いい音爆音アワー vol.137「バート・バカラックはすごかった♪」

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いい音爆音アワー vol.137「バート・バカラックはすごかった♪」
2023年3月22日(水)@ニュー風知空知
ポップミュージックの歴史でひときわ大きな存在感を放つ作曲家・編曲家、バート・バカラックが、2023年2月8日、94歳でその生涯を終えました。
3月5日の朝日新聞朝刊に、バカラックに強い影響を受けたという椎名林檎さんが、追悼文を寄せています。彼女はバカラックの音楽を「アンビバレント」、つまり「相反する感情が同時に存在するさま」と表現しています。「洗練」と「郷愁」が共存するという意味でそう語っているのですが、まさに同感ですし、アンビバレント性は優れたポップミュージックの条件のひとつかも、と気づかせてもくれました。

今回は追悼の意も込めつつ、彼が残した膨大な作品群から、これはぜひ押さえておきたいと思う名曲・名サウンドを選びました。


ふくおかとも彦 [いい音研究所]
Burt Bacharach(本名:Burt Freeman Bacharach):
1928年5月12日、米国ミズーリ州カンザスシティ生まれ。ニューヨーク市クイーンズ区フォレスト・ヒルズ育ち。ドイツ系ユダヤ人の血をひく。
父Bertは有名な新聞のコラムニスト、母Irmaはアマチュアの画家&作曲家。母はバートに幼少期からピアノとドラムとチェロを学ばせた。
10代になると、ジャズに興味を持った。クラシックのピアノレッスンをなまけ、偽のIDカードでマンハッタン52丁目のナイトクラブに屡々通い、ディジー・ガレスピーやカウント・ベイシーなどビバップのミュージシャンから多大な影響を受けた。
高校卒業後はいくつかの音楽大学や音楽スクールで、アカデミックな作曲技法を学んだ。
1950年、徴収されアメリカ陸軍に2年間服役する。ドイツに駐留し、そこで歌手のビック・ダモーン(Vic Damone)と出会い、除隊後3年間は彼のためのピアノ奏者、編曲家として働く。
1956年、ナイトクラブでのショーのために編曲家兼指揮者を探していた女優のマレーネ・ディートリヒに紹介され、彼女の音楽監督となって、60年代初頭まで、世界中を旅する。やがて彼の音楽的才能は人々の注目を集めるようになる。
1957年、ニューヨークの「Brill Building」(*)で作詞家ハル・デヴィッド(Hal David)と出会い、いっしょに曲をつくるようになる。

(*)Brill Building:ニューヨーク市マンハッタン、タイムズ・スクエアの少し北、ブロードウェイ1619番地にあるオフィス・ビル。たくさんの音楽関連会社が集まり(1962年には165社)、ソングライターとシンガーのマッチングがここで一挙にできた。Gerry Goffin & Carole King、Jerry Leiber & Mike Stoller、Ellie Greenwich & Jeff Barry、Neil Sedaka、Laura Nyro、Barry Mann & Cynthia Weil、そしてBurt Bacharach & Hal Davidなど多くの作詞・作曲者がここに曲を持ち込んで、1950年代後半から60年代にかけて、ヒット曲を量産した。
  • ①Marty Robbins「The Story of My Life」

    バカラックは作詞家のハル・デイヴィッドと組んでたくさんのヒット曲をつくりましたが、そのコンビの最初のヒット曲がこれです。マーティ・ロビンズは当時の人気カントリー歌。彼らはカントリーのつもりでつくったのではないらしいのですが、ロビンズが歌うとカントリー・ソングにしか聴こえません。1957年11月に発売されて、カントリー・チャートで1位を獲得しました。ポップチャートでも15位。
    また本作の1ヶ月後には英国のマイケル・ホリデイ(Michael Holliday)がカバーを出して、これは全英1位となっています。

  • ②The Drifters「Mexican Divorce(メキシコでさようなら)」

    「The Story of My Life」はハル・デイヴィッドとの最初のヒットですが、これでベッタリ組んだわけではなく、60年代の最初のうちはボブ・ヒリアード(Bob Hilliard)という作詞家との仕事が多かった。このコンビで“The Drifters”という黒人ボーカルグループに何曲か提供しています。The Drifters結成は1953年。クライド・マクファター(Clyde McPhatter)というシンガーのためにバックコーラスとして集められたのがスタートです。マクファターは約1年で脱退し、その後はメンバーがコロコロ入れ替わりつつ存続していくという、グループと言うよりはスポーツ・チームみたいな形で、今も活動はしています。歴代参加メンバーはのべ65人もいます。
    「Stand by Me」で有名なベン・E・キング(Ben E. King)が1958〜60年に在籍して、その時代が最盛期でした。「Mexican Divorce」という曲は、キングの後任、ルディ・ルイス(Rudy Lewis)がリードシンガーだった時期に、バカラックがヒリアードとのコンビでつくった曲です。「When My Little Girl Is Smiling(私のベビーがほほえめば)」というキャロル・キングの曲のB面で、1962年2月に発売されました。

The Drifters「Mexican Divorce」には“The Sweet Inspirations”という女性コーラス隊が参加しているが、この時のメンバーが、ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)と彼女の妹、ディーディー・ワーウィック(Dee Dee Warwick)、そして叔母のシシィ・ヒューストン(Cissy Houston)、友人のドリス・トロイ(Doris Troy)だった。レコーディングの際に、バカラックは特にディオンヌの歌声と物腰を気に入り、曲のプレゼン用デモテープの仮歌シンガーとして、1曲$12.50で契約した(2021年の貨幣価値で$110)。
  • ③Jerry Butler「Make It Easy on Yourself」

    バカラックがディオンヌに最初に仮歌を発注した曲のひとつが「Make It Easy on Yourself」です。このデモを聴いたのが、ジェリー・バトラーという元“The Impressions”の黒人シンガー。で、歌もアレンジも非常に気に入った。ぜひこの人に任せたいとなって、バカラックは初めて自曲のレコーディング全体を取り仕切ることになりました。プロデュースクレジットは「Calvin Carter」になっていて、これはVee-JayレコードのA&Rなんですが、実質的にはバカラック・プロデュースです。

  • ④Dionne Warwick「Don't Make Me Over」

    ディオンヌがデモの仮歌を歌った中に「It's Love That Really Counts (In the Long Run)」という曲もあって、これは“The Shirelles”という黒人女性ボーカルグループのためにつくられました。それを聴いたシレルズの所属レコード会社「Scepter Records」の社長フローレンス・グリーンバーグ(Florence Greenberg)が「Forget the song, get the girl!」と叫び、1962年にディオンヌはScepterと契約しました。
    で、先ほどの「Make It Easy on Yourself」が自分のデビュー曲になるかな〜、なんて期待していたのですが、ジェリー・バトラーが歌うことを知って、すごくガッカリ。バカラックとデイヴィッドが「あれに負けないいい曲をつくるから」と請け合ったのに、「Don't make me over, man」と返しました。「騙されないわよ」というような意味です。それでつくったのが「Don't Make Me Over」という曲。ディオンヌのデビュー・シングルとして1962年10月に発売されると、彼女の最初のヒットとなりました。

  • ⑤The Beatles「Baby It's You」

    ビートルズがカバーした「Baby It’s You」もオリジナルはシレルズで1961年リリース。全米8位のヒットでした。ただ、シレルズ版は相当酷いです。歌もヘタクソだし、間奏のオルガンは音が狂ってる。よくこれでOK出したなー、って感じなので、やはりビートルズ版がいいです。ビートルズも61年からライブのレパートリーにしていたらしいです。デビュー・アルバム『Please Please Me』に収録されました。
    ちなみに、作詞はハル・デイヴィッドではなくて、彼のお兄さんマック・デイヴィッドと、シレルズのプロデューサーだったルーサー・ディクソンです。

  • ⑥Carpenters「(They Long to Be) Close to You(遥かなる影)」

    このへんからはもう誰もが知っているような曲が続きますが、その殆どは60年代で、この曲も1963年に世に出ました。ただ、この曲が売れたのは7年も経ってから。1963年にアメリカ人俳優のリチャード・チェンバレン(Richard Chamberlain)がレコーディングしたのが最初で、でも全然売れませんでした。64年にディオンヌ・ワーウィック、67年にはダスティ・スプリングフィールドがそれぞれアルバムの1曲としてリリース。1968年にはハーブ・アルパート(Herb Alpert)がカバーしたんですが、自分で仕上がりが気に入らず“お蔵”にしました。
    で、1970年に、今度はアルパートのレコード会社A&Mの新人、カーペンターズの3rdシングルとしてリリースすると、なんと全米4週連続1位、年間5位の大ヒット。何が違ったか。もちろんカレンの歌はすばらしいのですが、アレンジですね。それまでのアレンジはリズムが跳ねていません(チェンバレンとディオンヌ版が8ビート、ダスティ版は16ビート)が、カーペンターズ版はリチャード・カーペンターがゆったりとしたシャッフルにアレンジしました。リチャードがバカラックに「思い通りにやってもいいか?」と尋ねた時、バカラックは「ブリッジの後のピアノの“オブリ”(*)だけ活かしてくれ」と頼んだそうです。でき上がった作品を聴いて、バカラックは「私のアレンジよりよっぽどすばらしい!」と驚いたそうです。

    (*)オブリ:オブリガート(obbligato)(イタリア語)。メロディの引き立て役として演奏される旋律。

  • ⑦Tom Jones「What's New Pussycat?(何かいいことないか子猫チャン)」

    バカラックは1965年、ウディ・アレン脚本の映画「What's New Pussycat?(何かいいことないか子猫チャン)」の音楽を担当しました。そして同タイトルの主題歌の歌い手に、64年末にデビューしたばかりのイギリス人シンガー、トム・ジョーンズを抜擢しました。上手くて声量がある、日本人で言えば尾崎紀世彦とか松崎しげるみたいなタイプの歌手であるジョーンズは、コミカルでかなり変な曲だと思ったので、最初は冗談かバカにされているのかと考えたそうですが、「君の堂々とした声で歌うことでこの曲が名作になるんだ」とバカラックに説得され、半信半疑ながらとりあえずやってみたら、全米3位のヒットとなり、自分でもビックリでした。

  • ⑧Cilla Black「Alfie」

    1966年にはイギリス映画「Alfie」のプロモートソングを依頼されました。主題歌ではなくて宣伝のための曲です。映画全体のサウンドトラックはジャズ・ミュージシャンのソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)が担当しています。映画ではエンディングロールのところにこの曲が使われて、これはアメリカ人シンガーのシェール(Cher この時20歳)が歌っているのですが、宣伝用バージョンとしては、イギリス映画だからとイギリス人シンガー、シラ・ブラックに依頼しました。
    この曲は、のちにはバカラック自身が「自作の中で一番好き」と言っていますが、当初はハル・デイヴィッドが、「“Alfie”なんて名前の男について詞を書く気がしない」なんて言って、後ろ向きでした。日本人には感覚的によく分からないけど、歌を依頼されたシラ・ブラックも同じように「“Alfie”は犬の名前でしょ!」とか言って、マネージャーに歌いたくないと文句を言ったらしい。彼女のマネージャーはブライアン・エプスタイン、つまりビートルズと同じマネジメントでした。プロデューサーもジョージ・マーティンです。
    シラは断りたくて、もしバカラックがアレンジして、ロンドンに来て、ピアノも弾いてくれるならと条件を出しましたが、彼がすべて二つ返事でOKしたので、やるしかなくなりました。
    シングルが1966年1月、映画公開の約4ヶ月前にリリースされ、曲自体のヒットと言うよりあくまで映画のプロモーションを目指したのですが、全英9位と、ちゃんとヒットもしました。

  • ⑨Dusty Springfield「The Look of Love(恋の面影)」

    映画「What's New Pussycat?」のプロデューサー、チャールズ・K・フェルドマン(Charles K. Feldman)が1967年に、映画「007/カジノ・ロワイヤル」を製作し、またサントラをバカラックに依頼しました。 “ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス(Tijuana Brass)”によるインストの「Casino Royale」と、ダスティ・スプリングフィールドが歌う「The Look of Love(恋の面影)」という曲がシングルヒットしました。
    バカラックはこの曲を「曲として書いたと言うよりは、(主演の)ウーズラ・アンドレス(Ursula Andress)のテーマとしてつくったんだ。ウーズラを見ていると自然にメロディが出てきた」なんて言っています。

  • ⑩Dionne Warwick「I Say a Little Prayer(あなたに祈りをこめて)」

    またディオンヌです。この曲、録音されたのは1966年4月9日なんですが、シングル発売は翌67年の10月と、1年半も空いているんです。なぜかと言うと、完成してから、バカラックがどうもテンポが速過ぎると感じていたから。ボツにしようと思ってたんですが、先ほども登場したScepterレコードの女社長、フローレンス・グリーンバーグが、「悪くないんじゃない」とアルバム『The Windows of the World』に収録して67年8月に発売しました。すると、ラジオDJたちが、「I Say a Little Prayer」をバンバンかけ始めたんですね。それでシングルカットしたらスルスルっと全米4位のヒットになりました。
    実はこの曲、私がバカラック作品の中で一番好きな曲です。何が好きかと言うと、哀愁ある素晴らしいメロディでありながら、変拍子と言うか、全体4/4の中に、バース(Aメロ)では2/4が、サビでは3/4がさりげなく紛れているという変態性があること。そして、バースの3〜4小節目で、「上のド・ド・レ・ミ→下のレ・ド→上のレ・ド」とメロディがオクターブで上下するという奇想天外な流れが最高です。

  • ⑪Aretha Franklin「I Say a Little Prayer(小さな願い)」

    その「I Say a Little Prayer」、ディオンヌ版もヒットしたのですが、アレサ・フランクリンのバージョンがさらに有名ですね。ちなみにこちらは邦題が「小さな願い」。
    『Aretha Now』というアルバム制作中に、アレサとコーラス隊の“The Sweet Inspirations”(もうディオンヌやディーディーは卒業済)が遊びでこの曲を歌ってたんですが、それを聴いたプロデューサーのジェリー・ウェクスラーが「ぜひやってみよう」と言い出し、急遽録音することになったそうです。
    実は私、アレサでこの曲を知って、彼女の中でこの曲が一番好きなんですが、このアレサ版は先ほどご説明した、オクターブの上下の部分が違うんです。「下のレ・ド」が上のまま「レドラソ」から「上のレ・ド」、そこにコール&レスポンスで、スウィート・インスピレーションズが合いの手を入れる形になっています。あとでディオンヌ版を聴いて、違いに気づき、驚きました。サビのコード進行なども少し変えているようです。アレサ版のほうが勢いはあると思いますが、メロディの面白さはやはりオリジナルの勝ちだな。
    1968年7月にシングルカットされましたがB面でした。だけどラジオを中心に、やはりこの曲のほうが人気が出て、全米10位、R&B 3位のヒットとなりました。

  • ⑫Dionne Warwick「Do You Know the Way to San Jose(サン・ホセへの道)」

    ディオンヌにとって、先ほどの「I Say a Little Prayer」の次のシングルが「Do You Know the Way to San Jose(サン・ホセへの道)」です。向こうの人の発音は「サンノゼ」に近いですが、なぜか日本では「サンホセ」ですね。
    1968年3月に9枚目のアルバム『Dionne Warwick in Valley of the Dolls(哀愁の花びら)』の1曲としてリリースされ、翌月シングル・カットされました。もうこの頃はバカラックもデイヴィッドも絶好調って感じですね。全米10位ですが、英国やヨーロッパ、日本でも売れ、350万枚以上を売り上げました。
    だけどなぜか、ディオンヌは当初も今もこの曲が好きじゃないそうです。「dumb song」だって言っています。「ばかげた歌」というほどの意味です。ま、たしかにタイトルは旅行英会話の例文みたいですけどね。

  • ⑬Dionne Warwick「I'll Never Fall in Love Again(恋よ、さようなら)」

    やはりディオンヌはバカラックの名曲を軒並み歌っている人なので、また登場です。
    この曲はバカラック作品の中でも特によく知られた曲のひとつですが、元は「Promises, Promises」というミュージカルのために書いたものです。ニール・サイモン原作の1960年の映画「アパートの鍵貸します(The Apartment)」(主演:ジャック・レモン/シャーリー・マクレーン)をミュージカルにリメイクした作品です。
    1968年秋に、バカラックとデイヴィッドはそのミュージカルのスコアを依頼され、「特に第2幕の真ん中に、いい曲が欲しい。終演後お客さんが思わず口笛で吹いてしまうような曲がいい」と要求されました。しかしその頃、バカラックは肺炎で入院していまして、ピアノの前に座ることができません。逆にそのおかげで、デイヴィッドは「男とキスしても肺炎をうつされるだけだよ」という詞を思いつきました。
    やっと退院してピアノに向かうと、曲はすぐにできました。生涯のうちで最も速くできた曲だそうです。ミュージカル公開日(68年12月1日)にギリギリで間に合いました。
    で、1969年中にディオンヌの他、ジョニー・マティス(Johnny Mathis)とかボビー・ジェントリー(Bobbie Gentry)とかバカラック自身とか何人かがレコード化しますが、やはりアメリカで最も売れたのはディオンヌ版でした。1971年のグラミー賞で「Best Contemporary Vocal Performance, Female」も獲得しました。

  • ⑭B.J. Thomas「Raindrops Keep Fallin' on My Head(雨にぬれても)」

    ご存知のように1969年の映画「明日に向かって撃て!」の挿入歌です。この映画のサウンドトラック全体をバカラックが担当しています。
    一応西部劇なんで、カントリー歌手に歌ってもらおうということで、最初レイ・スティーヴンス(Ray Stevens)という人に打診したのですが、断られまして、B.J.トーマスになりました。彼もカントリー歌手なんですが、この曲くらいしか知らないから、いわゆる「一発屋」だと思ってたら、いろいろヒット曲を持っていて、この「雨にぬれても」の前にもすでにミリオン・ヒットを出していました。カントリー歌手って日本じゃ全然知られていないような人でもアメリカでは売れてたりするんですよね。みんな同じような、代わり映えしない感じなのに、いつも不思議に思います。
    映画のヒットとともにレコードもめちゃくちゃ売れました。シングルは全米4週連続1位で、1970年の年間1位、バカラック最大のヒットになりました。ちなみに、先ほどの「(They Long to Be) Close to You(遥かなる影)」は70年の年間5位で、この年、バカラック&デイヴィッドは年間トップ10に2曲も送り込んでいるのです。

1970年はバカラックの音楽家人生にとって最高の年になったが、1973年、サントラを担当したミュージカル映画「Lost Horizon」の評判が最悪だった。それでもバカラックの名前でサントラ・アルバムは少しは売れたが、この仕事の過程でバカラックとデイヴィッドが仲違いをし、訴訟騒ぎに発展してしまう。さらに、この2人がもういっしょに仕事をしないと言ってることに対し、ディオンヌが不安を感じ、2人を訴えるという事態に。

ともかく、バカラックとデイヴィッドの関係はこれで終わってしまい、その後70年代のうちは、ほとんど何もうまくいかなかった。

1980年までにバカラックは、2番目の妻(Angie Dickinson)と別れたが、その頃から作詞家のキャロル・ベイヤー・セイガー(Carole Bayer Sager)と仕事を始め、1982年に結婚する(1991年離婚)。
  • ⑮Christopher Cross「Arthur's Theme (The Best That You Can Do)(ニューヨーク・シティ・セレナーデ)」

    キャロル・ベイヤー・セイガーと組んでの最初の成功は、1981年8月にリリースしたクリストファー・クロス(Christopher Cross)のシングル「Arthur's Theme (The Best That You Can Do)(ニューヨーク・シティ・セレナーデ)」です。
    これは81年7月に公開された「ミスター・アーサー (Arthur)」という映画の主題歌です。で、バカラックとキャロルだけでなく、クリストファー・クロスとピーター・アレン(SSW、元ライザ・ミネリの夫)も共作に参加しています。
    全米3週連続1位とヒットして、アカデミー賞最優秀歌曲賞(Best Original Song)を受賞しました。

  • ⑯Dionne and Friends「That's What Friends Are For(愛のハーモニー)」

    1973年以来、バカラックとディオンヌはお互いに距離を置いていましたが、1985年、「That's What Friends Are For」で再びタッグを組みました。もともと1982年、映画「ラブ IN ニューヨーク(Night Shift)」のためにつくられて、ロッド・スチュワートが歌い、レコード化されていた曲です。
    1985年はアフリカの飢餓問題があって、その救済を目的として「LIVE AID」が開催されましたが、「AIDS」も問題になっていました。そこで、米国エイズ研究財団のためのチャリティとして、ディオンヌがスティーヴィー・ワンダー、グラディス・ナイト、エルトン・ジョンに呼びかけてつくったのがこのシングルでした。85年10月にリリースされ、全米4週連続1位、86年年間でも1位になる大ヒットとなって、300万ドル以上を集めることができました。第29回グラミー賞で「Song of the Year」と「Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals(最優秀ポップパフォーマンス賞デュオ/グループ)」も獲得しています。

  • ⑰Elvis Costello & Burt Bacharac「God Give Me Strength」

    1996年の「グレイス・オブ・マイ・ハート」という映画に、バカラックはエルヴィス・コステロと組んだこの曲を提供しました。映画では登場人物が歌っていますが、サントラ・アルバムにはコステロのボーカル、バカラックのピアノで収録されています。これをきっかけに2人の親交は深まりまして、いっしょに何度かライブを行い、1998年には全曲共作の曲からなるコラボ・アルバム『Painted From Memory』もリリースしました。さらに、1999年のコメディ映画「オースティン・パワーズ」シリーズの第2弾「オースティン・パワーズ・デラックス(Austin Powers: The Spy Who Shagged Me)」に2人とも出演して、「I'll Never Fall in Love Again」を演奏したりもしています。

その後もバカラックは、量こそ減るが、コンスタントに活動を続ける。
2005年11月、新曲だけでソロアルバム『At This Time』をリリース。ここでもゲストにコステロが参加し、ソングライティングではトニオ・K (Tonio K.)というアメリカ人SSWが8曲でコラボした。
  • ⑱椎名林檎と斎藤ネコカルテット「It Was You」

    「It Was You」という曲を椎名林檎が録音しているのですが、これはカバーではなくて、バカラックが彼女のために書いた曲です。バカラックの2005年のアルバム『At This Time』で曲作りを手伝っているTonio K.という人との共作曲なので、その頃に書かれたものでしょうか。
    2013年リリースの『浮き名』という、デビュー以来の男性アーティストとのコラボ作品を集めたベストアルバムに、新曲として収録されましたが、その前に、「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2008 in EZO」でライブで披露したこともあります。
    バイオリン奏者の斎藤ネコ率いる弦楽カルテット“ネコカル”と椎名本人のピアノだけのバッキングで、“椎名林檎と斎藤ネコカルテット”という名義になっています。

2016年(88歳)、映画「A Boy Called Po」の音楽を担当。
2018年10月12日、Elvis Costelloのアルバム『Look Now』リリース。3曲をコステロとコラボ。
2020年7月、ソロEP『Blue Umbrella』リリース。ソングライターでマルチ楽器奏者のダニエル・タシアン(Daniel Tashian)とのコラボ。
2023年2月8日、ロサンゼルスの自宅で老衰により死去。94歳没。

次回の爆音アワーは・・・

                        
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