トニー・アイオミ、バーミンガム開発プロジェクトのPRでブラック・サバス初期を振り返る

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トニー・アイオミが、故郷、英国バーミンガムの開発事業Westside Business Improvement DistrictのPRの1つであるビデオ・ブログに出演し、バーミンガムでの思い出やブラック・サバス初期の日々を振り返った。

◆トニー・アイオミ動画

彼は、こう話している。「やあ、ブラック・サバスのリード・ギタリスト、創設メンバーのトニー・アイオミだ。僕らのブラック・サバス橋と、かの有名な“ヘヴィ・メタル”(製)のブラック・サバス・ベンチにみんなを迎えられるのは素晴らしいことだ。バンドへのマッシヴなトリビュートがここにあることを、僕はとても嬉しく思っている。海外からも含め、毎年多くの人たちがここを訪れる。ベンチと橋の写真を撮るために、バーミンガムへ立ち寄ってる。なんて、素晴らしいことか」

「バーミンガム生まれ、育ちの僕はこの地域で働き、プレイしてきた。60年代半ばにブラック・サバスを始める前、僕はガスや電気のアークを溶接する工場で働いていた。そこである日、不運な事故が起き、僕は2本の指の先を失った。その後は、タイプライター会社の修理エンジニアをしていた。この地域の会社を訪問し、彼らのタイプライターを直すのが僕の仕事だった。そして当時、ビル・ワードとThe Restという地元のバンドでプレイしていた。僕らはその後1968年にEarthというバンドを始め、すぐにブラック・サバスと名前を変えた」

「1972年に話を進めると、ブラック・サバスはそのころまでに何度も何度も世界中をツアーしていた。当時、家に戻り友人たちに会い、ツアーからの休みを取るのはすごくナイスだったね。夜には様々な友人たちとバーミンガム中心部のクラブへ行ってた。同じようにツアーからの休みを取っていた連中だ。レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムやELOのジェフ・リンとブロード・ストリートにあったRum Runnerというクラブに行ってた。僕やミュージシャンたちに人気のある場所だったんだ。僕の昔からの大切な友人Albert Chapmanがそこのマネージャーで用心棒だったからね。僕らはそこで楽しい時間を過ごしてた」

「ブラック・サバスがバーミンガムで知られるようになる前は、入れない場所がいっぱいあった。オジー、ビル、ギーザー、僕とでバーミンガムのもう1つの人気クラブ、Cedar Clubへ行こうとしたことがある。そこでは、ベヴ・ベヴァンがザ・ムーブというバンドで定期的にプレイしていた。想像つくだろうが、僕らは即座に入場を断られたよ。僕らはむさくるしく、大半のクラブではドレスコードがあって、ジーンズでは入れなかった。間違いなく、僕らはアウトだ」

「バーミンガムは素晴らしい才能のホームだ。ムーディ・ブルース、デュラン・デュラン、スペンサー・デイヴィス・グループ、スティーヴ・ウィンウッド、UB40、ELO、ツェッペリンのジョン・ボーナムとロバート・プラント、ビヴァリー・ナイト、ジョーン・アーマトレイディングなどなど、いっぱいいる。これは一例に過ぎない。偉大な俳優、作家なんかもいる。そのほかにもね。みんな、バーミンガムだ」

「とにかく、(バーミンガムを)楽しんでくれたことを願ってる。来てくれてありがとう」と語り、観光大使的な役割も果たしている。

ブラック・サバスのベンチは2019年、市内中心部にある運河にかかる橋に設置され、それを機に補修された橋はブラック・サバス・ブリッジと改名された。


Ako Suzuki

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