【インタビュー_#2】Apes From Nine、耕史朗が語る“岐路と選択”「自分の音楽が今、やっと表現でき始めている」

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Apes From Nineが9月より12月まで、4ヶ月連続でシングル3作品およびアルバム1作品をリリースする。その第1弾から第3弾は「HEAVEN」「EARTH」「HELL」と題された3枚のシングル作品であり、“HEAVEN=朝”、“EARTH=昼”、“HELL=夜”からなる1日をテーマとしたもの。サウンドは全編、経験と技量の高さを駆使したApes流メタルチューンでありながら、シングル3部作には異なるテイストが封じ込められる。

◆Apes From Nine 画像

4ヵ月連続リリースと併行して4ヶ月連続ツアー<【HEAVEN】【EARTH】【HELL】3style TOUR>の実施も約束された今回のプロジェクトは、量、質、スピード感を重視したApes From Nineの現代シーンに対する意識の高さの表れでもある。BARKSでは全3回にわたってApes From Nineのマンスリーインタビューを掲載中だ。

その第二弾は、ボーカル&ギターにして全楽曲の作詞作曲を手掛ける耕史朗のパーソナルインタビュー。中学卒業直後に音楽の道へ飛び込んだ少年期、JURASSICメンバーとの出会いと瞬く間に掴んだメジャーデビュー、“和製ザック・ワイルド”と呼ばれながら歌うことへの挑戦を始めたソロ、そして自己の音楽性を極めているという現在のApes From Nineについて語ってもらった。音楽的なバックボーンはもとより、強い信念を持って歩みを進める耕史朗の姿が浮き彫りとなったロングインタビューをお届けしたい。

   ◆   ◆   ◆

■とりあえず高校に入るという生き方が
■カッコ悪いと思っていたんですよ

──Apes From Nineの全作詞作曲を手掛ける耕史朗さんに音楽観について、じっくりとお話をうかがっていきたいと思います。まず幼少期から少年期は、どんな家庭環境でしたか?

耕史朗:俺は母子家庭で育ったんです。しかも、兄がいるんですけど父親が違うんですよ。兄貴は最初の旦那さんの子供で、俺は2人目の旦那の子供。物心ついたときには、母親と兄の3人家族でしたから。そういう環境で育ったからか、子供の頃はすごく情に厚かったですね、友達に対して。自分で言うのもなんだけど(笑)。ムカつくことがあると手がすぐに出るんだけど、そこで仲良くなった仲間とか友達のことは絶対に裏切らないという。

──人間臭いというか。学校ではどんなタイプでした?

耕史朗:スポーツをやっていたし、運動神経はよかったんですよ。そう言うと、明るく元気な子をイメージするかもしれないけど、そうでもなかった(笑)。ひとりで絵を描くのが好きだったし、よく言えばアーティスティックな部分も持っているみたいな。それに不良っぽい子供だったと思うんですよ、母親は飲み屋のママをやっていて夜は家にいないから、俺も夜は遊びまわったりしていてね。でも、それに寂しさを感じて素行が悪くなったわけではないんですよ。そもそも俺の中では生まれた時からそういう環境が当たり前だったわけで。好きなようにやっていただけ。

▲耕史朗 (Vo&G)

──情に厚い一方で、大人びた子供でもあったんでしょうか?

耕史朗:基本的に冷めた子供でしたね。さっきも言ったように孤独感や絶望感はなかったんですけど、心がちょっと歪んでいた部分はあったかもしれない。家庭環境がそうだったから、結婚に良いイメージもなかったし。1枚フィルターを通して物事を見るようになっていた感じはしますね。というか、今でもそれは続いていますけど。

──音楽は身近な環境でしたか?

耕史朗:俺の父親はボーカリストとしてデビューもしてたんですけど、一緒に暮らしていたわけじゃないから直接に影響を受けてはいなくて。子供の頃は、むしろ音楽とは無縁でした。兄貴がB'zをよく聴いていて、カッコいいなと思ったのが小学5年生くらいの時でしたね。ただ、当時は聴くだけで、自分もギターを弾いてみたいと思ったりはしなかった。

──音楽に惹かれたのは?

耕史朗:中学校1年生くらいの時にBOØWYとか氷室京介さんを聴くようになるんですけど、歌詞がグサッと刺さったんですよ。というのも当時、学校の先生や周りの親、母親の再々婚などでゴタゴタがあって、“もう大人なんか信じねぇ”みたいになっていたから。そういう中で自分も歌詞を書いてみようと思ったんです。そこからボーカリストになりたいと思って、中学校2年生の時に母親に頼んで安いギターを買ってもらって曲を作り始めました。

──中2で作曲を始めるというのは早いですね。中学生の頃に音楽に目覚めて、好きなバンドのコピーから始めて、曲作りは10代の終わり頃からというのが一般的な気がします。

耕史朗:なるほど。俺は逆だったんですよ。好きなアーティストに憧れて音楽を始めたわけじゃなくて、自分の音楽を作りたいというのが入り口だったから。ただ、ギターを始めた頃に少しコピーもしたし、中学校3年生の時に友達とバンドを組んで、BOØWYとかX JAPANのコピーとオリジナルの両方をバンドでやっていましたね。

▲第二弾シングル「EARTH」

──そのバンドでは歌っていたのでしょうか?

耕史朗:いえ、ギターでした。作曲とか練習とかしていたら、ギターが楽しいと思うようになって。ボーカルを目指すか、ギターを目指すかは悩んだけど、やっぱり楽しかったんです、ギターが。当時はボーカル&ギターという発想は全くなかったですね。

──作曲のツールのはずだったギターに目覚めたんですね。そうなると、高校生の頃はどっぷりバンド漬けの日々になったんじゃないですか?

耕史朗:いや。中学校3年生のときにギターでプロになると決めていたから、高校なんていく必要ねぇと思って。

──えっ!? 高校中退ではなくて、受験すらしなかった?

耕史朗:はい。“とりあえず高校に入って”という生き方がカッコ悪いと思っていたんですよ。俺が通っていた中学校で高校にいかなかったのは3人しかいなかったですけど、中学校3年生のときのバンドメンバーの1人は俺と同じように、高校にいかなかったんです。だから、高校にいかなかった3人のうち2人は一緒にバンドを続けて、もう1人は……ここでは言えないくらいヤバイ感じに(苦笑)。だから、中学を卒業してしばらくはバイトとバンドだけ。

──15〜16歳からプロを目指して本格的に動き始めたんですね。その頃はどんな音楽性だったのでしょう?

耕史朗:格好はヴィジュアル系で、曲はハードロックにダサい日本語詞が乗っている、みたいな(笑)。メンバーを集めてバンドを始めた当初は、周りに知り合いのバンドも全然いなかったし、対バンという形態を知らなかったから、初ライブもいきなりワンマンだったんですよ(笑)。ライブの日程が近づくとライブハウスにチラシを貼りにいったり、街でチケットを手売りしたり。「ライブにきませんか?」って全然知らない人に声をかけていたんですけど、くるわけないですよね(笑)。

──たしかに(笑)。

耕史朗:でも、バンドを続けるうちに知り合いも増えて、ライブハウスに出入りするようになって、後のJURASSICのメンバーとも出会って、「一緒にバンドをやろう」ということになった。それが17歳くらい。1年後にJURASSICでオーディションを受けたらグランプリを獲って、そこからメジャーデビューしたのが2002年だったかな。

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