【コラム】「この世界の片隅で -color-codeの奇跡-」第5話

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第5話「希望」


二人目のプロデューサーが抜けたあと、color-codeに残ったのは新人マネージャーのサトちゃんだけだった。わたしと同い年のサトちゃんは、Xの元でわたしたちの現場回りをすべて捌く現場マネージャーとして奔走し、Xの"愛のムチ"でビシバシ鍛え上げられていた。

「とにかく、たくさんライブに出たい」

ヨーロッパツアー以降、ずっとそう訴え続けていたわたしたちは、痺れを切らし自分たちでライブハウスに資料を送ったりもしていた。それが少しずつ実を結び始めていたころ、サトちゃんとXがcolor-codeプロジェクトに参入した。

サトちゃんは体当たりでいろんなライブハウスに営業に行ったり、ラジオ局に電話してパワープレイを取ったりと、教えられたことをひたすらこなして、マネージャーとして動いてくれた。というのも、color-codeのいる事務所はもともとIT企業なので芸能事務所として特化したノウハウなどなく、サトちゃんが唯一の営業マン。コネやツテも、彼女が開拓していくしか方法はなかったのである。

3年半ほど鳴かず飛ばずのcolor-codeだったが、Xが大量に曲を制作してくれたおかげで、奇跡的に新しいレコード会社への移籍が決まっていた。考えてみれば、3年も赤字続きのアーティストをよく拾ってくださったと思う。


移籍先のレコード会社でデビューシングル「if~この声が届くなら~」のリリースをしたとき、わたしたちは憧れの「ショッピングモールでのインストアライブ」をやることができた。サトちゃんとレコード会社の必死の営業のおかげで、インストアライブは大量に入っていた。その中の一つで、私は忘れられない回がある。

その日は朝から車で2時間ほどの関東のイオンモールだった。イオンモールでインストアライブなんて!アーティストみたい!!!念願の一つだった。会場についたころ、曇り空は今にも雨を降らしそうな薄暗さだった。駐車場について車を降りると、田舎特有のだだっ広い駐車場のどこかから、うっすら、音源が聞こえる。嫌な予感がした。

「今日のステージは、あの奥です」
「…はい!ありがとうございます!(え…ステージどこ……?)」

都会育ちの方は知らないかもしれないが、田舎は基本土地を持て余しているので、セブンイレブンの駐車場ですらテニスコート2枚分くらいある。それがイオンモールの駐車場となると、マジで千代田区くらいあるのだ。果てなど見えない。その見えない果てに、ステージがあるらしかった。

着替えをしてメイクをして髪の毛を巻いて、ヨシッ、と外に一歩出た。顔につぶつぶと水滴が当たる気がするが気のせいだろう。だって、イオンモールの"イン"ストアライブだもん♪と意気揚々とステージへと向かった。10分くらい歩いて着いたステージはとにかく広かった。なにって、客席が、横浜アリーナくらいあった。わたしが浜崎あゆみだったら「アリーーーナーーーーーーーーーーーー!」と叫んでただろう。

そのアリーナ席に、駆けつけてくれたファンの方が、3人、傘をさしながらぽつぽつと座っていた。もう、なんか申し訳なかった。わたしがお客さんだったら、本人が来る前に気まずすぎて席を立ってフードコートではなまるうどんでも食べていたと思う。でも、わたしとちがってcolor-codeのファンの方は優しいのだ。それがcolor-codeの自慢の一つだった。

目の前のお客さんにパワーをあげる。お客さんが1人でもいる限り、わたしたちはステージの上でcolor-codeなのだ。全力でライブをした。「if~この声が届くなら」のバラードのタイミングで、雨脚が強まってきた。曇天が気を利かしたのか?雨がしっかり降る中、3人のお客さんのためだけに歌ったif声が、わたしは忘れられない。


一度、"街角ミュージック"というイベントにブッキングしていただいたこともあった。市が主催するイベントとのことで、意気揚々と衣装に着替えて車を停め、Google マップをみながら商店街の中を進むと、突如小さなテントが現れた。そこは"街"の曲がり"角"で、お客さん用の椅子がならべてあり、「あっ、ナルホド、、これが本当の"街角"か~」ということもあった。

そんなふうに、多いときは1週間に5本、1日に2本も3本もライブをさせてもらった。そして、そんな小さな機会を重ねるうちに、少しずつ「ファンの方」と言える方々が、わたしたちにも現れたのだ。

少しずつ増えたファンの皆さんは、本当に足繁くライブに通ってくれた。それでも、当時のわたしたちは「数打ちゃ当たる」の理論でとにかくたくさんのライブに出ていたから、ライブハウスのライブをブッキングしてもらっても取り置きはいつも1枚か2枚だった。0枚もザラだった。仕方ない!0枚なら、初めて見てくれたお客さんを全部つかもう!そう気合を入れてドキドキしながらステージに出ると、他の出演者さん目当てで来ていたお客さんが遠巻きにまばらな拍手を送ってくれた。ステージの前列はいつも遠慮がちに空いて、そこに、わたしの母が一人でぽつん、と、ニコニコしていた。彼女は、連日あるライブのために、千葉の田舎から1時間半車を飛ばして、20分や15分のライブを観にきてくれた。終わると「今日も可愛かった、見にきてよかった!」とLINEをくれて、またひとり、車で1時間半かけて帰って行くのだった。

ファンの方も、関東のあらゆるところでポツポツと増えていくライブに遠くからわざわざ観に来てくれていた。広いホールにお客さんがたった2人だけだったときも、申し訳ない気持ちが溢れてきそうなわたしたちに満面の笑顔で「とっても贅沢なライブだったよ♪」と言って、帰って行った。

この人たちの愛に、何度も何度も救われた。わたしたちは地下のリハーサルスタジオでライブのリハをしながら、「いつか大きいステージでライブするようになったら、それぞれのママと、今いるファンの皆さんを絶対一列目に招待しよう」と誓った。その誓いがあったから、小雨が降る路上ライブでも、プロデューサーXにコテンパンにやられても、ステージから 大きなあくびをしているお客さんが見えて号泣した日も、「辞める」ことは選択肢になかった。「まだみんな、知らないだけだよ!color-codeのことを!」そう言いあって、挫けそうな心を持ち直した。


とにかくライブを重ねた2年間、それが2018年と2019年だった。初めは、出られるライブは小さなライブハウスや、街のイベントばかりだったが、わたしたちはサトちゃんの運転する車でどこへでも行った。川崎や渋谷で路上ライブに明け暮れた日々もあったし、呼ばれたら大阪や仙台までもサトちゃんは車を飛ばしてくれ、サービスエリアで仮眠しながら日帰りライブツアーを何本もこなしてくれた。車で6時間かけて大阪に行って6時間かけて帰るコースは何度もやったが、その行き帰りの車中は女子会然として恋バナから夢の話まで話尽くすか、疲れて爆睡するメンバーを横目に、同じくらい疲れているはずのサトちゃんがレッドブル片手に夜通し運転してくれていた。


だが、毎日のようにライブをしても、歩合制で契約しているわたしたちのギャラは毎回0円だった。時折入るわずかな収益も、今までの移動交通費やレッスン代、グッズの原価の赤字を補填して全て消えた。稼がなければ何も貰えないが、自分たちが稼ぐようになった時は給料制よりずっと割がいいという、そういう契約なのだ。これは無人島0円生活よりも一ヶ月1万円生活よりも東京で4年間毎月0円生活の方がキツいのでぜひ番組でやってみていただきたい。事実は小説より奇なり。

ちなみに、アーティストというのは夢の職業かもしれないが、"歌唱印税"とかいうやつは当時のcolor-codeのレベルだと毎月10円とかにしかならない。これで何億と稼いでるアーティストがいると思うと、それがいかに"夢(のように儚い)の職業"かを、身をもって体感できるというものだ。

体制に承知してはいた。売れるしか方法はないとわかっていた。でも、自分たちが売れないせいとはいえ、それも4年続くとたまには不満を唱えたくなる時もあり、その不満は自然と、わたしたちと事務所の唯一の窓口である、サトちゃんに向かった。

「サトちゃんはサラリーマンで、月々ちゃんとお金をもらってるじゃん!わたしたちは0円なんだよ!毎日声が枯れるまで歌っても、0円なんだよ!」

そう言ってサトちゃんに当たったりもした。

でも、考えてみたら、だ。同じ給料をもらえるなら、適当にやることだってできる。前のマネージャーみたいに言われたことだけやって土日の連絡に応答しなくたって、月額の給料はもらえる。でもサトちゃんは、土日もわたしたちに帯同するのはもちろん、営業しにいったり連絡をとったり、四六時中働いていた。眠い目をこすって往復12時間の運転をし、ライブのサポートをし、文句一つ言わなかった。やるかやらないかを選べる仕事を、進んでやってくれていたのだ。

ライブのスタイルやわたしたちの態度についても、サトちゃんは同年代の女子ながらときに厳しいことも言ってくれた。怒ると泣いてしまう彼女が、ある日顔を真っ赤にしながら涙をこぼして、「一緒にやっていこうって、わたしはcolor-code絶対売れるって思ってやってるのに、なんで3人だけで全部決めちゃうの?」と言ったときは衝撃だった。どういう衝撃かというと、

「たっ………………………………たしかに!!!!!!!」

というものだった。

考えてみると、プロデューサーがいないときは、なにもかも全部「3人」だけで決めてやってきた。衣装も、髪型も、ライブのセトリも、事務所の近くのスタバでミーティングをして自分たちで決めた。何事も、癖になるとなかなか厄介だ。color-codeはもはや、人間不信みたいな状態だった。それも、現場に絶対現れないXと違い、こんなに必死で土日も返上して毎日走り回ってくれてるさとちゃんですら、信用しようとしてなかった。というよりも、誰かと相談して決める、という発想がなかったのだ。

でもサトちゃんがそうやって身を切るような思いをして伝えてくれる言葉たちは「もしかしてこの人は本当に、わたしたちと四人三脚でやっていこうとしてくれてるのか…?」と身に染みてきて、わたしたちの心を解かしていった。

このサトちゃんの登場は、わたしたちにとって大きな転換だった。誰にも任せない、誰も信じない、そう決めたわたしたちが、サトちゃんを自分たちの「内側」に入れる。color-codeが、誰かを頼り始めたはじめの一歩だった。


それからわたしたちは、自分たちのミーティングにさとちゃんを入れていった。髪の毛の色どうしよう?次のライブのセトリどうしよう?第三者の意見をしっかり聞くのは新鮮だった。4年間、ずーっと三人だけでやっていたリハにも、参加してもらうことにした。体感的に、color-codeが四人組になったみたいだった。

そうすると、ファンの人たちは少しずつ増えていった。ファンが増えてくると、自分たちの言葉の重みやライブに対する価値観がどんどん変わっていった。そして、さとちゃんと四人三脚で全力疾走を始めると、それを見た「本気の人たち」が集まってきてくれるようになった。スタッフさんだ。サトちゃんをはじめ、集まってきてくれるスタッフさんたちが口を揃えていってくれたのは「color-codeが好きだから」という言葉だった。

みんな、好きなことを仕事にしたいんだ。わたしたちだってそうだ。オーディションに受かってから、歌という好きなことを仕事にしたいから、辞めないでここまで来ていた。それと同じことだ。どうせやるなら、好きなことをしたい。

大切だったのは、ファンの人たちだけじゃなくスタッフさんからも、好きだと言ってもらえる人間、アーティストでいること。本気で夢に向かい謙虚に、誠実に向き合うアーティストでいること。本気の人には、本気の人たちが集まってきてくれるんだ、という、希望。

サトちゃんがcolor-codeにもたらした一筋の希望の光が、わたしたちの未来を照らしはじめていた。

(つづく)

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