【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第4回「本棚」

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「予防線で磔られた感性がまだ息をしているうちに、大海原へ放ちましょう!他人の撒き餌で満たされないで。過剰なほど敏感でいてよ」
2002年の8月8日に貸した僕の村上春樹は、18日後、つまり同じ年の8月26日にこんなメモを挟んで返ってきた。たった60文字で世界が変わった瞬間だった。



小学生から高校生まで、どんなに学校が変わっても僕のあだ名は「仏陀」だった。理由はごく単純で“無駄に達観していた”からだ。毎日たくさんの本を読んでいた僕はこの辺に住む誰よりも賢かったし、誰よりも大人びていたと思う。実際そうだったかは分からない、けれど当時はそう確信していた。
小学生時代の話だ。友人が人間関係で悩めば「相手が自分と違う人間であるということをまず頭に入れるべきだ」となどと諭し、恋愛で悩んでいれば多様な関係性の例を挙げ「必ずしも恋人になることがゴールではない」と言った。(多少生意気ではあるが、これに関しては我ながら良いことを言ったと思う。)
こんなことばかりをしていたら、歴史上のすごい人なんてキリストか仏陀しか知らなかった当時の彼らは、なんか知らないけどとにかくすごい奴!という意味を込めて「仏陀」と呼び始めたというわけだ。やがてこのことは周りの大人たちに伝わり、ちょっとした噂の的になった。それからというもの、気を良くした僕は“なんかすごい奴”でいるために、知識や言葉を浴びるように本を読んだのだ。


この頃から本というものは純粋に娯楽として、自分と切り離して楽しむものではなくなっていた。僕にとっては武器でありお守りであり、全てがこの世界の攻略本だったのだ。
それゆえに先人たちが生きた何百、何千もの人生、失敗も悩みも、未来予想図だって、全て詰まっているのになぜ彼らは読まないのか、どうして失敗を繰り返して嘆いているのか、本当に理解できなかった。(今思うと無知も甚だしい。甚だしいどころではない。傲岸不遜。ソクラテスもお手上げである。)


大学生になってからというもの、自由な時間をほとんどと言っていいほど読書に費やした。大学の図書館には今までと比べ物にならない種類の専門書が並んでおり、眼球を通す時間も惜しいくらい、いっそのこと直接脳みそにぶち込んでやりたいとすら思った。
当然、四年間で友達ができることは無かった。そしてそんな僕は、あろうことか就職活動で人生においての歴史的大敗を喫することとなるのだ。


なんでもそれなりにうまくやってきた僕には圧倒的に経験が足りなかった。生身で受ける予測不可能な衝撃、それから生まれる衝動が極めて少なく、もっと言えば僕の経歴は頭の中と全くと言っていいほど釣り合っていなかったのだ。そこそこの大学に通っている読書好きの学生、自身の経験に基づいた成長も問題解決能力も無く、誰かの考え、誰かの経験をまるで自分のものの様に生きてきたのだと、そう思い知らされる頃には安い革靴が心より一足早く悲鳴をあげていた。



半ば惰性で終えた最後の面接の日を境に、図書館に行くことはなくなっていた。
それでも本屋には立ち寄ったし、たまに買ったりもした。けれど、家の本棚に本が一冊増える度にどうしようもない罪悪感と虚無感に苛まれたのだ。
この頃になると、読書どころか消費行動の全てが苦しかった。映画を観ても食事をしても、自分は時間をつかってお金を遣って、それが何になるのか、何のためにしているのかまったくわからなかったのだ。だから、家に物が増える度に、体重が1グラム増える度に、自分がいかに空っぽであるかを思い知らされるようで苦しかった。



けれど、そんな状況でも人は恋をするようだ。
彼女と最初に話したのは2002年の8月8日、朝起きるとテレビでは広島と長崎に投下された原爆の特集をやっていた。
温暖化の影響なのかその夏はすこぶる暑く、大学が夏季休暇に入り一日中家にいるようになってからというもの、朝から晩までつけっぱなしエアコン代を危惧し、次の対策が決まるまで日中は図書館に避難することにした。

数週間しかたっていないのに、随分とよそよそしく感じる図書館は、ただでさえ人の出入りが少ないのに、休みに入ると一段と寂しく、涼しい感じがした。



「なんで最近来なかったんですか?」
そう声をかけられて振り向くと、胸元にNASAとかいてあるTシャツを着た女が立っていた。彼女のことは知っている。よくこの図書館に出入りしているし、なんといっても大概NASAのデザイン違いの服を着ていて、宇宙飛行士になるべく奮闘しているらしいという噂を聞いたからだ。
けれど学内で声を掛けられるということ、ましてや女性に話しかけられるなんて無かった僕はこの状況を整理するのに精一杯で、質問が何を意図しているのかさっぱりわからなかった。彼女はつづけて
「ついこないだまで毎日ここに居たから」と言いながら向かいの椅子に腰を掛けた。



「もう本はいいかなと思って、たくさん読んだし、だからなんなんだって感じで。」僕がそうこたえると、間髪を入れずに「困るんです」と言った。

「馬鹿みたいに、何かに心を奪われてる人に居なくなられると困るんです。まるで私だけが馬鹿みたいで」と僕の目をまっすぐと見る。

こいつは何を堂々と言っているのだろう。

「そういわれても…就活もあったし。気付いたんだよ。あー、無駄だったなって。本読んでる時って、頭の中でどんなにすごい人生を体験しても実際の自分はこの場所から一ミリも動かずに何時間も過ごしてるだけでしょ。そういうの、もういいんだよ。何の意味もない。っていうか、お前には関係ない。」
自分の中で積もっていた言葉が雪崩の様に彼女を襲った。

「意味のないことをして何が悪いの?」
屈託もなくそんなことを言う彼女に、反射的に苛立ちを覚えてすぐ、はっとした。それから気の毒に思った。
なぜなら、彼女の身長は145センチにも満たなかったからだ。
僕が本で読んだ限り宇宙飛行士になるには確か身長制限があったはずで、どう見てもその条件を満たしているとは思えなかった。


「ごめん、言い間違えた。惨めなんだよ、僕は他人の言葉を、考えを、経験だって全部自分のものみたいにして。みんなが真正面から壁にぶつかって失敗を繰り返している中、ただ遠くから見て、ああそっちじゃないのに、こっちなら近いのにとか、全部分かったように。神様より偉そうに見てる。気づいたらそいつらは着実に経験を積んでいて、僕は何もなかった。ただ自分の中の本棚に本が増えていくだけ。その辺にあるのと一緒、空っぽな自分を他人の言葉で埋めてるだけで立派な面して。汚いよ、ほんと。」
汚い、自分から無意識のうちに出てきた言葉に心臓を刺されるようだった。僕は彼女を気の毒だと思い、それを認識した上で信じられないくらい正直な弱音を吐いたのだ。もし彼女を自分よりも“気の毒な存在”として認識していなかったら、決してこうはならなかっただろう。
汚い、本当にその通りだ。



初対面の人間にこんなにも捲し立てられて、さすがに驚いたのだろう。
いや、そもそも悪気があって言ったわけでもないかもしれない。その証拠に
「なんかよくわからないけど、それとこれとは別だと思いますよ。少なくとも私は読んでいる時の顔を見て、この人は本当に本が好きなんだなと思ったし。それと、汚いのはみんな同じ、そんなの棚に上げて幸せになっていくんだと思います。」と言った。


実を言うと、僕はもうずっと本が好きだなんて思ったことが無かった。文字だけで何者にもなれる感覚を、どこへでも行ける感覚を、すべて後ろめたいと思っていたから。そして、そんな自分も含めて幸せになる権利があることも分かっていたはずなのに、自己嫌悪に浸って必要以上に卑下してきた。いや、それすらも一種のナルシシズムであったのだろう。
彼女の短い言葉が放つ意味はどれも、どんなに長い小説より、どんなに難しい専門書より、しつこく脳裏にこびりついた。



彼女の持つ空気感で冷静さを取り戻し、どうして話しかけたのかを聞くと「いつか宇宙に持っていく本を探していて、それなら一番詳しそうな僕に聞くのがいい」と思ったらしい。
それを聞いて、だとしたら声のかけ方を完全に間違えてないか?と思ったけれど、言わなかった。


それから初めて名前を聞いて、学部を聞いて、実家でチンゲン菜を栽培していると聞いた。
僕はというと、彼女に自分のことをあまり話すことができなかった。特に本の話題になると何も話す気が無くなってしまったのだ。さっきまであんなに恥ずかしいことまで話していたじゃないか、と思うかもしれないがわかってほしい。
この時すでに彼女に惹かれていたのだ。だからこそ、これ以上僕のことを知ってくれるなと思った。だって、種明かしのされたマジックを誰が見たいと思う?

彼女はあまりに頑なに話題を避ける僕に呆れて「とにかく一冊貸してほしい」と言った。しかし、それでは絶対に応じないと思ったのだろう、あとから「好きでも嫌いでも無いやつでいいから」と付け加えのだ。
そんな優しさに少しきまりが悪かったが、おかげで変に見栄を張らずに済んだ。
そして帰り際に家に立ち寄り、8月8日だから、と思って机の上に出していた村上春樹の『風の歌を聴け』を渡した。



その日から待ち合わせをせずとも図書館にいたし、何をするわけでもないが一緒に居ることが増えた。と言っても、貸した本が手元に戻ってくるまでの18日間という短い期間だったが。
つまり彼女と最後に会ったのは8月26日だった。どうやら一身上の都合で田舎に帰ることになったらしい。

その帰り道で一緒に月を見ながら「世界中の本をぜーんぶ読むよりも月に行く方が簡単なんて、すごい時代になったもんですねー」と言っていたのが忘れられなかった。



実家に帰った彼女は休みが明けても、肌寒くなっても戻ってくることは無かった。もしかしたら宇宙飛行士を諦めて実家でチンゲン菜を作っているのかもしれないと、小さな体で軽トラを運転する彼女を想像した。



それから随分と経って、僕は小説家になった。本棚には自分の言葉が、考えが、経験が並んでいる。彼女が本に挟んだたった60文字よりも意味のあることを書けているのかは分からないが、棚の上には汚いほこりが溜まって、僕はそれなりに幸せに暮らしている。


リーガルリリー 海

スリーピースバンド、リーガルリリーのベーシスト。国内のみならず、カナダ、アメリカ、香港、中国といった、海外でのグローバルなライブ活動も行い、独創的な歌詞とバンドアレンジ、衝動的なライブパフォーマンスが特徴。2023年4月6日にドラマParavi「隣の男はよく食べる」主題歌の新曲「ハイキ」を配信リリース予定。2023年7月2日はバンド初となる日比谷野外音楽堂公演を行う。

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