【インタビュー】仲村宗悟「なぜ歌い始め、何を表現し、これから何を目指すのか」

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2019年に「第13回声優アワード新人男優賞」を受賞し、今最も注目を浴びる声優として知られる仲村宗悟が、もう一つの顔であるボーカリスト/ソングライターとしての才能を開花させ、アーティストデビューを果たしてから1年が経った。沖縄生まれ、18歳で上京、フリーターを続けながら音楽を志し、声優として評価され、再び音楽で脚光を浴びるという起伏に満ちた半生は、どんなドラマよりもドラマチックなものだ。彼はなぜ歌い始め、何を表現し、これから何を目指すのか? BARKS初登場、アーティスト・仲村宗悟の内面に迫る決定版インタビューをお届けしよう。

■何か思ったらすぐやりたいという性格は
■人間はいつどうなるかわからないからと思っているから


──今日は、アーティスト仲村宗悟について、根掘り葉掘り訊いていこうと思います。ちょうど1年前にCDデビューしたわけですけど、それは待望のアーティストデビューだったわけですよね。それまでの長い道のりを振り返ると。

仲村宗悟(以下、仲村):そうですね。高校を卒業して、音楽をやるために東京に出てきたんですよ。音楽の専門学校に2年間通って、卒業を迎えて、でも何にもなれず、20歳から26歳ぐらいまではずっとフリーターをしながら、自分でハコ(会場)を取って対バンするみたいなことを続けていました。音楽が好きだからやっていたんですけど、お金がないと生活できないので、だんだんバイトと音楽の比重がバイト寄りになってきて、これはヤバいぞと思って。そこから…僕は「やろう」と思ったらすぐ動く人なので、その時の知り合いに音楽をやりながら芝居をやっている人がいて、「芝居も面白いな」と思うようになって、声優業界に飛び込んだんですね。

──そこが最初の、大きなターニングポイントですか。

仲村:完全にそうですね。事務所に入ったのが26歳の時なので。

──遅いほうですよね。

仲村:全然遅いですよ。同期に10代もいましたし。でもそこから、ずっとやりたいと思っていた音楽もやることができるようになったのは、運命だなと思いますね。31歳でアーティストデビューできるなんて、本当にありがたいです。声優のほうの作品を通じてレーベルさんと関わる機会がいくつかある中で、いまのレーベルに「僕が書いた曲を聴いてもらっていいですか?」と声をかけ、聴いてもらって。そこから少し期間はありましたけど、いろいろ話が進んで、今のチームができました。

──1枚のデビューシングルに、長い時間が詰まっている。

仲村:でも結局「今だったんだな」と思うんですよね。18歳の時に出てきて、20歳そこそこでメジャーに引っかかってデビューしていたら、ここまでの段階は踏めていないんじゃないか?と。31歳でデビューできたのはベストだと思っていて、いろんなことを考えるきっかけになったし、その葛藤が楽曲になって生まれたし、それも含めて必要な期間だったんだなと思います。

──逆に言うと、この10何年、ほかのことをやっている時も音楽のことは忘れなかった。

仲村:「もう音楽をやめる」という人たちって、僕の周りにもいっぱいいたんですけど、「やめる」という意味があんまりわからなくて。それはプロになることをやめただけであって、音楽をやめるわけじゃないし、街を歩けば音楽が流れているし、テレビをつけたら流れているし、音楽は日常にあるものじゃないですか。僕はずっと、日常の中の楽しみとして音楽が好きで、ゲームをやるのと一緒でギターを弾くのが好きだったし、そういう感覚だったので、途中であきらめようという気持ちはなかったですね。

──支えたり、励ましてくれる家族、仲間はいました?

仲村:家族は心配していましたね。そりゃそうですよね、息子が東京に出て行ってずっとフリーターだったら(笑)。本当にぎりぎりの時は「仕送りしてくれ」って頼んだり、まあ心配をかけました。家族には18歳で東京に出る時に一回反対されたんですけど、僕もまあまあ頑固なので「行く!」と言ったら、結局は背中を押してくれて。そこからは、心配はしつつもずっと味方ですよね。東京に出てきて、親の偉大さもわかりました。実家にいたらご飯は出てくるし、学校に行く時も起こしてくれるし、それがなくなって、最初はご飯を食べるのも大変でしたね。だから、バイトは飲食店ばかり選んでいました。賄いが食べられるから。でも最終的に長く続いたのは、介護の仕事なんですけどね。3年半ぐらいやっていました。

──そうなんですか。それはどういう?

仲村:ハンディを負った方の、障がい者介護をやっていました。

──その経験は大きいんじゃないですか。音楽というよりもまず、人間として。

仲村:そうですね、だから死ぬことと生きることは常に隣り合わせという感覚が、僕の中にずっとあるんですよね。それは幼い時からずっと思っているテーマです。小学生のときに、昼間にばあちゃんが言った「膝が痛くなってきた」という言葉を夜に思い出して、大泣きしたことがあったんです。人間はだんだん年を重ねると老いるんだということに気づいて悲しくなってしまったんですよね。

──めっちゃナイーブな子ですね。その感覚がずっと続いている。

仲村:介護の仕事もやりながら、それをより強く感じて、それが僕の思考の根底になっているのかもしれないです。何か思ったらすぐやりたい、という僕の性格も、人間はいつどうなるかわからないという考えが常にあるからかもしれないです。


──そう言われると確かに、新曲の「Oh No!!」にも、「戦って夢見て負けるなら本望じゃん クールにゴキゲンに死ねるなら上等じゃん」というフレーズが出てくる。今の話を踏まえると、裏付けのある言葉に思えます。もう一つ、音楽的なルーツも聞きたいんですけど、たとえば中高生の頃には何を聴いていました?

仲村:沖縄にいる時は邦楽ばかりでした。僕らの頃はスピッツ、19、Mr.Children、奥田民生さんとか。親が好きだった歌謡曲のベストヒットCDを、車の中でずっと聴いていました。

──自分でバンドをやったりとかは?

仲村:GLAYのコピーバンドをやったことがあります。そもそもギターを始めたのは、ギターを弾ける友達に教えてもらうために家に泊まりに行って、朝まで練習したのがきっかけですね。中3かな。親父がバンド世代なので、家にガットギターがあり、それでコードの練習をしていました。今思うと拙なすぎるんですけど、コードを4つぐらい覚えた時点でオリジナル曲を書いて、高校の文化祭に出て歌うみたいなことをやっていました。高校の卒業式の時に、オリジナルの卒業の歌というのがあって、それを壇上で歌ったこともあります。

──その頃からボーカルなんですね。

仲村:そうです。アコースティックギターとボーカルでした。音楽をやっている友達と、オリジナル曲の聴かせ合いっこをしていましたね。今思うと、めっちゃJ-POPですね。19が好きだったから、ああいうふうにアコースティック1本で弾く感じでした。歌うことに関しては、もともと僕の家族みんな歌うことが大好きで。今年で93歳になる祖母も、今でも大きい声で歌っていますからね。小さな頃に見ていたアニメとか、主題歌を大きい声で歌ったらほめてくれたりしたので、そういうのが大きいかもしれない。学生時代はカラオケばかり行ってました。みんなで。

──そういうところで鍛えられたのかも。歌いまわしのクセで言うと、たとえばミスチル桜井さんやB'zの稲葉さんとか、そのあたりを思い出す感じもあると思ったんですよね。

仲村:確かによく聴いていました。当時は、ロックっぽくなるのはどうしたらいいのかがわからなくて、身近にあるものを参考していたような気がします。

──その後、たとえば洋楽とか、ブラックミュージックとか、そういうものを勉強した経験は?

仲村:勉強というか、東京に出てきてからいろんな人と話せたし、音楽も、今まで聴いてこなかったジャンルを聴かないともったいないという気持ちが出てきて、洋楽を聴き始めるようになって。それこそビートルズも知らなかったんですけど、18歳の頃から聴き始めて、ポリスとか、スティーヴィー・ワンダーとか、有名どころを聴いていったんですよ。ネットで調べたり、CD屋さんに行って、ジャケ買いをしていましたね。

──ジャケ買い! 懐かしい響きです(笑)。

仲村:かっこいいジャケットを買ってみようと思って、ピンク・フロイドとか、ペットショップ・ボーイズとか、いろいろ買って、そこが僕の中のビッグバンで、いろんなものが混ざっていったんですよね。

──中でも、一番影響を受けたアーティストはいますか。

仲村:僕は変な聴き方をしていて、この人が好きというよりは「この楽曲が好き」という聴き方をするんですよ。おいしいとこ取りみたいな。でもその中でも、スティングは好きでしたね。かっこいい、最高!みたいな。

──ボーカリストとして、特に尊敬する人は?

仲村:この人にハマったというのは、KTタンストールですね。彼女のボーカルは好きです。ライブも面白いし。

──男性では?

仲村:それこそスティングは、めちゃくちゃ好きですよ。日本人だと、誰かな? ゆくゆくはああなりたいというか、かっこいいと思うのは奥田民生さんかな。存在感として。

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