【インタビュー】Mbanja Ritchy aka B-BANDJ、「僕の音楽の中の基本軸はポジティブなメッセージで、聴いてくれた人が楽しんでくれたら」

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MONDO GROSSOや瘋癲の活動で知られるB-BANDJ。カメルーンとフランスの血筋を持ち、英語、フランス語、日本語を操るトリリンガルラッパーの彼がMbanja Ritchyを名乗り近年、より精力的に活動を再開している。Mbanja RitchyことB-BANDJとはどんな人物なのか、早速聞いてみよう。

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■好きなアーティストは音楽的な共通点というより
■それぞれに強烈な個性を持っていることに惹かれる

──生まれはどちらになりますか?

Mbanja Ritchy 名古屋で生まれましたが6ヶ月しか住んでいなくて記憶はありません。10代はフランスと日本を行ったり来たり、20代MONDO GROSSOの時代はヨーロッパやアメリカをツアーで周ったり、それとは別に長期間滞在したりして、自由に生活していましたね。2001年から2006年までは京都に住んで瘋癲の活動をしていました。それ以降は意外かもしれないですが関東で生活しています。

──三ヶ国以上話ができるそうですが、ラップでも同じですか?

Mbanja Ritchy 基本的には英語、フランス語、日本語でラップができますが、若いころに聴いたヒップホップがアメリカのものが多いので、自分で歌うのも英語がほとんどです。

──若いころに聴いてきたラップとはどんなものでしたか?

Mbanja Ritchy グランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイヴの「NEW YORK NEW YORK」とかフーディーニ「Friends」や「Five Minutes of Funk」、パブリック・エネミーやスクーリーDのアルバムはすべて買いましたね。ヒップホップ以外で初めて買った音楽はヴァイナルで10歳のときにボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『Uprising』でした。ちなみに最初に買ったカセットテープは1982年、マイケル・ジャクソンの『Thriller』。好きな曲やアーティストは数え切れません。プリンスの『Purple Rain』もよく聴いていましたし、日本のアーティストでは山下達郎さんの曲が大好きでした。中でも『For You』、『Big Wave』、『Ride On Time』などのアルバムは今でもよく聴いています。そのほかにはAアニタ・ベイカー、エル・デバージ、ベイビーフェイス、ジョージ・ベンソン、キース・スウェットなんかをよく聴いていました。

──幼少からハイスクールまではいかがですか? また今の制作にそれらは影響を及ぼしていますか?

Mbanja Ritchy スクーリーD、シャーデー、ボブ・マーリーなど、ジャンルは関係なく良いと思った音楽を聴いていました。今でもその感覚は変わっていなくて昔の音楽からの影響は大きいですね。ちなみに11歳から16歳までの6年間ブレイクダンスをやってました。ダンボールをひいて鴨川でパフォーマンスしていました(笑)。そのころに聴いた音楽の中でもボブ・マーリーの生き方にはすごく影響受けました。世界的なスターになって稼いだお金でジャマイカ国内の生活が苦しい人達たちを助けたことや、音楽的にはギターカッティングなどのファンキーなとこに胸を打たれました。ラップでなく歌ときはモロに彼の影響を受けています。

もうひとつはパブリック・エネミー。彼らを通してマルコムXの存在を知りました。世界中の黒人のルーツであるアフリカンの誇りを高く持つことと、生き方を教えてくれました。ボム・スクワッド(プロデューサー)が作る強烈な音も最高ですが、フロントMCのチャックDとフレイヴァー・フレイヴのステージングのインパクトに圧倒されました。好きなアーティストは音楽的な共通点というよりは、皆それぞれに強烈な個性を持っていることに惹かれます。ちなみに17歳のときに京都でパブリック・エネミーのライブを観ました。そのライブの後フレイヴァー・フレイヴに遊ぼうと誘われて、一緒にうどんを食べに行ったのを覚えています(笑)。

──当時は周りの環境で音楽を聴く環境は変わりましたか? 両親や兄弟、友人たちから影響は?

Mbanja Ritchy 叔母がダイアナ・ロスや、アース・ウィンド&ファイア、ドナ・サマー、スティーヴィー・ワンダー、初期のマイケル・ジャクソン、バリー・ホワイト、マーヴィン・ゲイなどが好きで、アナログレコードを聴いていましたから、幼少期からブラック・ミュージックが日常にあったんです。

──最近注目をしているアーティストやシーン、国は?

Mbanja Ritchy カメルーンのヒップホップーンを牽引するアーティスト、MC Neillexに注目しています。また、もうひとりカメルーンのラッパーColor Changeも好きですね。

──MC Neillexはカメルーンでは代表的なアーティストなんでしょうか?

Mbanja Ritchy MC Neillexは31歳とまだ若いですが、カメルーンのヒップホップシーンを力強く盛り上げてくれる存在ですね。USで言えばPディディのような人物です。今、カメルーンで彼を中心に、大きなヒップホッムーブメントを作っている最中です。MC Neillexのライブはカメルーンの都市で毎回2000人規模で展開しています。音楽性はトラップやドリル、90’sサウンド、アフリカの伝統的な音楽まで幅広く手掛けているのが特徴です。Color Changeもオールヒップホップジャンルを歌うことができるラッパー。元はヒップホップ=リアリズムでしたが、彼はその考え方を今でも強く持っている数少ないアーティストです。彼の音楽やリリックに触れるとよく分かると思います。また、人々を魅了するリーダーシップとカリスマ性を持ち合わせています。USのラッパーだとケンドリック・ラマーとJコールに注目しています。

──あなたはどのタイミングでラッパーになりたいと思い、リリックを書いたり、ステージに上がることになりましたか?

Mbanja Ritchy ラップより先にブレイクダンスをしていましたが、自分にとっては踊ることよりも歌うことの方がより自然というか、気づいたらラップを始めていた感じなんです。子供のころに手に入れたニューヨークのミックステープやラジオを聴いたのがMCに憧れたきっかけです。ニューヨークのラジオ番組をよく聴いていました。DJレッド・アラートとチャック・チルアウトのプレイをよく聴いてました。94年あたりにはチャック・チルアウと一緒に大阪のイベントに出たこともありました。

14歳ころから遊びでリリックを書き始めましたが、17歳で京都のクラブで初めてステージに上がったときは、MCではなくDJとしてでした。同じ年にスイスのジュネーブの、名前は忘れましたが当時人気のクラブでサプライズゲストでラッパーとしてデビューしています。

──初めてのライブのエピソードを聞かせてください。

Mbanja Ritchy フランス国内の高校に通っていたのですが、友人の実家がスイスにあって、長期休暇に遊びに行きました。そこでジュネーブの有名なクラブを案内してくれたのですが、友人が悪ノリして急遽ライブをさせられることになったんです。クラブサイドも、日本から来てるし面白そうだしいいよ、という感じで(笑)。それがデビューです。緊張してアドレナリンがたくさん出て、それでラッパーにハマりましたね。サイドMCのスタイルで歌ったのですが、300人くらいのお客さんがいて、反応が良かったのが嬉しくてすごく覚えています。

──あなたのラップスタイルや三ヶ国語を使える強みを教えてください。

Mbanja Ritchy リリックとしては、宇宙に関してや心理的なものが多いです。一方で、音楽の上では言語はあまり関係ないと感じています。僕の場合は自分が楽器になったつもりで、特にドラムのリズムを奏でるように歌うのがモットーなので、言葉を超えて楽しんでもらえると嬉しいです。ただ、現地でプロモーターやファンと直接コミュニケーションが取れるのはいいですね。


■いち早くジャズラップに挑戦できたことも
■誇りに思っている

──1990年代なって東京、京都、大阪などクラブシーンの状況はいかがでした? ジャイルス・ピーターソーンやポール・ブラッドショーが京都に来たエピソードは有名ですね?

Mbanja Ritchy 当時は沖野修也さんのKYOTO JAZZ MASSIVEが日本のクラブシーンを引っ張っていた印象です。有名な話ですがそのKYOTO JAZZ MASSIVEという名前をつけてくれたのがジャイルス・ピーターソンでした。

──あなたはそのときにKYOTO JAZZ MASSIVEや日本のアシッドジャズシーンでどのような存在でしたか?

Mbanja Ritchy アシッドジャズや生演奏でラップができるラッパーが、当時は日本にいませんでした。そのころアシッドジャズシーンを牽引していたのは日本とイギリスで……その日本でKYOTO JAZZ MASSIVEに参加できたことはラッキーだと思うし、いち早くジャズラップに挑戦できたことも誇りに思っています。

──KYOTO JAZZ MASSIVEやMONDO GROSSOとの出会い、MCのフロントマンとして、加入するきっかけを教えてください。

Mbanja Ritchy 18歳のころ、いろいろなクラブでラップをしていて、沖野さんが店長を務めていた京都のクラブ“CONTAINER”にもしょっちゅう遊びに行っていました。1年ほど後に沖野さんから、インターナショナルに活躍できるバンドを始めようと思っているから、そこでフロントマンをやってみないかと誘っていただいたのが、MONDO GROSSOを始めるきっかけでした。その後、京都METROでライブをしているMONDO GROSSOを東京のレコード会社のディレクターが観に来て、東京でメジャーデビューという運びになったんです。当時は東京より小さい京都で、東京よりもすごいことをやろうとしている、沖野修也さんの情熱とビジョンにとても感動したのを覚えています。結果としてアシッドジャズを日本だけでなく世界にも広められて、本当に大きいことを成し遂げた人だと思います。

MONDO GROSSOのメンバーになってからはまだまだ自分が見えておらず、ファーストアルバムのレコーディングでは自分の力を出しきれませんでした。まだMONDO GROSSOのキャリアがスタートしたばかりだったので、良くも悪くもプライドはほとんどなかったように思います。ただ不思議と、ラッパーとしての誇りはすでにありましたね。

──B-BANDJ(Rap/MC)、MONDAY満ちる(Vo)、吉澤はじめ(Key)、中村雅人(Sax)、大塚英人(Sax/Fl)、大沢伸一(B)、佐野康夫(Ds)、堀江健治(Per)、Shogo Fukuoka(G)、そして沖野修也が参加したMONDO GROSSOはヨーロッパ・ツアーを敢行しました。そのときの感想を教えてください。

Mbanja Ritchy 海外のバンドを押し退け、イケイケという感じはまったくなく、ただ目の前のライブに必死でしたね。結果、ロンドン(ジャズカフェ)、フラン(パリのデュアンジモンド、カンヌ)、ドイツ(ケルン、ハンブルク、ベルリン、フランクフルト)スイス(チューリッヒ)を回りました。ツアーはすべて大成功でした。一番面白かったのは、ドイツのケルンでライブが終わった後にお客さんが家に招待してくれて、まさやん(中村雅人)が朝の4時くらいに酔っ払ってその家の犬の頭をずっと撫でていたことかな(笑)。

──御大・沖野修也さんはいかがでしたでしょうか? バンドを伝説化させて行った人物だと思いますが。

Mbanja Ritchy ワールドワイドで多才なDJ、プロデューサーだと思います。すごく勉強家でストイックで、寝ないで仕事してましたね。東京に出て来て最初のころは一緒に住んでいたのですが、朝方The Roomから帰る途中、もう少しで家に着く時に沖野さんがポケベルで呼び出されて、また渋谷に戻って仕事を続けることもありました。僕は帰宅して寝ることが出来ましたが、沖野さんは本当に大変だったと思います。その後、別々に住むようになっても、僕の家までレコードをたくさん持って来てくれて、アルバムに使うサンプリングネタを提供してくれたこともありました。沖野さんはタフな仕事をしていましたが、メンバーにはすごく優しかった印象です。


──また東京のLiquidRoomではMONDO GROSSO、矢部直、松浦俊夫、ラファエル・セバーグ(U.F.O)、DJシャドウ、ジェームズ・ラヴェル、Futuraらとイベントが開催されたのは衝撃的でした。

Mbanja Ritchy もちろんすべて影響は受けていますが、特にグラフィティーアーティストのFuturaが日本に来ていたのは嬉しかったです。

──U.F.OのDJプレイは?

Mbanja Ritchy U.F.Oは踊れるジャズをプレイしていたのが画期的でしたね。常に良いネタを探しているのが分かります。

──MONDAY満ちるさんの存在や歌声は?

Mbanja Ritchy MONDAYはジャズと一緒に生まれて来たような人ですが、クラブミュージックにも精通していて、そのフレキシブルさが好きです。歌声がスイートで、特にボサノヴァを歌うときの声が素敵だなと思います。彼女のソロアルバム『Jazz Brat』の中の「Rainy Daze」という曲で、フランス語ラップで参加しています。

──一緒に作品を作ったDJ KRUSHはどんな存在でしたか?

Mbanja Ritchy 日本で一番芸術的なヒップホップを作る、世界トップクラスのDJだと思います。しかしDJというカテゴリーには収まらない、プロデューサーであり、サウンドクリエーターであり、ミュージシャンであり、本物のアーティストだと思います。僕が最も尊敬するアーティストのひとりです。KRUSHさんのアルバムでギャングスターのグールーをフューチャリングした曲は素晴らしかったですね。今でも交流はあって、今年の5月3日に久しぶりに瘋癲のライブを三重県でやって、同じ日に京都のメトロでDJ KRUSH30周年ツアーをやっていたので、その足で遊びにいって話しました。

──ちなみに渋谷The Roomはあなたにとってどんな場所でした?

Mbanja Ritchy 自分のリビングのような場所で東京への入り口ですね。The Roomのオープン当時は毎週金曜日のレジデントDJをしていました。当時アシッドジャズの大物が海外からもThe Roomに来ていて、刺激を受けました。ハウスからレゲエ、ソウル、ファンク、アシッドジャズ、ヒップホップ、アフロファンクなど、USとUKの、どちらの音楽もたくさんかかっていました。お客さんは業界人、アーティスト、DJ、ライター、とにかくいろんな人がいて、オープンで楽しい場所でした。


■いろいろなジャンルのエッセンスを取り入れた
■ヒップホップをやりたいと思っている

──MONDO GROSSO後の活動、瘋癲について教えてください。

Mbanja Ritchy 1990年代後半にはBeat TrickのメンバーだったDJ Suwa、Naked ArtzのMC Mili、ドラマーのM.Fujitaniと共に瘋癲を結成しました。のちにM.FujitaniとCool Struttin'で活動していたギタリストGuroも参加して現在の瘋癲に至ります。京都、東京を拠点とし、音楽性としては正統派のヒップホップに楽器の生演奏を取り入れたスタイルのバンドです。

──ソロ活動についてはいかがですか?

Mbanja Ritchy ソロアルバムとして『Breaking Barriers』(1996)、『Stand In The Light』(1998)、『Keep It Real』(2004)、『Life Is Real』(2010)、『Everyday Island Dream』(2018)、『Gambler』(2018)、『Better Than Movie』(2019)をリリースしています。『Breking Barriers』のリリース後に川崎Club Citta、新宿LiquidRoomでフージーズの前座をやりました。ワイクリフ(・ジーン)と楽屋でラップしたり、僕のライブをローリン・ヒルがずっと見ていてすごく緊張しながらライブしたのを覚えています。2010年『Life Is Real』リリース以降、客演はここには書ききれないほどやりました。おそらくフューチャリングの数では日本在住の外国人で一番多いと思います。また2017年ころからは息子のJuaと10曲くらいリリースしてカメルーンでMVを3曲撮りました。そして2021年にMbanja Ritchyに改名して、シングル「Stay The Course」を、2022年にはシングル「LightI n The Dark」をリリースしました。現在DJ Shark、Goro Takayamaと一緒にソロ4枚目のアルバムを制作中です。

──今後のリリース、計画しているプロジェクトがありましたら。

Mbanja Ritchy 7月にMILI(瘋癲)をフューチャリングした曲をリリースする予定です。あとは8月14日に戸塚公会堂<Unity>、9月11日に長野県上田市<Stomp>に参加します。

──最後にファンに一言お願い致します。

Mbanja Ritchy ジャズのイメージを持たれることが多いのですが、昔からドープなヒップホップが好きで、今後いろいろなジャンルのエッセンスを取り入れたヒップホップをやりたいと思っています。ダークな内容の曲も好きですが、僕の音楽の中の基本軸はポジティブなメッセージで、聴いてくれた人が楽しんでくれたら何よりもやり甲斐を感じます。やってみたいことがまだまだたくさんあるので、それらをひとひとつ形にしていきたいと思います。

インタビュー:高山康志(ラッシュプロダクション)


「Stay The Course」

2021年10月20日
five Love Production

◆Mbanja Ritchy オフィシャルサイト
◆Mbanja Ritchy(B-BANDJ) Twitter
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