【コラム】「この世界の片隅で -color-codeの奇跡-」第2話

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第2話「幻の登竜門」


「POP ICON PROJECT」というオーディションで選ばれた私たち3人は、最終オーディションのその日からユニットとして組んだというだけで、ほぼ初対面だった。ななみとまこは大阪のダンスレッスンで顔を合わせたことがあったそうだが、キャラの全然違う2人なのでそこで仲良くなることはなかった。ななみん曰く2人の初対面は、スケスケのタイツをレギンスとして履いてレッスンに現れたまこを「ちょっと変な人」として遠巻きに見ていたらしい。

オーディション後は、それぞれグループ名を考えてきてほしいとのことで何個か案を提出したりした。わたしは、大学の授業中に考えたいくつかの案を出した。その中に"color-code"もあった。レコード会社側でもたくさんいろんな案を考えて、全てをプロデューサーに提出したところ、"color-code"が選ばれたとのことだった。授業中だったけど、真剣に考えて本当によかった。話題性やキャッチーさを求めて「抹茶ガールズ」とかにならなくてほんとによかった(これは本当に候補にあったらしい)。

プロデューサーはたまに日本に来ては、私たちに課題のようなものを与えて帰っていった。なんか歌ってみてよ!という無茶振りに、なぜか私たちはサザンオールスターズの「愛と欲望の日々」を選んで3人で並んで歌った。いや、なんでやねんっっっ!一周回って逆に面白いわ!ツッコミどころしかない。

もちろんこんな無茶振りだけじゃなく、一流のカメラマンやヘアメイクをつけて、撮影みたいなこともやってくれたり、プロデューサーの虎の威を借りて雑誌の取材も受けたりさせてもらった。プロの現場を肌で感じ、自分たちもこれから明るいキラキラした道が待っているとばかり思い込んだ。だって、わたしたちは"メジャーデビュー"ができるんだから!


しかし、この当時のわたしたちは(自分で言うのは非常におこがましい。まだ原石の可能性は十二分にある)、謂わば「原石」の段階だった。原石なんて、普通にみたらただの石ころだ。世界第一線で活躍するスタイリストであるわたしたちのプロデューサーは、ただの石ころ三つを、なんとか見られるものにしようとたくさんの機会と衣装を与えてくれた。

だけど、石ころは磨かなければ、中の綺麗なところは出てこない。ただちょっと色が綺麗なだけでゴツゴツとして、そこら辺の石とそんなに変わらない石にどれだけ化粧をして服を着せても、それは着飾った石ころに過ぎない。わたしたち石ころに必要なのは、外側が削られて磨かれて中身の美しいところが出てくるまで荒波に揉まれて、研磨されることだった。しかし、そのころの自分たちではそのことに気付けるはずもなかった。

一方楽曲提供は、ななみんが「多分無理だと思うけど、m-floのVERBALさんに昔から憧れてます」とボヤいたのが現実となり、VERBALさんにお願いできることになった。歓喜するマネージャーとメンバーの横で「verbal? m-flo?誰?外人?」となりながら、知った顔で喜んだ風にしていたということはいまここで初めて暴露している。


そしてオーディション時の約束通り、わたしたちは結成してから9ヶ月後、VERBALさんの曲を引っ提げて、さいたまスーパーアリーナ<TOKYO GIRLS COLLECTION>で初舞台を踏みメジャーデビューを果たした。字面だけでもすごいことだ。もっとすごいのは、さいたまスーパーアリーナで初舞台を踏んでも、売れないもんは売れないという事実だ。


見た目の奇抜さで多少話題になった瞬間もあったが、その波はすぐに凪いでしまった。やがてプロデューサーさんはあまり日本に来なくなり、連絡も徐々に取れなくなっていった。color-codeは、まだ結成して1年半しか経っていなかった。完全にプロデューサーに頼り切っていた私たちは、途方に暮れた。そして、途方に暮れていたのは私たちだけではなかった。

ある日、レコード会社の担当者さんに呼び出され、いつものミーティングかな?と気軽な気持ちで向かった。代々木の駅前のプロント。忘れもしない。席についた私たちに、担当者さんは開口一番、こう言った。

「あのー、僕たちにできることはもう全部やったので、あとは君たちがお友達とかコネとか作って、頑張ってください」

いや、うん、その通りだ。そういうのが大事な世界だ、がんばろう!

そう思って、「ハイ!!」と、3歳なら褒められる良いお返事をして帰ってきてしまった。アホか?アホなのか?

そしてその後、
わたしたちは本当に何も仕事がなくなった。
仕事だけじゃなく、プロデューサーもいつのまにか霧のように消えてしまった。
こうしてcolor-code、石ころ3つだけが残されたのだった。


"メジャーデビュー"
アーティストを志すもの、誰しもが憧れ目指す登竜門は、それだけでは何の意味もないまやかしに過ぎない。本人たちや周りの方のやる気や明確なビジョン、目標、そこに向かうための手段や道筋、そしてそれにともなった実力や魅力、そういうものが全て満たされた人にとってだけ、形を持って存在する、幻の登竜門だった。

わたしたちは、この登竜門をくぐった。くぐらせてもらった。でも、その先は何もなく、くぐったはずの門も跡形もなくなっていた。だだっぴろい音楽業界で、途方に暮れた。

徐々に人が離れていく。人に見限られていく。
あのときの絶望感は、なかなかのものだった。
それでも、時は経つ。家賃はかかる。お腹は空く。いま目の前にあるこのcolor-codeというのを、どげんかせんといかん。

「color-codeはどういうグループなのか?」
何度もノートに書いた言葉だ。三人で嫌になるくらい毎日考えた。しかし、与えられたものを受け取るだけの結成時の養分はもうとうになくなっていた。

やがて問いは、「color-codeをどういうグループにしたいか?」という、能動的なものに変わっていった。わたしたちは自分たちで、1から、私達の存在理由を見つけていなかければいけない段階に来ていた。だがこれが本当に難しい。

もともと仲良しこよしだったわけでもない。それぞれの良さをわかった上で結成したわけでもない。上の人たちが何かの基準で2000人から選りすぐった3人で組まされただけのわたしたちが、それを見つけるのは、生半可なことではなかったのだ。

みんなとにかく必死だった。必死で、color-codeをなんとか良くしようと、話し合いで6時間くらいカフェで粘ったりしていた(店員さんごめんなさい)。

わたしのこの時の状況は、ただ周りに流されていただけだった。まりちゃんは、何がしたいの?color-codeで何をしたいの?メンバーにたぶん100回くらい聞かれた。聞かれても、わからなかった。「だって、受かっちゃったから…ダンスボーカルグループなんて、やると思ってなかったから…」喉元までこの言葉が出かかって、声には出なかったけどたぶん顔に出ていた。

一方ななみんは、これが最後と思って受けたオーディションで合格していただけに、初めからcolor-codeに自分の夢を賭けていた。その思いが人一倍強かったし、他二人がぼんやりとしたタイプゆえに率先してリーダーをつとめてくれ、発言をしたりする機会も多かったため、その話に同調できるまことななみ色に、color-codeは徐々に染まっていった。これは、ななみんがワンマン経営してたというわけじゃ決してなく、わたしが思考停止して何の発言も出来なかったから偏っていっただけだと今ならよくわかる。

ななみんだって、全然わかってないことがたくさんある中で、いろいろ試行錯誤していたのだ。自分がやるしかない。てかなんでこいつら全然動かないんだよ、発言しろよ、てか練習しろよ!!!当時のななみんの気持ちが、いまならすごくすごくわかる。ごめん。

しかし、ななみ色に染まりゆくcolor-codeの中で、意見のないわたしはどんどん息が出来なくなっていった。あれ?color-codeにわたし、必要ないんじゃないかな。ななみんとまこちゃんで、ボケとツッコミで、2人でバランス取れるじゃん、ライブでも全然歌パートないしさ、抜けてもあんま変わんないじゃん、いいじゃん、へへ…………もう、やめちゃおうかな。

そんな時、オフィシャルTwitterのDMに、海外の方から問い合わせがきた。なんと、出演料や渡航費など全て出すから、ベルギーで行われるイベントに出演しないかという、当時わたしたちには滅多にない、出演オファーだった。

この経験が、私たちのこの後を大きく変えていくことになった。

(つづく)

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