【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第106回「西方城(栃木県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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これぞ山城。見所満載であり、何より保存状態も素晴らしい。残念ながら城の周りがゴルフ場になってしまっており一部が破壊されているが、現在残っている部分だけでも相当楽しめる城だと推薦したい。読み方は「にしかた」である。関東にもまだまだ最高な城があるんだなあとしみじみ実感した次第である。


築城主は西方景泰、西方氏は宇都宮氏の家来だったとされる。鎌倉時代後期に築城した西方城は1500年代に現在の縄張りに増築されたと推測される。1590年代に豊臣秀吉の関東北条攻めの勝利により、西方氏はこの地の領土を取られ赤羽に移され、そのまま廃城になってしまった。なんなら宇都宮城よりも守りも固く、本丸からの街の景色も良く、栃木を代表する城に成り得た気もするのだが、城にも運命がある。そこから400年近く自然に帰っていた西方城だが、近年は木も草も藪も綺麗に整備され、説明書きされた掲示板もあるし見学しやすくなっていて城マニアには本当にありがたい。山城初心者にも非常にわかりやすいと思う。

城の麓に専用駐車場があり、ここから北の丸を目指して登っていく。北の丸と東の丸の切れ目に川が流れているが、良く見る限り、東の丸に登る道も確認出来る。だが現在はそっちは通行止め。急斜面で危険なのかもしれない。城の中から東の丸には行けるが、最終的に駐車場には戻れないように道が閉鎖されているので注意が必要だ。大手が何処かわからないが、南の丸方面からも登って来れるし、ゴルフ場となり破壊された西の丸方面にも当然ながら登り口がある。私の推測では麓の駐車場周辺に大手があり、いきなり登り口が二手に分かれる仕組みになっていたのでは?とイマジン。何故ならば、北の丸も東の丸も行く手を阻む防御が同じくらい素晴らしいのだ。西の丸は宇都宮の市街位置に対してどう考えても裏手、搦手になるし、南の丸は外側だけが作り的に防御が若干甘い。いや、あま〜い。こういうことをイマジンしながら見学するのが城マニアはたまらないのである。


ということで無難に北の丸を目指し出発。小さく段になった曲輪がいくつも残っているので家来の住居、守備の配置がいかにしっかり作られていたかがわかる。登山口ではあるがどうみてもこれ縦堀だろと思う道があり、両サイドが仕切り土塁になっていたりもしてセンスを感じる。ボブスレーが出来そうな程の筒だ。北の丸に入る前に馬出し、水の手があり、ここから山の裏、搦手に向けて導線も繋がっている。北の丸は細長く土塁に囲まれている。二の丸、本丸に向けて進む道にの途中に同じく先を見えなくする為の仕切り土塁、そして大きな土橋も存在感を醸し出している。曲輪と曲輪の切れ目の全てに堀切があることが凄まじい。これらは関東の城の特徴と言えるかもしれない。横堀、縦堀、そして堀切、いくつもの角度から交差する空堀達に唸る。格好良過ぎだ!水堀でなく空堀ってのが良いんだな。

当然ながら山城に水堀を作るのは至難の技。大きく池を掘り、そこに雨水を溜めて貯水池にする場合はあるが(西方城には水の手がいくつもある)、基本は空堀で防御する。現在はいくらか土が崩れ丸みを帯びてはいるが、当時はこれがもっともっと深く、場所によっては丸みすらもなく角ばった深い空堀だったとも言えるのでそういうイマジンが非常に大事になってくる。


二の丸の下にも長く伸びた縦堀がある。その掘を掘った土を両サイドに固めて同じように仕切り土塁が施されているのがわかる。粋なデザインだ。ここは大手から見て真正面なので考えられた縦堀なのであろう。本丸に向かうまでの門跡は必ず虎口になっているし、両サイドは崖というスリル満点な作りに感動。曲輪ひとつひとつの面積はさほど大きくはないが、本丸を中心に北の丸、東の丸、南の丸、そして破壊されてしまった西の丸の、計4つの曲輪が羽を広げているので城のスペースは実は結構広い。当時は家来も含めたくさんの人間が一緒に暮らしていたであろう山城。生活感もあって、尚且つ防御にも余念がない。おそらく西の丸が女性や子供が暮らす場所であったであろう。本丸の裏手にある曲輪はどこかひっそりとした雰囲気があるものだ。不思議とどんな城でも女性と子供が暮らしていた曲輪はそういう独特な雰囲気が残っている。当然ながらそういった曲輪は城の表側にはなく必ず城の本丸の裏、または横にあることが多い。本丸の真下、東の丸の手前に大きな水の手、いわゆる井戸、貯水池があるので、ちょうど城の真ん中にこういう場所を作っていることもみんなで暮らすにあたり便利を考えた上でのことと言えるだろう。


南の丸の内部は作りが細かい。折れ曲がる虎口の数も多いし、極端に土塁が高い場所も多々ある。複雑な導線にする意味があったのだろう。北の丸側の曲輪と違い、山の作り的に本丸との距離が近いので、攻められた時にすぐに本丸に到達出来ないような仕組みを考えたのかもしれない。堀切がない代わりに導線を困難に見せる、そういう手法を使ったデザインのように思う。残念ながら西の丸はどんなだったかわからないが、北の丸と南の丸の防御のデザインの違いが非常に面白いのだ。


打って変わって東の丸はそこそこスペースがあり縦に伸びていて馬出しや門の跡、虎口がたくさん存在するが北の丸から本丸にかけての堀切がほぼない。ということは東の丸こそ水の手も近いし生活の場所として使われていたことが大いに予想が付く。東の丸の下の南側はゴルフ場が見え、空堀の下を良く見るとゴルフボールが散乱している。どんだけOB連発してんだよと言いたくなるほどである。西の丸は正直跡形もなく破壊されており、イマジンが出来ないほどおもくそゴルフ場である。果たしてどこまで西の丸が伸びていたのだろうか。城の搦手ファンとして残念であるが平面図も残ってるわけじゃないのでどうしようもない。ゴルフはやらないが、もしコースを廻るなら西方城周辺のコースを廻ると城マニアとして最高かもしれない。トムソンナショナルカントリー倶楽部か、会員になったろうかな。タイアップをくれそうな社長を連れて「シャチョー!ナ〜イスショ〜!」「池ポチャで、それはな〜いしょ〜!」と言えば仕事をもらえると思いますと上々軍団のさわやか五郎ちゃんが言っていた。


帰りに近くにある道の駅でニラ蕎麦を食った。この周辺はニラが有名だそうだ。餃子にも当然入るニラ。私はニラが大好きであるので、このニラそばに食い付いたのだがこれまためちゃくちゃ美味いではないか!ざるそばの海苔の代わりにニラをのせるその発想、素晴らしい。蕎麦とニラの色味のコントラストも良く、最高だった。

ニラでいつも思い出すことがある。ニラを見る度に必ず思い出してしまうことがある。デビューしたての頃、楽器周りをやってくれていたローディーの先輩がいた。彼はとてもべらんめえな人で、曲がったことが嫌い、細かいことが嫌い、日本は狭めえんだよと言ってアメリカに移住するが、アメリカは広過ぎたという国際電話をかけてくる男であった。良くわからないのが出身は横浜と言い、今も横浜に住んでるぜと言うくせに所沢に住んでいることをみんな知っていた。彼には大阪に行き付けのラーメン屋があり、大阪に行くとそこのラーメン屋に行こうぜとなり、いつも食いに行っていた。先輩はカウンターにあるただで入れられるトッピングで「この高菜な!ここのラーメンにこの高菜を入れることに意味があんのよ!ここの高菜がめちゃくちゃ美味いのよ」といつも言っていた。僕はツアー中は辛い味付けの物は喉の為に口にしないが、先輩はこのラーメン屋の高菜がむしろラーメンよりも大好きらしく「あそこの高菜食いてえなあ」といつも高菜を指名した発言をしていた。

またツアーで大阪に行き、いつものラーメン屋に行こうぜということになった。先輩は「卓偉もさ、いいかげんここの高菜入れて食ってみろや、ラーメンと高菜の相性が抜群だぜ、高菜マジでお勧め!」といつもの調子で高菜をてんこ盛りにトッピングしていた。その時私はその高菜を凝視した。先輩はもう20年は食ってるという高菜だと言っていた。ライヴの後はもちろん、飲んだ後はいつもこのラーメンにこの高菜が最高なんだと先輩は熱く熱く語っていた。ジェイムズが凄いけどラーズもいなきゃメタリカじゃねえんだよ、むしろこの高菜はジャイムズという名のラーメンに対するラーズなんだよと熱く熱く語っていた。この高菜が横浜にもあれば良いんだけどなと言いながら先輩はひっそりと所沢に住んでいた。ここの高菜を食うと他の高菜食えねえんだよと先輩が口に運ぶその高菜を私は凝視してみた。そして自分の目の前にもある高菜のケースの蓋を開けて見てみた、それは、高菜ではなく、

ニラだった。

あぁ 西方城 また訪れたい…。


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