【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第8回「水槽」

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整髪料で指通りの悪い髪を掻きむしる。プールサイドのざらざらとした感触が足の裏を伝って頭皮を不快にしたのだ。その手でステンレスのはしごを掴み、膜を張った水面に穴を空けるよう、ゆっくりと入水した。


水に触れたところの輪郭がぎゅうっと締め付けられ、水中と僕の間に明らかな境界を生む。これが水の冷たさによるものなのか、僕の温かさによるものなのかはわからない。けれどいま僕の身体は水中に受け入れられた部分だけが強く認識できるのだ。

それから大きく息を吸って、今度は頭を沈める。水は髪の毛の隙間をミミズのように這い、頭皮の熱すらも貪欲に奪っていった。耳の奥からはコーという細かいノイズが絶え間なく聴こえている。電車のブレーキ音を口の中で響かせたような、こもった音だ。外側の熱を奪いきった水は「まだまだ足りない」と、一斉に僕の内部へと手を伸ばす。はじめは各々でしがみついていたはずの無数の手が、次第にひとつの大きな手となって僕を絞め殺そうとしているようにも思えた。


口内には、もはや酸素とも言えない空っぽの空気がぱんぱんに詰め込まれていたが、それすらも圧迫に耐え切れず吐き出してしまった。僕の身体にはもう何も残っていない。あるのは血液中をめぐる少量の酸素だけだろう。そのことを意識すると今度は鼓動がどんどんと早くなり、そのせいで血液がいつもよりスピードを上げて全身を駆け巡っているのが分かった。



丁度休憩のチャイムが鳴り、プールサイドのベンチに腰を掛ける。身体中に重く響くリズム確かめながら、僕はその後のことを実に淡々と想像したのだ。




スピードを上げすぎた血液は丁度頭の位置で壁に激突して、強い頭痛に襲われる。一度乱れたコースでは後続する数えきれないほどの血液がクラッシュし、その度に頭を内側から殴られるような激しい痛みだ。

次の瞬間、自分の意志とは何ら関係なく、息を吸おうと口が開き、温かい口内に反応した大量の水は「遂に入口を見つけた!」と言わんばかりに粘膜へ吸い付いてくる。そして先程まで一体化していた手を解き、無数の小さな手に姿を変えて、我先にと奥へ奥へ入り込むのだ。



ここまで想像して、僕はその入り口を塞ぐように喉元をぎゅっと閉じた。誰かがぴちゃぴちゃと歩く音に耳を塞ぎながら、青くざらざらとした床に視線を落としては全裸のままで倒れ込む自分の姿を映す。まわりには水溜りができて、それは僕の身体に群がる死出虫のようにも見えた。




シャワーを浴びて車に乗り込むまでの一瞬の間で、両脇には既に新しい汗の染みができていた。それらを乾かすように窓を開けると、スピーカーから流れる多彩な音が外気に触れる毎に真っ黒に焦げ、一律にゴーっという音を立てて消えていった。色彩を失った音の残骸がパラパラと風に舞うのを想像して「もったいないな」と思い、その焦げ臭い(実際のところは海臭い)においに包まれながら、いつもより緩めにアクセルを踏んだ。


多くの命を奪った黒い海を横目に車を走らせていると、そのsin cityの波間から無数の手が出てくるような気がした。精子が卵子の中に我先にと入り込むように、僕の立派なハードウェアめがけて、いくつもの魂が生を勝ち取ろうとするのではないか、そう思うと少しだけ怖くなり窓をぴったりと閉めた。スピーカーからはBlinding Lightsが流れていた。



こんなことを考えるような心当たりは確かにあった。初めて水中で冷たい手が苦しむ僕の中に入り込もうとしたあの日、生を勝ち取った瞬間のことを本当に少しずつだけれど思い出したのだ。そして記憶の断片を探すように、僕は何度でも水の中に沈んだ。




僕がこんなに立派な形をもらうずっと前、柔らかいものに包まれているだけの頃。それは後にも先にも僕が一番賢かった時のことだ。当てもなく広がる暗闇にひとり漂い続ける途方もない時間と、音も手触りもない虚無に対する恐怖。そこに自分以外のものがいきなりふっと現れた。形もない、意味もない、けれど確かに存在だけがあるものだった。


虚無が、0が1になったその瞬間、僕はやっと現れたそいつを誰とはなしに奪い合い、勝ち取ったのだ。そしてようやく繋がった自らの意識を手放さないように、内側から思いっきり殴った。恐怖に溺れてこの手を離さないように、諦めないように鼓舞し続けた。とてつもなく長い間。それはやがて鼓動となり、遂に僕は僕の意識を、僕の生をこの手で強く抱きしめたのだった。


「ああ、そうか、やったんだ…。やってやった…。」そううなずきながら、この顔は制御できない程くしゃくしゃと縮こまり、次の瞬間には大声で泣いた。

それが僕の産声だった。



自分の外側が分厚くなる度に、内側が複雑になる度に、徐々にそのことを忘れていったのだ。

そうだ、そうだよ。僕はこの手で掴んできた、生を勝ち取ってきたんだ。だからこそわかる。

あの時の僕がそうだったように、この身体はいつでもそれらに狙われているのだと。

例えば水の中から。







リーガルリリー 海

スリーピースバンド、リーガルリリーのベーシスト。国内のみならず、カナダ、アメリカ、香港、中国といった、海外でのグローバルなライブ活動も行い、独創的な歌詞とバンドアレンジ、衝動的なライブパフォーマンスが特徴。ドラマParavi「隣の男はよく食べる」主題歌の新曲「ハイキ」を含む、5曲入りミニアルバム「where?」を5月24日にリリース、7月2日にはバンド初となる日比谷野外音楽堂公演を行う。

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