【コラム】チェロ奏者・伊藤悠貴、時を超える“美メロ”を集めた孤独のアンサンブル

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チェリスト・伊藤悠貴のアルバム『アダージョ~孤独のアンサンブル~』が本日10月27日(水)にリリースされた。

◆伊藤悠貴 画像

本作を一言で言い表すならば「美メロの宝箱」。時代やジャンルを超越して美しいメロディを選び抜き、その最も美しい瞬間を濃密な演奏で描き出した、ロマンチックな絵画集のような作品に仕上がっている。いわゆる“ザ・超絶技巧”的な作品は収録されておらず、メロディと音色の美しさでアルバムを作り上げる姿勢は面白い。

また、本作で伊藤は伴奏や客演を入れない“ひとりチェロ・アンサンブル(多重録音)”を試みているのだが、これによってクレッシェンドやアクセント、弱音表現などは極めて快楽的な印象に。「このハーモニーとメロディのどこを強調するか」という所では、斬新なものが幾つも聴けた。忖度不要の孤独なアンサンブルは、想像以上の演奏効果を生んでいる。

本作は100%チェロオンリー、しかも弾き手もひとりという濃縮還元的な“チェロ・アルバム”。しかし単一の楽器しか使っていないからといって、サウンドにモノクロな印象は無い。チェロは音域によって音色の印象がガラっと変わる楽器であり、低音は胸の底にズンズン響き、中音はオトナの色気たっぷりに、高音域は繊細で抜けが良く、同じ楽器でも色彩豊かな魅力がある。この全音域を惜しみなく使ったアルバムを聴けば、高級なワインを大きなグラスでたっぷり飲んでいるような満足感を得られることだろう。


さて、アルバムの冒頭にはラフマニノフ「アダージョ」と、ロシアの作曲家のクラシック作品かつアルバム内最長となる17分のトラックが収められているが、あまり身構えて聴くことはない。同曲の演奏はラフマニノフを愛するチェリストの「ぜひこれを聴いてほしい!」という想いが全面に溢れており、ただ心地よく身を任せているだけで音楽の世界に連れて行ってくれるから。

ちなみに、日本のポップスはロマン派音楽に起源があると言われており、1800年代~1930年代くらいの楽曲は現代日本人の思う“美メロ”との親和性がとても高い。そしてラフマニノフは1873年に生まれ1943年にこの世を去った音楽家であり、まさにこの時代に当てはまる。つまり、日本人にとって聴きやすい作曲家といえよう。

アルバムのオープニングを飾る「アダージョ」の正式タイトルは『交響曲第2番 第3楽章「アダージョ」』。4楽章構成の作品の3つめで、本来はチューバを入れた大編成オーケストラ用に作曲されている。こちらを今回はチェロの多重録音で聴けるのだから贅沢極まりない。

この作品は冒頭から歓喜に満ちたメロディが沸き上がる、ポップス的に言うなら“サビ始まり”のような楽曲だ。一度目に聴くときはメロディの美しさに心を奪われ、二度目に聴くときはそれを支える低音部の動きや淡いピチカートの夢見るような響き、音の重なり方の違いが描写する景色の違いといった細部に注目してほしい。

続く「サラバンド」は1700年代に活躍したヘンデルの名曲。あまり聞き慣れないタイトルだが、これは“3拍子のゆっくりした舞曲”を指す。現代のダンスミュージックとはだいぶ印象が違うけれど、名作『ベルサイユのばら』の時代よりも少し前くらいの貴族たちの舞踏曲といえば、なんとなく時代のイメージが浮かびやすいと思う。

本曲を聴くときは、“伴奏とメロディ”という固定観念にとらわれず、音域の違うメロディが幾つも重なって動いていく様子を想像すると良い。情熱と歓喜にあふれたラフマニノフから一転し、均整の取れた音色で描き出される「サラバンド」は無機質にも感じられるが、極限まで装飾を落とすことで一層輝く、純粋な音色とハーモニーの静物画的な美が感じられる。

3曲目の「ニュー・シネマ・パラダイス・メドレー」は、本アルバム中最も大衆音楽寄りの作品となっている。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の音楽は、作品の公開から30年以上経った現在でも、テレビを点ければ毎日のように耳にするし、オーケストラ、吹奏楽の双方で演奏機会が多い。前曲「サラバンド」の作曲年からは200年以上も離れた作品ということで、各曲の美的感覚の違いを楽しむのもまた一興。

ただ、“誰もが一度は聞いたことがあるメロディ”は、転じて“誰もが「どうアレンジするのかな?」と期待するメロディ”でもある。様々なアレンジで愛される名曲だが、今回のアレンジについては、原曲のオーケストレーションを意識しているように感じた。

アルバム全体の傾向としてはチェロのチェロらしい音色を聴かせることに重点が置かれているように思えたが、「ニュー・シネマ・パラダイス・メドレー」では一転して、ひとつの楽器の重奏とは思えないような音色の豊かさが楽しめる。しかし耳を澄ませば、それは確かにチェロの音に他ならない。もはや説明不要、リスナーの思い出に寄りそうような優しいメロディと音色を堪能してほしい。


4曲目の「リベルタンゴ」はフィギュアスケート等で耳にする機会も多い作品。クラシック界では最も愛されているポップス・レパートリーのひとつで、様々な楽器の演奏・アレンジを楽しめる作品だが、作曲者・ピアソラ本人はドラムやエレキ楽器をゴリゴリに入れてプログレッシブロック的な雰囲気で演奏している。つまり、演奏者の自由度が高い楽曲である。

伊藤の「リベルタンゴ」を聴いた時、まず誰もが思うのは“テンポが遅い”ことだろう。ピアソラ含めて、多くの演奏家は本曲を快速に、リズムに対して貪欲になって演奏する。打楽器的な伴奏のインパクトを推進力にして、ガツガツとフロアを踊りまわるように。

対して伊藤は丁寧に確実に、音を噛み締めるように旋律を積み上げて行く。この解釈には少々驚いた。筆者が聴いてきた中でも、おそらく“最遅”の「リベルタンゴ」だ。また、遊びや装飾は控え目となっており、本曲の特長である「ヒールを踏み込むような強いテンポ感」はあまり感じられない。

が、よく聴いてみると、「リベルタンゴ」が本来持つ、どこか夢見るようなメロディラインの美しさが緩慢なテンポに映えていることに気付かされる。爪先で静かに床を踏み、思い出の中の相手の幻影と踊っているような、そんな憂いとシニカルさを匂わせる演奏は、突然掻き消えるように終結する。

哀愁のタンゴがフロアを去った後は、耳を引っ掻くようなトレモロから「鳥の歌」が始まる。「鳥の歌」は本来、スペインで話されているカタルーニャ語の歌詞を持つクリスマスソングだが、カタルーニャ語が政治的弾圧に遭い禁止されたことによって、長らく“歌えない歌”となってしまっていた。同曲を有名にしたのはカタルーニャ出身の名チェリスト・カザルスで、“歌えない歌”は楽器で演奏されたことにより、“平和への祈りの歌”という意味を持った。

こういった歴史を持つこともあってか、「鳥の歌」はピアノの伴奏をつけて歌曲的に演奏されることが多くなっているが、今回はアルバム内最小単位の演奏、無伴奏チェロ1本、ただひとりの純粋な音色のみで魅せる。演奏は広く孤独な空間を思わせ、弓を大きく弦の上に滑らせて弾くチェリストの姿が目蓋に浮かぶ。弦が擦れる振動、楽器のボディの反響や震え、チェロという楽器の最も生々しい姿がそこにある。

続く「エルサの大聖堂への行進」は、クラシック好きでなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるワーグナーのオペラ『ローエングリン』の中の人気曲で、日本では吹奏楽編曲版の演奏機会が多い。ちなみに、同じオペラの中には有名な「結婚行進曲」もあるのだが、「エルサの大聖堂への行進」も婚礼のために礼拝堂へ向かう曲である。

本来はオーケストラによって演奏される楽曲で、様々な楽器に引き継がれていくメロディの音色の変化が聴きどころの作品だが、今回はほぼひとつのトラックにメロディラインを収録。ひとつの旋律が楽曲を貫き、オクターブの跳躍や音色の変化を抑え、より歌曲的な仕上がりとなっている。

至極当然のことながら、管楽器と弦楽器の演奏には「息継ぎの有無」という大きな違いが出る。音楽性と肺活量との戦いを強いられる管楽器奏者に比較して、弦楽器奏者はフレーズの感じ方が広くて長い。今回の演奏にはその特性がよく活かされており、永遠に続く丘陵の景色のようなフレーズ感の美しさを存分に楽しめる。


アルバム最後の作品は、ラフマニノフの名曲「ヴォカリーズ」。タイトルは“母音唱法”、つまり歌詞ではなく母音だけで歌う声楽曲を意味するのだが、人によっては「管・弦楽器での演奏しか聴いたことがない」ということもあるほど器楽曲としても親しまれている。原曲は14曲入り歌曲集の最後の作品で、本アルバムでもフィナーレを彩る。

原曲はピアノと独唱の間にメランコリックな緊張感が漂うが、伊藤の演奏はひとつの旋律が沸き上がり、それがたくさんの旋律に呑まれて行って、やがてリスナーを抱き込んでいくように聴こえる。各トラックの扱いがメイン/サブの二元論にとどまらず、耳の中の様々なところでメロディが生まれてはいつの間にか姿を消し、目を閉じれば、手触りの違うリボンが肌に触れては離れて行く様を空想する。

メロディの美しさもさることながら、ぜひご注目いただきたいのは複数のメロディやハーモニーが複雑に絡み合う場面。1910年代の作品ながらバロック音楽的な雰囲気も漂わせつつ、しかし旋律の持つ詩情は明らかに現代のもの……という楽曲の特性がよく紹介されており、音楽の歓びと奏者の想いが溢れて聴こえる。

アルバムを聴き終えたときの独特な満足感は言葉にしようが無く、チェロの重厚で哀愁を帯びた音色“だけ”で身体が満たされる幸福さは何者にも代えがたい。ラフマニノフの演奏が2曲ともやや前のめりな印象なのは、奏者自身の強い想いがリスナーの手を引いているからだと感じた。チェリストがひとり座るステージに、観客は自分ひとりだけ、そんな濃密な空間を想起させる音像は、まさに“孤独のアンサンブル”という表題に相応しい。

文◎安藤さやか

■『アダージョ~孤独のアンサンブル~』


▲『アダージョ~孤独のアンサンブル~』

2021年10月27日(水)発売
KICC-1587/¥3,300
[収録曲目]
01.ラフマニノフ:交響曲第2番より「アダージョ」(4チェロ、伊藤悠貴編)
02.ヘンデル:サラバンド(3チェロ、伊藤悠貴編)
03.モリコーネ:ニュー・シネマ・パラダイス・メドレー(6チェロ、小林幸太郎編)
04.ピアソラ:リベルタンゴ(6チェロ、小林幸太郎編)
05.カタルーニャ民謡/カザルス:鳥の歌(1チェロ、伊藤悠貴編)
06.ワグナー:エルサの大聖堂への行進(4チェロ、グリュッツマッハー編)
07.ラフマニノフ:ヴォカリーズ(6チェロ、伊藤悠貴編)

チェロ:伊藤悠貴
録音:2021年7月 キング関口台スタジオ 第2スタジオ

(C)T. Tairadate
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