【鼎談】柴山“菊” 俊之×首振りDolls、日本ロックバンドの草分け的存在による薫陶「バンド、キツかろう?」

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令和という時代に音を掻き鳴らすバンド首振りDolls。メインコンポーザーであるドラムボーカルのナオとギターのジョニーは、現代のロックシーンに身を置きながらも、自らが生まれ育った九州が生んだロックバンドへの強い憧れと尊敬は、今も覚めやることはない。

今回は、そんな2人の原点とも言える、日本のロックバンドの草分け的存在サンハウスのボーカリストであり、Zi:LiE-YA、Electric Mud、BLUES LION、Rubyなどのバンドを率いるボーカリストであり、作詞家としての顔を持つ地元の大先輩・柴山“菊” 俊之をゲストに招いて鼎談を行うことになった。

九州から上京するときに、本棚から大切に抜き取って持って来た柴山の自伝を毎日読み返しながら初の対面を心待ちにしていたというナオと、嬉しさのあまり前日一睡も出来なかったというジョニー。そんな2人に、憧れの“菊”がかけた言葉とは?

◆鼎談写真&映像


――サンハウスは2人の憧れであり、今もこうしてバンドを続けていられる原点となっているバンドでもあるので、憧れの“菊”さんを目の前にして、放心状態です(笑)。

柴山:何をそんな。

ナオ:いえ、本当に。かなり緊張してます!(※鼎談後、柴山さんが帰られた後、“うわぁぁぁ。菊が居た、、、!”と悶えていた2人でした)

ジョニー:本当に、鼎談受けて頂いてありがとうございます。

ナオ:本当にお会い出来て感激してます。

柴山:そうか(笑)。

ジョニー:はい! 俺、小倉で、人間クラブの南浩二さん(※日本のロックバンドの草分け的存在である、ルースターズの前身バンド人間クラブのボーカル)がやっていらっしゃったバーによく通っていたんです。

柴山:俺も南のやってるバー、一回行ったことあるよ。

ジョニー:あ、本当ですか!? 俺、そこでサンハウスを初めて聴かせてもらったんです! “お前、サンハウス知らんのか!? 聴け!”って、叱られて(笑)。

柴山:あははは。無理矢理聴かされた?

ジョニー:いえ! “サンハウスは絶対に聴いとけ!”って、いろいろ教えてもらいました! そこからもぉ、俺はずっとサンハウス好きなんです!

柴山:ありがとう(笑)。いい奴だったよね、南(※2010年9月11日に脳出血のために死去)。

ジョニー:はい! 南さんもめちゃくちゃ尊敬してました! もちろん、柴山さんのこともめちゃくちゃ尊敬してます!

ナオ:俺も柴山さんのこと憧れなんです! 俺が長髪にしたのも柴山さんに憧れてだし、ステージ衣装で着物着てるんですけど、着物を衣装にしたのも柴山さんの影響だったりするんです。歌い方というか、声もそうで。もともと声が高いんですけど、それが自分的にも嫌で、柴山さんみたいに歌いたくて頑張って真似て歌ったりとかしてたんです。

柴山:あ、そうなの?

ナオ:歌詞を書くときも、毒を持って書く意識をしたのも、柴山さんへの憧れからなんです。柴山さんの書かれる歌詞って独特なので。

柴山:いやぁ、そんなことはないよ。普通と思うけどね。でも、当時はフォークが流行っていたんだよ。チューリップとか井上陽水とか。フォークが全盛の頃だったからさ。フォークの歌詞ってだいたいあんな感じになってしまうというか。自分はブルースバンドをやっていたんだけど、日本でマディ・ウォーターズみたいに歌っている人は居なかったから。そこまで考えて書いていた訳ではなかったけど、他のバンドと同じことはしたくなかった。深くは考えていなかったけど、逆にそれが良かったのかもしれない。

ナオ:「キングスネーク・ブルース」の歌詞をカッコ良く歌えるのは、本当にそういう人じゃなくちゃ歌えないだろうなって思うんです。

柴山:そんなことないよ。俺はあんな人じゃないから。まぁ、うん、あんな人じゃないと思うよ、たぶん(笑)。自分では分からないけど(笑)。でも、ああいう歌詞が好きなんよ。本当の自分じゃなくてもいいから、スタイルとして魅せるときに分かりやすいというか。自分を鼓舞して大きく魅せる感じ。自分自身と蛇というダブルミーニング。そういうのはブルースの基本でもあって。ただ、それを幼稚だって言われたりもしてた。


ナオ:あぁ、そのお話、柴山さんの自伝『菊の花道』にも書いてありましたよね。

柴山:そう。嫌われていたからね。サンハウスというバンド自体が。当時バンドと言ったらサンハウスくらいしかなかったから。本当に周りはフォークだらけだった。ハコのバンド(※ダンスホール専属で演奏していたバンド)くらいしか居なかったから。俺たちも最初はハコバンだったから、ハコバンを毛嫌いすることはないっちゃけど、途中でハコを辞めて、米軍キャンプでずっと演奏するようになったんだよね。それがバンドにとってはすごく良かったと思う。佐世保とか板付とか、海の中道にも米軍キャンプがあったから。金土日はずっと出てた。そこでの経験がすごく勉強になってた。

ジョニー:どれくらいの本数やられてたんですか?

柴山:45分ステージやって15分休憩して、っていうのを7本。3日間連続で。

ジョニー:す、すげぇ。

柴山:最初はすぐに声が出なくなった。2日目でもう声が出なくなって、3日目までなんとか歌い切って、翌週金曜日までに喉治して、また週末ステージをする。それの繰り返しだった。

ナオ:すごいですね。イベントを1バンドでやってるみたい。

柴山:それで喉も強くなったのかもしれんね。でも、その頃は、自分達のレコードを出すっていう頭は無かった。

ナオ:ライヴをやることで音楽を続けていたいってとこだったってことですか?

柴山:そう。大学に行ったのも就職したくなかったからだったし、大学卒業したら就職しなくちゃいけないから、それが嫌で結局7年通ったし。親がものすごく厳しかったからさ。

ジョニー:そうなんですね!

ナオ:そういえば柴山さん、中学生の頃はめちゃくちゃ悪かったとか(笑)!

柴山:子供の頃ってのは大概悪いでしょ。誰でも。俺も悪かったね、中学の頃までは。

ナオ:柴山さん、ご出身が天神ですもんね。悪くない訳がない、みたいな(笑)。

柴山:そう。土地柄的にね。ガラ悪かったから。先輩達もそういう人達ばっかやったから。でも、高校の頃に音楽が好きになって、そこからは音楽に夢中になった。そこからは更生したね。音楽に救われたと思うよ。きっとあのまま悪かったら、今頃ここに居ないかもね。先輩の鉄砲玉みたいになってたりして死んでたかも。それか、刑務所とか入ってたかも。当時、音楽やってる奴は不良って言われよったけど、俺は音楽に出逢って真面目になったみたいな感じやったから。

ジョニー:おぉ。いい話ですね!

ナオ:柴山さんが長髪になったのはいくつくらいの頃なんですか?

柴山:高校卒業したくらいじゃなかったかな。最初に行った高校は1週間くらいでクビになっちゃって。その後に行った高校は剣道の強い高校で。俺、小学生の頃から剣道をやっていたから、それでダブることなく6月から入学させてもらえて。その高校を卒業するくらいに長髪になってた。

ジョニー:柴山さんは最初からボーカルやったんですか?

柴山:いや、俺は最初ドラム。ドラムがしたかったからね。でも、ボーカルが辞めて居なくなっちゃって、それで先輩に言われて歌わされることになったんよ。そこから歌うようになった。だからドラムは1年くらいしかしてない。歌うのは、最初ものすごく嫌だったけどね。周りからも“ドラムの素質があるから、ドラムをやった方がいい!”って言われてたけど。まぁ、流れで歌うことになっての今だね。ロックと歌謡曲のリズムは違うから、ロックを歌うには、ドラムを経験していたことはすごくプラスだったと思う。出来ることなら、ボーカルはドラムを経験したほうがいい。リズム感が良くなるから。

ナオ:ドラマーからボーカルになった方って、何気に多いですもんね。

柴山:そうかもね。俺は本当に最初の頃、歌うのめちゃくちゃだったけど。

ナオ:いやぁ、柴山さんみたいに歌いたくて憧れたんですから! あんなに独特な歌い方なさる方って本当に他に居ませんから。あの、歌詞の話に戻ってもいいですか? 毒々しさをそこまで意識させていなかったっておっしゃってましたけど、本当に全くですか?


柴山:最初は意識していなかったけど、ドアーズのボーカルだったジム・モリソンの歌詞に影響されているところはあった。16歳の頃だったかな、世の中的にグループサウンズみたいなのが流行っていて。その頃に、ジム・モリソンが、“自分はポップスとかではなく、独自の世界観を追求した楽曲と歌詞で音楽をするんだ”って言ったっていうのを聞いて、そこに感化されたのはあったかなと。ジム・モリソンとか好きだったから、好きだった人の影響を受けたというだけで、特に毒々しい音楽をやりたいと思ってやってた訳ではなかった。サンハウスをしていたときも、日本語で歌うロックをやる人達がそう多くは居なかったけども、居なかった訳ではなかったから、よく似た歌詞で歌ったり、よく似たことをやったりしても面白くないし、全く目立たないと思ったから。とにかく人と違うことをやろうと思っていろいろとやってただけで。ただそれだけだったんだけど、それが良かったんじゃないかと思っているけどね、自分を駆り立てる意味でも。俺、恥ずかしがり屋だから。

ジョニー:え!? そうなんですか!?

ナオ:めちゃくちゃ意外です!

柴山:いや、そうだよ。恥ずかしがり屋だし、あがり症だから。もともとステージに上がったりするときは、毎回緊張していたし。今でもその緊張は毎回あるからね。柴山俊之としてステージに上がっても、最初の頃はなかなか独自のキャラクターを作れなくて。それもあって、柴山俊之が、“菊”というキャラクターに指示する、という感じにしたというか。そうやって自分を切り替えていかないと出来なかった。そうやって自分のスタイルを作っていったんだよ。当時、着物着たりしてステージに立ってる奴が居なかったから、珍しかったんだと思う。最初は全然だったんだけど、突然人気が出た感じだってさ。ずっと嫌われ者だったからね、福岡で。ライヴとかしても誰も来ないし。でも、そんな中、突然お客さんが来始めたんよ。

ジョニー:何かきっかけがあったんですか?

柴山:きっかけは、女子高生。こんな言い方したらなんだけど、お嬢さんが行くお嬢さん学校の学生が、突然ライヴに来始めて。きっと、フォークが流行っていて、そこに飽きたんだろうね。ちょっと違うモノに手を出してみたいと思った文学少女達にハマったみたいで。たまたまそういう子達が、俺みたいな奴を見て、面白かったんじゃない? 自分達の上流家庭には無い刺激があったんだと思う。本当に突然、びっくりするくらい来始めたんだよ。

ジョニー:ほぉ。

柴山:そう仕向けてやった訳じゃなかったから驚いたよ。そういうのって、やろうと思ってやるものじゃなかったりするからね。サンハウスもみんなが着物を着ていた訳じゃなかったし。俺以外のメンバーは普通の格好をしていたから。そう思うと変なバンドだったなと。

ナオ:いえ! そこがカッコ良かったんです!

柴山:そう(笑)? 首振りDollsはバンドとしてなんとなく統一したイメージがあるけど、サンハウスは本当にバラバラだった。俺はグレイトフル・デッドとか好きなんやけど、デッドのような、Tシャツに破れたジーンズを着てるようなアメリカの暗いバンドみたいな感じのところに、1人ド派手なグラムロック的風貌の奴が居たって感じだったから。結構大変やったよ。

ジョニー:ほぉ。でも、それがカッコイイと思えるんです。誰もが出来ることじゃなかったと思うから。

ナオ:うん。絶対そうだよね。女子高生がサンハウスを見つけて集まってきた時期と米軍キャンプで演奏していた頃は同じ時期なんですか?

柴山:いや、違う。米軍キャンプの時期はその前だった。ブルースを辞めて、日本のロックを歌うようになった頃は、もう米軍キャンプは無くなっていたからね。米軍キャンプのときに本当に鍛えられたなって思う。ただのコピーだったら兵隊さん聴いてくれずに帰っちゃうからね。俺たちがそこで演奏する理由として、お店に入って来て兵隊さん達が呑みながら演奏を聴いて、そこに長く居て、お酒をたくさん飲んでくれることだから。演奏に興味持って貰えなくてお客さんが帰って行っちゃったら、俺たちがそこで演奏する意味がない。でも、なかなかお客さんを引き止めることが出来なくて、いつも店はガラガラで。オーナーにいつも怒られてた。

ジョニー: はぁぁ、、、、、。そんな感じだったんですね。信じられないなぁ。

柴山:そこにはゴーゴーダンサーっていうのも居て、その人達からも、“もっとこうした方がいいよ!”とかいろんなアドバイス貰って、試行錯誤して。でも、やりたくないことはやらなかった。やりたいことだけをやるようにして。相手は米軍の兵隊さんだから英語しか通じないんだけど、だんだん英語でMCしなくても音だけで喜んでもらえるようになって。日本人の前でやったらウケないかもしれないけど、米軍キャンプならではのノリみたいなのを掴んで、お客さんを楽しませられるようになっていったね。

ナオ:柴山さんはレコードデビューというのは、全然考えていなかった感じですか?

柴山:全然考えていなかった。東京にも行ってなかったし、ずっと福岡にいたし。さっきも名前を出したけど、グレイトフル・デッドみたいに、地元を大事にしている音楽をやりたかったから。福岡から発信する形でやろうと思っていたんで。誘ってくれたレコード会社もあったんだけど、俺たちが断固として東京に行かないって言ってたから、諦めてた。昔は今と違って東京に行かないとレコーディング出来なかったからね。そんな中で、最後まで粘り強く残って誘い続けてきたレコード会社がテイチクで。

ナオ:それでテイチクからデビューされたんですね?

柴山:いや、テイチクっていう名前が嫌でさ(笑)。レコード会社の人に“低脳”“蓄膿”みたいだから嫌だ。名前が気に入らないって言って(笑)。

ジョニー:えぇぇぇ(笑)!?

ナオ:あははは。それすごいですね(笑)! 書けないかな、そこは。

柴山:いや、書いてもいいよ、本当にそういう会話があったんだから。そしたら担当の人が、“だったら、サンハウスのためにブラック・レーベルっていうレーベルを作るので!”って言ってくれて。まぁ、だったら良いかって。それでデモテープを録るために東京行って、そのついでに日比谷野外音楽堂でライヴして。裕也さん(内田裕也)のライヴに、名前も何も告知せずに飛び入りで出してくれたんだよ。そんとき、イエローとか近田春夫とかCharとか、いろんなバンドが出てて。俺たちはそんな中、無名のバンドだったからね。そこにはたくさんのレコード会社の人間も観に来てて。

ジョニー:いきなり日比谷野外音楽堂でライヴですか?

柴山:そう。でも、めちゃくちゃだったと思うよ、演奏とか。リハーサルもなんもせんと、いきなり飛び入りだからね。

ナオ:いや、でも、ハコバンとか米軍キャンプで鍛え上げられた柴山さん達だったら、絶対にそこに対応できる力があったはず! カッコイイなぁ、その瞬間、観たかったなぁ。

柴山:とにかくウケなくてもいいから、自分達の存在を残そうと思って必死でやったからね。相当だったと思うよ。お客さんに向かっても、かなり酷いことしたしね。

ナオ:酷いことってなんですか?

柴山:罵倒したり。それも虚勢を張るみたいなもんよ。ウケんかったら恥ずかしいから。喧嘩して負けるのが嫌だったから。そこで不良だった過去がちょっと役に立ったのかもね(笑)。ハッタリだけで30分くらいのステージをやって。30分くらいだったらハッタリでも保つからね。

ジョニー:あははは。

柴山:何回も使えない技だけど(笑)。でも、そのときは勢いもあったんだろうね。テイチク以外のレコード会社が、ウチが声かけて引っ張れば良かったって、悔しがってたって聞いた。

ナオ:なるほど! それほどまでに素晴らしいステージだったんでしょうね!

柴山:東京の目ぼしいバンドからメジャーレーベルは声をかけていってたからね。わざわざ福岡の俺たちに声をかけるっていうのは後回しだったんだと思う。だから、見つけてもらったのも、運だったと思うよ。当初なんて自分達でPAとかも使いこなせていなかったから、音とかだってめちゃくちゃだったと思う。感覚でしかなかったから。

ジョニー:いやぁ、またそこがカッコ良かっただろうなぁ。その感覚が独特だったんだろうから。

柴山:とにかく、他と違ったんだと思う。俺は、よくステージで上半身裸になっていたけど、当時そんなパフォーマンスをする日本人バンドはあまり居なかったからね。そこがすごく目を引いたというか。

ジョニー:東京にはそういうバンドは他に居なかったんですか?

柴山:どうやろね? 居たのかもしれないけど、俺はとにかく“菊”を演じていたから。そこまで行ききったバンドはいなかったかもしれんね。最初にも言った通り、すごく恥ずかしがり屋なのに、もうその頃には全く恥ずかしさはなくなっていた。とにかく、最初の頃「キングスネーク」を歌うのとか本当に恥ずかしかったから。

ナオ:え〜っ!? 恥ずかしかったなんて、全然そんな風に見えないです!


柴山:昔はよ。“菊”って名前にしてからは恥ずかしくなくなったから。恥ずかしくて照れがあるうちは、見ててカッコ良くないんだよ。行ききってしまわないと、見てる方はそこに入り込めない。お客さんを惹きつけるには、自分が自分じゃなくなるくらい演じきらないとカッコ良くない。ステージの上でしか見れない“菊”に、お客さんは逢いに来るんだから。

ナオ:おぉぉぉ。たしかに。現実逃避させてくれる場所ですよね、そこが。お客さんにとっても、柴山さんにとっても。

柴山:そうだね。だんだんと学校から、サンハウスを観に行くなって言われるようになっていったからね。

ナオ:うわぁ。すごい! ロックバンドらしいエピソードですね! カッコイイ!

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