたメロディだ。硬さと脆さの間を繊細に揺らぐ音色の表現は、凪いだ湖面に映る白い月が、細波に崩れる姿を想起させる。激しく前衛的な楽曲が続いた後、親しみのある穏やかな旋律でアルバムの全体をまとめ上げるのは、アーティストのセンスの表れでもあるだろう。

アルバム『Mélangé』はクラシック音楽ビギナーから、演奏の癖でピアニストを聴き分ける玄人まで楽しめる意欲作だ。普段はクラシックをあまり聴かないロック好き、特にプログレ好きの方にもぜひ手に取っていただき、鍵盤の上を踊るようなスタッカートの表現に魅了されてほしい。

文◎安藤さやか(BARKS編集部)

■『Mélangé』


▲『Mélangé』

2020年7月22日(水)配信リリース
【配信】COKM-42772/【ハイレゾ】COKM-42773
レーベル:日本コロムビア
[収録楽曲]
01.カプースチン:トッカティーナ ~「8つの演奏会エチュード」より
02.ドビュッシー:アラベスク第1番 ~「2つのアラベスク」より
03.ドビュッシー:アラベスク第2番 ~「2つのアラベスク」より
04.ドビュッシー:アナカプリの丘~「前奏曲第1巻」より第5曲
05.ドビュッシー:西風の見たもの ~「前奏曲第1巻」より第7曲
06.ドビュッシー:沈める寺 ~「前奏曲第1巻」より第10曲
07.バルトーク:ピアノ・ソナタ Sz.80 l:Allegro moderato
08.バルトーク:ピアノ・ソナタ Sz.80 ll:Sostenuto e pesante
09.バルトーク:ピアノ・ソナタ Sz.80 lll:Allegro molto
10.メシアン:喜びの精霊の眼差し ~「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」より
11.ドビュッシー:月の光 ~「ベルガマスク組曲」より

・『Mélangé』配信サイト:
https://nippon-columbia.lnk.to/rkKxnEb3

■『LOST2』


▲『LOST2』

2020年6月24日(水)配信リリース
【配信】COKM-42770/【ハイレゾ】COKM-42771
レーベル:日本コロムビア
[収録楽曲]
01.Portable Sunshine
02.Want Money
03.(Can’t) Take This
04.Last Song ※シマンテック社セキュリティソフト「ノートン」WEB CM曲
05.Shine
06.Love Me
07.まだ見ぬ人へ(piano solo)※民間放送教育協会「日本のチカラ」エンディングテーマ(18年10月~19年3月)
08.Ain’t a Love Song

・『LOST2』配信サイト:
https://nippon-columbia.lnk.to/07DzmejK

◆マシュー・ロー オフィシャルサイト
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