【短期連載インタビュー Vol.1】wyseが語る第一期「二度も裏切られたような...孤独でしたね」

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wyseが5月20日および21日の2日間、東京・新宿BLAZEにて<wyse Live 2023「Clear Sky」>を開催する。同公演は2022年6月の<wyse tour 2022「Read Time」>Veats Shibuyaファイナルを最後にライブ活動を休止していたwyseのステージ復帰公演として実施されるものだ。

◆wyse 画像

wyseの活動周期にはいつも“6”という数字がつきまとう。たとえば、1999年の結成から2005年の解散までの第一期、解散後それぞれの道を歩んだ空白期間、2011年の再始動から2017年の事務所独立までの第二期、2017年の独立から2022年6月のライブ活動一時休止までの第三期。これらすべてが6年一区切りのスパンとして彼らの前に横たわる。

BARKSでは、wyseの第一期、第二期、第三期、そして未来の第四期について、メンバー4人にじっくりと話を訊く全4回の連載インタビューをお届けする。真摯に歩み続け、経験を糧としてきた彼らのバンド史は、まるで人生そのもののよう。そしてwyseサウンドの優しさと温かさの理由が伝わるテキストには、第四期への期待が溢れて輝かしい。連載第一回目は、第一期となる結成から解散まで。

   ◆   ◆   ◆

■足りないものもあったけど4人とも真っ直ぐ
■とにかくwyseは人と違うことをやろうって


──短期連載インタビュー第一回目ではwyseの第一期に焦点を当てて、今だから思うことを振り返ってもらいたいと思います。まず、結成は1999年2月14日。大阪を拠点に活動を開始したんですよね。

月森 : もう24年前ですね。

TAKUMA : このインタビューを読んでくださってる方の中には“あの頃ね”と思う方もいらっしゃれば、“1999年ってどんな頃?”ってピンとこない方もいらっしゃる...と思えること自体すごい年月ですよね(笑)。当時は今よりバンドの数も多かったし、その盛り上がりも高かった。全国各地のライブハウスに活気があって、ライブハウスから音楽が広がっていくような時代でした。

月森 : うん。ライブハウスが起点だったし、ライブハウスにもっと元気があった時代。

TAKUMA : そもそもは僕ら、大阪で活動していた2つのバンドのメンバーが「じゃあ、一緒にやろうか」って合体したんですが、当たり前ですけど若かった。保証されている将来なんて何もなかったけれど「wyseやってこうぜ!」って根拠のない自信というか、希望も期待もあったし、未来にキラキラしたものを感じていましたね。

月森 : 飲みに行っても基本、みんなで熱い話ばかりしてましたから。



──どんな話で盛り上がっていたんでしょうか?

TAKUMA : 方法論なんてわからないけど、「このバンドで成功しようぜ!」って。今の時代はあまり言わない言葉かもしれませんが、「音楽でメシ食っていくぜ」「上京するぞ!」って未来に夢を掲げていましたね。もちろん、足りないものもたくさんあった。ただ、4人とも真っ直ぐでしたね。

HIRO : 結成当初のことは、昔と言えども、すぐに思い出しますね。TAKUMA が言っていたように若さゆえのパワーがあって、勢いがあった。とにかくwyseは人と違うことをやろうって。

──他のバンドとかぶらない音楽性で勝負しないとって?

HIRO : そうですね。音楽然り、見た目然り、自分たちならではのスタイルを作っていこうってこだわりを持ってましたね。wyseってバンド名は造語なんですけど、“wise”(=賢い)から響きだけもらったんです。僕らが賢いわけじゃなくて(笑)、自分たちの個性を確立したい、というところから付けた名前です。その原点は今も変わってないんじゃない?

TAKUMA : 音楽面、ジャンル、スタイル、状況、パターン、良くも悪くもどこにも属せてないからね。

月森 : 本当に良くも悪くもなんですよ。もうちょっと、どこかの系統に寄っていても…(笑)。

──カテゴライズされていたほうが動きやすかったかも?

HIRO : もうちょっと賢かったらよかったね(笑)。

月森 : wyseらしさが強すぎたまま、ここまで来てしまっているので。

TAKUMA : 結成したばかりの頃のドラマー(NATSU)はすぐに脱退して、後に新しいドラマー(KENJI)が加入するので、5人から4人、また5人になって、4人に戻るっていう。第一期はメンバーの変動もありましたね。



──結成翌年の2000年になると、かなり精力的にライブ活動をしていますね。

MORI : ステージに立ちながら、体感しながら学んでいったのが第一期ですね。カテゴライズするのは周囲だと思うんですが、どこにも属さなかったのはオリジナリティがあるということ。だからこそ、難しい面もある。でもそれがwyseの武器だったのかなって。あの時代はたしかにライブの本数が多かったし、周りも機会を与えてくれた。wyseの存在を広めてくれる発信元はTVや雑誌で、現代とは真逆のアナログな世界だったのかもしれない。当時は環境の変化というスピード感に自分たちが追いついていくのに必死だった気がします。

TAKUMA : 上京して事務所に所属した当初は、スケジュールが全然埋まってなくて。「こんなことのために上京したんじゃないですよ」って社長に言ったりもしてましたね。そしたら「そのうち、そんな口が聞けないようにしてやるよ」って言われて、その1ヶ月後には「休みください」って言ってました(笑)。

月森 : ははは。本当に休みがなかった。

TAKUMA : 当時はインディーレーベルとメジャーレーベルに明らかに差がある時代で、僕らはまだインディーズだったけど、取材の有り難さを感じる間もないくらいの時間の中を動いてましたね。何の撮影なのかもわからずにメイクして、衣装を着て、4パターンか5パターンぐらい着替えて。気づいたら翌月の音楽雑誌にwyseの記事がいくつも載っていて、“えっ?”って驚くっていう。取材前に「どんな雑誌の取材なのか教えてほしい」っていうぐらいにバタバタで。後になって“もっと自分たちの中でちゃんと昇華できてたらな”って自らを省みましたね。それぐらい追いつくことに必死だったかな。

──音楽雑誌の表紙をバンドが軒並み飾っていた時代特有の現象だったんでしょうか?

TAKUMA : 年4回、全国ツアーに行って、ミニアルバムを3枚出してましたから。 ほとんど家に帰れませんでしたね。

月森 : しかもラジオのレギュラー番組も何本もやらせてもらってましたし。

TAKUMA : メンバー4人いてよかったなーって(笑)。

月森 : そうそう。ラジオ番組は2人ずつ2組に分かれたり、1人で出演してたり分散してたから少し助かった。

MORI : ところが、俺と月森で番組をやる、という考えられないようなことにもなっていて。

月森 : どっちもしゃべりませんからね(笑)。

──結成して2年も経たない2001年12月にはアルバム『the Answer in the Answers』でメジャーデビューを果たすわけですよね。

TAKUMA : そうですね。ツアーに何度も出て、ファンの方々がどんどん増えてくれるのを実感しながら、ずっとそうやって走って階段をひたすら上り続けていたから...。今思うと少し自分たち自身を見失っていたかもしれない。2002年の10thツアーと2003年のツアーはファイナルが渋谷公会堂だったんですけど、その後、SHIBUYA-AXでのライブが組まれた時「なんで今さらAXやらなあかんねん!」って社長に言ってましたからね(笑)。今、考えると全然いいのにね。

──当時は納得がいかなかったんですね。

TAKUMA : 要はライブハウスのキャパシティも階段を上るように進み続けてきて、もうずっとそうだったから、それしか知らなかったんですよね...。ON AIR WESTからON AIR EAST、AXから渋谷公会堂まで来たのに、「またAXに戻るの?」っていう印象をメンバーは持っていて。それも若さだったなって思いますけど。まっすぐに進むことしか考えてなかったから。メジャーデビューしてからもずっとそうでしたね。

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