とてつもなくドラマティックな城だ。こんな場所に建ててしまうセンス、そして武田氏滅亡の最後の城とあってすべてにおいてドラマティックとしか言いようがない。この城は「崖城」そう言ってしまおうか。卓偉は売れないので常に「崖っぷち」そう言ってしまおうか。

築城は1581年、8ヶ月という超短期で築城し、わずか68日で燃えてしまったこれまた幻の城なのである。山梨県にもいい城はたくさんあるが大抵が武田氏の支城と言っても過言ではない。武田信玄公はとにかくクレーバーな天才武将、もしもっと長生きしていたら信長公もあそこまでわがままに進めなかったはずだし、信玄公の甲斐の国(現在の山梨県)の城下町計画はもうひとつの京都を作ろうとしていたと言ってもこれまた過言ではないのである。そうだと考えると京都と山梨は周りが山に囲まれている盆地、その山が最大の防御となるし、どの方向にも攻めれるし逃げれるという作りは非常に理にかなっている。それをイマジンしただけで面白い。信玄公も出は田舎者の武将、都に対する憧れもあり、京都出身の正室をもらうなど都の影響をいかに自分の町に活かすかを考えていたとされる。(しかし山梨は夏暑いさね、暑過ぎるさね)


もしこの盆地に京都と同じように都クラスの街が出来ていたら、日本の歴史もまた変わっていたであろう。そんな信玄公は家系においての確執が絶えない人であった。自分の両親と揉め、跡継ぎ問題でも揉め、そういったことが上手く運ばなかったおかげで武田家は信玄公が亡くなった後、特に跡継ぎ問題で路頭に迷うこととなる。そんな信玄公亡きあとの武田家をなんとか支えてきた武田家最後の武将、武田勝頼が築いた最高な城、武田家の最後の城、新府城なのである。タイムリーで言うところの氷室京介LAST GIGSに近い、とも限らない。武田家の魂を抱いてくれ、むしろ、逆に、魂を抱いてほしい。

まずこの城の魅力を伝えると、建ててる場所が凄い、これに尽きる。卓偉、腰抜かすくらい歌が上手い、これに尽きる。新府城は断崖絶壁の上に城を築いているのである。まさに自然の力を利用した築城であるが、この場所に建てるセンス、心意気に拍手である。

城を築城する場合は家来がいくつかの場所をロケハンし、地図を作成、場合によっては模型的なものも作らせ、殿にプレゼンし、そこでGOサインが出たら築城が始まるというケースが主なのだが(もちろん殿本人が場所まで指定して作らせる場合もある)この場所を提案した勝頼公の家来はすごかセンスやね。「お前でかした!」と勝頼公も言ったと思う。私の現場マネージャー砂田一成も私が「カズ!でかした!」と言えるような大きな仕事を繋いでくれないかとずっと思っている。ずっと思っている。ずっ~~~~~と思っている。

崖の下には釜無川、これを天然の堀とする。断崖絶壁である七里岩が最大の土塁、最大の壁の役目を果たす。この街周辺は崖の上と崖の下の二段の平地が続いており(上の段がダリル・ホール、下の段がジョン・オーツ)崖の上にあった小高い丘に目をつけ、そこに城を築く事によりかなりの防御が見込めると判断したのであろう。


日本にもこういった場所に建てられてる城もなくはないが新府城ほどの規模を持った城はない。それをドラマティックと言わず何と言う。格好良過ぎる。はっきり言って城マニアとして実は平城は物足りない。山城は住むのに大変だったのもわかる。だからこその中間の平山城が無難なところかなと思うが、この城は平山城+崖が入ってくるので、これはもう崖城と呼びたい。崖城認定!


子供の頃兄貴が持っていた城の本に掲載されている写真を見て、行ってみたいなあと思いを馳せていたが、この新府城も最高な上空写真があり、これがもう興味をそそらずにはいられなかった。何でこんな崖に城が建っての~~~~????とテンションがMAXになった。MAXと言っても今日の気分は「セーブンティーズ!恋は一途」の方で行きたい。城の本の上空写真、これ結構好きです。いいアングルなんすよね。あっ、その角度?みたいなね。あっ、それは全体見渡せちゃうよね!みたいなね。次はちょっと舐めてみよっか!みたいなね!OK!じゃあ次は霧吹きかけてもいいぜ!みたいなさ!うんうん!もっと雫がほしいか……な!みたいな?

見学するにあたって、まず絶対通ってはならない道をお伝えしたい。それはまず、埋め立てた堀跡に作られた砂利の駐車場に車を停めた場合、国道を城方面に軽く下ると(旧甲州街道)右手に石段が見えてそれを登ればいきなり本丸に到達出来るようになっているが、これ、当時ないから。後付けね。しかも本丸にある神社参拝用の石段だから、これはね、歴史と関係ないんで。なので当時はこの石段の場所は道も無く土塁だったと思ってほしい。

そのまま通り過ぎ、大手の方から回って三日月堀を目指す登り口から城に入城してほしい。ここが本来の城の正面玄関なのである。三日月堀はその名の通り、三日月の形をした馬出しの外に作られた堀である。コンバースのジャックパーセルのスマイルラインと瓜二つだ。土砂でずいぶんと浅くなってしまっているが、当時はもっと深かったであろう。大手口のインパクトとしていきなりこういう形のした堀があることがナイスセンスだ。三日月の形をしたおかげで馬出しも丸馬出しという呼び名になっていることもうなずける。その先に虎口が二つあり堂々とした大手門の跡である。土塁の崩れもあるが構えとしては威圧感が十二分に伝わってくる。


そこから先へ進むと右手にはもう一つの門跡もある、ここもある意味大手と言えたのかもしれない。下れば国道に出る。大手を囲むようにすでに三つの登り口があることにも注目したい。卓偉が曲も詞も書けて、アレンジも出来て、楽器も弾けて、楽曲提供もして、自分の曲は売れない、ファンも増えないことにも注目したい。むしろ、逆に、卓偉を抱いてくれ。

本丸を目指して進むと目の前にも土塁が立ちはだかる。ここには二つの曲輪が並んで存在する。右手が東三の丸(サイモン)左手が西三の丸(ガーファンクル)である。この二つの曲輪も土塁で囲まれているが端に通り抜けれる場所が作られているのが素晴らしい。外からは見えない作りになっているのがナイスセンスだ。城の東側(崖と逆側)に国道が通り、そこから神社の出入り用の通路なのか城に登れる車専用の道が新たに作られているがこれも当時はない。そこに惑わされないようにお願いしたい。城はとにかくイマジンが大切なのである。見えるものだけで判断してはならない。見せられたものだけで納得してはならない。私のレコードを聴く前に私を判断してはならない、私のアーティスト写真だけで私の性格を判断してはならない。私のライブに来て、私の生歌を聴き、私のライブパフォーマンスを見て判断しなくてはならない。あっ!この人は本物だ!ってか!お願いだから、確実に卓偉の魂を抱いてくれ。

そのまま先へ進むと二の丸に入る前にもまた一つの曲輪があるがここも虎口だったことがわかる、が、その道が虎口を壊して崖側に突き抜けてしまっている。その道を見ずにこの土塁をよく見てもらえればここが二の丸に入る虎口の門跡だったことがわかってもらえるはずだ。更にその道は右に曲がり、本丸へ突き抜けて行く道順になっているがこれも当時はない。虎口を超えたら右手に二の丸の入り口の門跡が表れる。そこを潜ってほしい。広く開放感のある二の丸がそこにある。左手は崖である。実はこの城は本丸からよりも二の丸からの眺めが最高だったんじゃないだろうか?二の丸は全方向に出入り口がある。この二の丸はさすがである、来客を通すにも、敵を追い詰めるにも、自分達が逃げるにも、すべてに働く素晴らしい二の丸だと言える。本丸方面に歩くと土塁の間に門跡があるのでそこを潜り、本丸の虎口へ進んでほしい。

そこには正方形のただただ広い、卓偉の心と同じくらい広い本丸が存在する。天守はなかったとされるが、コーナーの土塁も結構大きくそれなりのスペースを持っているので物見櫓は角に四つほど存在したんではないだろうか?おそらくここに御殿があったとされる。本丸を囲む土塁の上に登れば眺めも最高だ。


さて、ここからの戻りが新府城の面白さのひとつである。もう一度本丸の虎口に戻り、二の丸を横切り、搦手方面に進むと途中にどでかい蟻地獄のような井戸跡がある。生活する上で水の確保は鉄板だ。今は卓偉の才能のように埋もれてしまっているが、発掘調査ではどれだけ掘っても水が出て来なかったらしいので当時は崖の下の平地と同じとこまで掘って(いわゆるジョン・オーツまで掘って)釜無川の水を横から流し込んでいたと推測。素晴らしい。井戸を超えると搦手の桝形虎口、空堀、水堀が表れる。ここの発掘調査と土塁の復元のディティールは素晴らしい、拍手である。搦手門の基礎石などリアル感が満載である。凄いのは左手は全部崖、にも拘らずこの場所にも堀が存在すること、どんだけ防御すんだ!仮にこの崖を敵が登って来たとして(登れるわけないし登る気にすらならんが)やっとの思いで登った先に、こんな上にも水堀があんのかい!と突っ込みたくなる。この水もやはりその井戸から水を引っ張って堀に流したんではないだろうか?いやそれはさすがに無理があるか、などとイマジンするともうたまらない。

搦手口の最後の土橋は渡るにマジで怖い。これは高所恐怖症の人はビビる。何故ならば両サイドが水堀と断崖絶壁なのである。まったく笑ってくれない氷室さんと布袋さんの間に挟まれて写真を撮らせてもらうのと同じくらいに生きた心地がしない。

よくよく考えてみると新府城、現在はこの搦手口の方が見学の見所が満載である。そこから駐車場方面に堀に沿って歩いて行くと、土塁が出っ張っているのがわかるが、これが新府城の一番の見所である「出構」である(でがまえと読む)。現在は出構はこの外堀に二つ存在する。機能については諸説あるが、堀を渡ろうとする敵を打ち払う為の射撃陣地と言ったところだろうか。まるで能舞台のようである。


この堀は現在の国道まで全部城を覆っており、城の東側は水堀だったことがわかっている。東側から攻められても敵を崖に追いやることも出来る。非常に良く出来た設計だ。長野県の小諸城もそれに近いが手前に堀はなかった。どうしても石垣がない城なので城の評価が今ひとつ上がらない新府城だがそれは違う。68日で焼けてしまった城とあるが、まだまだ未完成だったのである。住み始めて68日だったというだけで、ここから更に発展していくはずだった新府城なのである。徳川家康公も北条氏を攻めるにあたって廃墟となっていた新府城に入り陣を張ったこともある。山梨は江戸時代に甲府城を中心とし治められていたが、家康公がこの城跡を継続させて山梨を治めさせなかったことを考えると、やはり城のレベルが高く、謀反を起こされても困るし、何よりこの城がより強化されてしまっては落とすこともままならなくなる、そういう懸念もあったと推測。家康公は天下を取った後武田の本拠地である要害山城、躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)も使わず、盆地の真ん中にある小高い丘に甲府城を築城させる。武田の怖さを身を持って知っていた家康公だけに、武将達の配備、城の場所も細かく指示を出して治めたことが伺えるのである。何よりも一度自分が新府城に入って陣を張ったことがあるからこそ、この城の凄さを自分が一番わかっていたはず。そう考えると新府城は立地条件も完璧なのにも関わらず不運な歴史をたどった城だったと言えるのかもしれない。

見学コースの話しに戻るがこの搦手口から本丸を目指して見学するのも悪くないと思う。初心者はむしろそっちの方がわかりやすいかもしれない。ただ最初に笑ってくれない氷室さんと布袋さんと写真を撮るくらいの土橋を渡る勇気があるかどうかにかかっている。大手側の整備が行き届いてないのでどうしてもイマジンしにくいところは否めない。ただ城マニアとして、歴史建造物を心から愛す者として愛を持って言わせてもらいたいが、城跡に神社や街の偉人の碑を建てるのはいかがなものか?はっきり言って城とのつながりが感じられない。ここ最近日本全国でそういった後付けの歴史の浅い神社などを城の修復と同時に壊す(移転)させる動きもあるが、それは大賛成である。例えば四国香川県高松城も長らく天守台跡によくわからないお宮が建てられていた。平成に入ってからの石垣修復により排除されて、今となっては天守台の基礎石までしっかり見学出来るようになり城マニアとしては涙が出るほど嬉しかった。だが今でも城跡に、特に本丸跡に神社が建てられているケースは多い。神社を建てることが悪いと言ってるわけじゃない、神はいらないと言ってるんじゃない。何故城に?何故一番見たい本丸に?しかも神社用の物資を運ぶ為に道や石垣や土塁を壊し道を作ってしまう。しかも神社の敷地は立ち入り禁止ときてる。


中には神社側が城の整備をする場合もあるのかもしれないが、はっきり言っておきたいのは、その神社はどこまで行っても後付けであり、城の歴史より浅い。戦国武将はみんな当時から存在していた神社や寺などはすべて避けて築城していたというのに。後付けなのに立ち入り禁止、建造物破壊、これがいただけないのである。城の細かいとこまで見学させんかい。おかげでどんなに見学者が増えても入り口が変わってしまったらその城の凄さは半減する。城の見学の基本は絶対に大手口から入ることに意味がある。大手口から来客に入ってもらう為に作られているのだから。城の評価はこういうところに表れると思うのだ。中には、参拝者が訪れなくなったことで神社自体が移転どころか無くなってしまう場合もある。それならまだいいが、境内の基礎石や鳥居などが撤去されないまま放置されてる城も少なくない。ここは神社跡じゃない、城跡なのだ。歴史マニアとしてこういう現状は痛いのである。私がビルゲイツくらいの大富豪なら日本全国の城を全部整備するのだが。

私「じゃあ城一つに対して、そうね、5で」
街の観光協会スタッフ「5千万もいただけるんですか????」
私「いやいや、5、億、ですよ、億ね、しくよろ!」

みたいな!みたいな!みたいな!みたいな~~~~~~~~~!!!!!!!!!

幕末に城が廃城になり、その城跡を安易な客寄せや安易な観光地にしようとしたことで今日現在、日本の歴史建造物が世界から問われていることを改めて伝えたい。世界の旅行者にも「?」にならない観光地にしなくてはいけないと思う。むしろ砂田が提案することは基本全部「?」かもしれない。今2020年の東京オリンピックに向けて、日本の歴史の在り方、保存方法、伝え方、それを見直す時だと私は思う。間違いを伝えてはならないと思うのだ。私が音楽業界に対して「口パク禁止令」という曲を書いてシャウトしているように!!!!!


そんな新府城、雑草もしっかり刈られ、門跡を始めいろんな場所に説明のボードもあり、素晴らしく管理されてると思う。でももう一度城の中の道を当時のままに復元してほしい。安土城も大手道の石段をそうしたように。最も新府城、夏はその雑草がヒッピー達の髭と同じくらい剛毛に生えてしまい、夏に見学するとなかなか城の作りがわかりづらい。なので土塁の城は冬に見学をお勧めしたい。

改めて伝えておきますが、城見学は冬に土塁の城、もしくは山城を。夏は石垣の城、もしくは平城や平山城をお勧めします。やっぱね、夏に山城や土塁系の城はさ、虫は飛びまくってるし、暑さは半端ないし、雑草のおかげで城の作りがぶっちゃけ良くわからない場合が多いわけ。冬は草木が枯れるおかげでちゃんと縄張りがわかるわけです。なので夏は有名な城でもいい、平城だとそこまで草木も生えてないケースが多いので見学しやすいこと請け合いです。


新府城の近くに韮崎市民俗資料館があり、当時の新府城の模型や発掘調査時の出土品が展示されている。しかもここは入館がただ!ただより高いものはないぜ!最高!是非お立ち寄りいただきたい。パンフレットも頂けると思います。

しかしやはり、こういったイマジンが非常に大切な城を見学するには誰か歴史マニアや城マニアが一緒に同行してないと正直わかりづらいのかもしれない。わかってる人間が説明しないと理解出来ないことも多々ある。それを間違って判断し見学してしまう人は後を絶たない。ということでここはひとつ私が一肌でも二肌でも脱いで、依頼していただければ特別にナビゲーターを承ろうじゃありませんか。

そうですね、城一つに対して、そうね、5で。(500億)

あぁ新府城、また訪れたい……。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル