【インタビュー】KANATSU、朝ドラ挿入歌とダンサーの二面性を持つ謎多き素顔「歌をやめちゃったら、もう私ではなくなる」

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NHK朝ドラ『半分、青い』挿入歌や、千原せいじ主演映画『義兄弟』主題歌への起用などで2020年、話題性を高めたシンガーがKANATSUだ。しかし、その素顔は謎に包まれたまま。高校在学中にダンスユニットでメジャーデビュー。30代でエイベックスより謎のアーティストとして再デビューし、2020年にはKANATSU名義でソロ活動を本格始動した現在一児の母。踊れるシンガーなのか、唄えるダンサーなのか。いずれも兼ね備えたエンターティナーであることは間違いなさそうだ。

◆KANATSU 画像 / 動画

「歌とダンスで私なりに“今”を表現をしてみました」とは、2022年秋リリースの最新シングル「2020」に関する自身のコメントだ。世界的なパンデミックはもとより、プライベートにおける出産から育児など、KANATSUを取り巻く環境が大きく変化したことも影響して、表現への欲求はより高まりをみせた。加えて、前述した数々の経験は自身のスキルを広げ続け、結果、その幅に深みを持たせていることも事実だ。KANATSUというアーティストの全容を解明すべく、波瀾万丈な経歴、音楽観、表現者としてのゆるがぬアティチュード、そして最新音源や今後について、じっくりと訊いたロングインタビューをお届けしたい。

   ◆   ◆   ◆

■自分の歌い方を見つけられなくて苦労した
■初のオリジナル曲で私の歌はこれだ!って

──KANATSUさんの音楽キャリアからうかがいたいのですが、まず10代の頃にクラウンレコードからメジャーデビューしているんですよね。

KANATSU:17歳の時、2000年にダンスユニットでメジャーデビューをしまして。企業のCMソングも歌っていました。その後、2010年くらいだと思うんですけど、ソロのインディーズ期間があって、2枚くらいアルバムを出しました。30代に入った2015年にエイベックスより2回目のメジャーデビューをして、5年くらい活動をしていました。それから結婚、出産をして現在に至ります。妊娠中にソロアルバムを制作をしていたのですが、そこでまた火が点いて、KANATSU名義で2020年に音楽活動を再開しました。



──もともと自分の表現のルーツとなるものだったり、音楽をやりたいというきっかけはあったんですか?

KANATSU:3歳からバレエやジャズダンス、ヒップホップなど、いろんな国のダンスをやっていたんです。私はもともと韓国にルーツがあるので、韓国舞踊を習ったりもしていました。うちの母がダンスの先生としてスクールを開いていたんです。

──では英才教育を受けていたんですね。

KANATSU:ダンスに関しては、自分が好きなダンスを踊っていた感じですね。ダンスの発表会のときにスカウトをされて歌の道に入ったんです。私の歌を聴かずにデビューが決まった感じでした(笑)。

──スカウトされた時は歌への興味ってあったんですか?

KANATSU:すごくありました。中学生の頃はホイットニー・ヒューストンとかマライア・キャリーなどを聴いてましたし、デスティニーズ・チャイルド、ビヨンセ、ジェニファー・ロペスやブリトニー・スピアーズなども大好きでした。

──自分が歌いたい音楽もソウルやR&Bがいいなという?

KANATSU:こだわりは全然なかったんですよね。小学生の頃から演歌や歌謡曲も歌うし、洋楽もジャンル関係なく、いろんな歌が好きでした。韓国の民謡も、親の影響で歌ったりしていましたし。ジャンルで好き嫌いがある感じでなかったんです。

──人前で歌うことも好きでしたか?

KANATSU:初めて人前で歌ったのが小学校の音楽の授業で。ひとりずつみんなの前で歌うような発表の時間ってあるじゃないですか。そこで歌ったときに、先生がうちの母に報告をしたんです。「歌の道がいいかも」と勧められたことは覚えてます。感情たっぷりに、やたら抑揚を込めて歌っていたのかもしれない(笑)。


──デビューは17歳ですから、高校在学時にデビュー準備を始めたわけですよね。当時を振り返ってみてどうですか?

KANATSU:歌は好きだったのですが、“メジャーデビューしたい”という気持ちはなくて、偉いオトナの人たちに任せていたら、って感じでした(笑)。基本的には歌とダンスが好きなので、楽しかったのは楽しかったんですけど、毎日のように京都から大阪に通って、というスケジュール。レッスン三昧で夜も遅くて、高校も遅刻していくみたいなハードな感じだったんです。なのでデビューのときにはストレスで太ってしまって(笑)。「痩せろ痩せろ」って言われて、それがストレスでまた太るっていう悪循環にも陥ってましたね。

──思春期ならでは、ですよね。

KANATSU:過去のことだからあまり覚えていないんですけどね。そのダンスユニットは、オトナの中でひとり子供が混ざってるような環境で、いつも緊張してましたね。

──活動自体はどのくらい続いたんですか。

KANATSU:15歳でスカウトされて、17歳でデビューして、1年くらいですぐに解散してしまったんです。そこからは京都の老舗ライブハウスで、シンガーとしてアルバイトをしてました。

──ダンサーではなく、シンガーとして。

KANATSU:ソウルやディスコミュージック、ジャズのライブハウスでしたが、ジャンルは幅広く歌わせてもらえました。京都では有名なライブハウスで今もあるんですけど、毎月海外からたくさんのシンガーをゲストとして迎えていて、シンガーのバックコーラスをしたり、振付けを一緒に踊ったり。ゲストシンガー達から常に刺激を受けて、毎日が勉強でした。いろんな経験をそこではさせてもらえましたね。ジャズとか洋楽系を歌うことが多かったのですが、中国のお客様もたくさんいらしてたので、中国語の歌を歌ったり、韓国の歌を歌ったりもしていました。

──シンガーとして、さらにいろんな曲を吸収していく時間にもなったんですね。

KANATSU:影響は大きかったですね。18歳から20歳まで、濃い時間を過ごしてました。

──まず、ジャズとかソウルが中心のライブハウスにそんな若い人が周囲にもいたんですか?

KANATSU:いなかったですね(笑)。だからこそ歌に集中できた時間だったのかもしれません。


──ライブハウスで表現者として鍛錬していくなかで、自分なりの歌やパフォーマンスの勉強法もありましたか?

KANATSU:“もうちょっと上手く歌いたいな”という気持ちもあって、東京に行ってボイストレーニングを受けたり。いろいろなシンガーの歌い方を真似てみたり、試行錯誤していました。

──その当時、自分なりに描いていたシンガーとしての将来のビジョンはありましたか?

KANATSU:当時はもちろん大きなステージで歌って踊りたいという気持ちはあったんですけど、具体的なことは考えていなくて。ただライブハウスに来ていたお客様をきっかけに、上京を決めたんです。SMAPさんとか中島美嘉さん、ジャニーズグループの曲、アニメの曲を作曲されている長岡成貢さんという方とご縁があり、曲を書いてもらうことになるんです。ライブハウスを辞めると決めて、3ヶ月で東京に引っ越して。今思うと、すごい勢いがありましたね(笑)。

──いわゆる洋楽であるとか、ジャズ、ソウル、R&Bを歌っていたと頃とは違う、J-POPの世界に入っていったわけですか?

KANATSU:そう、全然違いましたね。でも私は曲ごとに歌い方を変えてしまうタイプだったので、“自分の歌い方”というのをなかなか見つけられなくてすごく苦労してたんです。初めて書いていただいたオリジナル曲で、“私の歌はこれだ”と感じました。ヒットメーカーさんに書いてもらって嬉しかったし、自分のオリジナル曲が増えていくことの喜びを実感して、もっと頑張ろうという気持ちが湧き出てきましたね。その後、長岡成貢さんとはまた違う出会いもあって。

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