【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第9回「塵箱」

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猛烈な尿意で目が覚めると肥大化した瞼が視界の三割を占めていた。水分でたぷたぷの身体を運んでなんとか便座に座り、その量に反して濃厚な尿を誰に見せるでもない適当な顔で垂れ流す。膝に頬杖をつきながら出し切ると少しばかり浄化された気がした。手を洗おうと鏡の前に立つと、なんともふてぶてしい女が映っている。目やあごの周りに昨日の水分が集まり表情が埋もれていて、しまいにはぼさぼさの髪に目ヤニをつけた女。寝起きとは言えひどい顔だ。



「6週目ですね。悪性なのでできるだけ早く腹を切りましょう。やり方の紙と切開キットは受付で渡すので帰りに受け取ってください。はーい、ではお大事になさってください。」


彼への「疑念」を孕んでから6週目になるらしい。確かに心当たりはあった。身体はまだこの生き物に適応していないのか気持ち悪さが抜けないし、そのせいでホルモンバランスもガタガタだ。病院でもらった紙には、一度孕んだそれは私の負の感情を栄養として日々成長していると書かれていた。十月十日でするっと生まれてくれればいいのだが、そうもいかないみたいで、それを越えても大きくなり続け、いずれは腹がはち切れて母子ともに命を落とすことになりかねないとも書いてあった。



覚悟のできないまま一通りの準備を済ませて真っ昼間のベッドに横になると、自分だけが取り残されているようで大抵悪いことしか思い浮かばない。これが本当に二人の愛の結晶だったならどれだけよかっただろう。けれどそんな想像をしている暇もない、私はこの気持ち悪い生き物を身体から追い出すために一刻も早く腹を切らなければならなかったのだ。

STEP.1 麻酔
STEP.2 下腹部の切開
STEP.3 取り出し
「腹を括り、一思いに腹を切りましょう!」
どうやら特に詳細もなく、結局のところ気持ちでいくらしい。



ああ、なんて厄介なものを孕んでしまったのだろう。彼の言葉や表情を何度も思い返す。間違い探しのような粗探しのような、とにかく矛盾をすべて炙り出して麻酔の様にこの身体に打ち込んだ。なるべく痛くないように規定量よりも多めにしたからか、それだけで気が滅入りそうになる。

清潔に包装されたメスを手に取り下腹部にあてると、実際の感覚と視界から得られる情報の差で不思議なくらい冷静だった。それから自らの手で腹の中を探っている最中、これがいかに彼ではなく自分との闘いであるのかを思い知った。



元気な産声を上げたのは赤黒くデロっとしたゼリー状の生き物だった。世界で一番可愛くない生き物だ。


 配られた紙通りとまではいかないが、何とか最低限の縫合をして身も心も疲れ果てたまま、隣に寝かせた生き物をぼーっと見た。達成感なんてものは微塵も感じない。ただ、気持ちの悪いそれを見ていると段々と憤りに支配されそうになるだけだった。


自分の中にこんなものが隠居しているとなぜ思い知らされなければいけないのだろう、なぜ穏やかで大人で物わかりのいい私で居させてくれないのだろう、そんなことばかりが頭を巡っている。あんな人に振り回されて、誰も私を支配して良いわけがないのに。脳内の独り言が過激になる度にマットレスを殴った。バネが共鳴してヒーンという音がなり、それが耳障りで大げさに舌打ちをしてから、隣で眠る気持ちの悪い生き物をビニール袋に入れて台所のゴミ箱に捨てた。




次の日は恐ろしいほどに晴れていた。布団は部屋の中にあるのに太陽の光を浴びてふかふかと温かい香りをさせていたし、窓際に吊り下げたサンキャッチャーは四方八方に、品のないくらい色の濃い虹を作った。


リビングに行くと昨日の空気がまだ充満している。具体的に言うと昨日産まれた生き物の死骸が生臭かったのだ。窓を開けて換気をしながらビニール袋を二重にしていると、この手に持った生き物の死骸が燃えるゴミなのか、燃えないゴミなのか一瞬わからなくなった。ああ、けど昔庭で生まれた子猫の死骸をおばあちゃんが燃えるゴミに捨てていたから、多分これも燃えるんだろうな。暑くなってきたから虫が湧かないといい、そう思いながらゴミ袋の口を縛った。


一昨日食べたカップラーメンの容器もそのままだったので、スープを流して捨てた。これはいずれ海に向かって魚を何匹か殺すかもしれない、そんなことよりも小さな肉片がシンクに散らばったのが嫌だった。私がした悪いことなんて、せいぜいこれくらいだ。これくらいのもんなのに。人知れず傷のついた下腹部に手を当てて少しだけ泣いた。



外に出てみちみちに詰まった袋をゴミ山のてっぺんに向かって放り投げる。それから数日ぶりに髪を洗って化粧をした。クマが隠れる度に、瞼がキラキラする度に、昨日から遠ざかれる気がして夢中で鏡に微笑んだ。


部屋が綺麗になって、私も綺麗になって、全部無かったように新しい朝がはじまった。みんなそうやって幸せを待っている。







リーガルリリー 海

スリーピースバンド、リーガルリリーのベーシスト。国内のみならず、カナダ、アメリカ、香港、中国といった、海外でのグローバルなライブ活動も行い、独創的な歌詞とバンドアレンジ、衝動的なライブパフォーマンスが特徴。ドラマParavi「隣の男はよく食べる」主題歌の新曲「ハイキ」を含む、5曲入りミニアルバム「where?」を5月24日にリリース、7月2日にはバンド初となる日比谷野外音楽堂公演を行う。

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