【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第93回「佐倉城(千葉県)卓偉が行ったことある回数 3回」

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築城は本佐倉城主の千葉氏だが、現在の形にしたのは1611年に徳川家康の命令で土井利勝が建てたとされる。先に言っておくとこの城も実に惜しい城だ。明治に廃城になるまで8基の巨大な櫓門が残っていたがすべて壊されてしまった。そのいくつかが古写真で残っている。1800年代の初期まで天守と言える御三階櫓も存在したが残念ながら消失。廃城後は陸軍の駐屯地になり、堀が埋め立てられてしまった。昭和30年代に公園に指定され、昭和50年代から発掘が始まり整備もされ、角馬出し、水堀などが復元された。わかりやすい見所としては椎木門跡の角馬出しだろう。門を正面にコの字型の空堀を造らせることで導線は両サイドだけになり、道幅も狭まり、敵の侵入を少なくするという仕組みだ。残念ながら門の両サイドにあった堀が埋め立てられているために城内に突如角馬出しが現れるように見えてしまうのが否めないし説明しづらい。この空堀も当時は6メートルの深さがあったとされるが現在は危険を考慮して3メートルの深さになっている。


城内の至る所に駐車場があり、初めて来城する場合はどこから見たら良いのかわかりづらいかもしれないが、房州屋という蕎麦屋がある辺が当時の大手門の跡である。そこから道がとにかく真っ直ぐ三の丸に伸びている。なので三の丸周辺からの見学をお勧めする。もっともこの辺一体、新町の住所からが城下町であり、町の道も真っ直ぐに伸びている。佐倉城は30メートルの高さの丘の上に立つ城でそれがまた随分と横に広がってもいて、北に印旛沼、この湿地帯を堀とし、西と南に鹿島川と高崎川、これを天然の外堀とした作りになっている。見事に丘の上に城下町が作られた。不思議なもので、佐倉城は平山城だが城内はアップダウンがないので平城と勘違いしてしまう。実に面白い作りと言える。それだけ城内のスペースが大きく確保出来た最高な立地条件が揃った城と言えるだろう。


石垣を一切使わない土塁と空堀の城なので、そのカーブ、くびれがとても女性的だ。気の強い短気な女性ではなく、なんでも受け入れてくれそうな心の広い女性、そんな佐倉城である。これ、城マニアのおっさんにしか伝わらない感覚だ。良く見ると門も虎口がほとんどなく、正面入り口の門が多いことに気付く。これも余計なことを言わずすべて受け入れてくれる寛大な女性的な、いつでも笑顔で迎えてくれる的な、もうなんだかとてもたまらん感じだ。日によってテンションが違う女性は男からすると困るのだ。アップダウンがあるのは城見学だけにしてくれ。上手いこと言うやんけ。


そんな佐倉城の門はその全てが櫓門で、どれも巨大。全員ケツのでかい安産型の女性である。乳よりケツ、実はそういう男の方が世界的にも多いということを女性に知ってほしい。櫓の数は城の大きさに比べて少なかったようだが、この二階建ての櫓門が門だけではなく番所として、そして何より櫓として機能していたことが窺える。弘前城の追手門クラスの大きさの門がたくさん存在したのである。古写真を見ると当時の人が一緒に写っており、その大きさは目を見張るものがある。これが残っていたら、最高な門がいくつも残る城としてとっくに国宝、世界遺産レベルだ。図面も残っているはずなので三の門、ニの門、一の門などは復元が可能なんじゃないだろうか?今後に期待したい。


櫓だけでなく、当時は天守も存在した。これがまた面白い造りで、2段の土塁を跨ぐように造られており、外からは3回建、本丸の内側から見ると4回建に見えるように造られていたそうだ。しかも地下もあったとされる。土塁の城でこういうデザインの城は佐倉城だけであろう。現在も天守の模型が見られるようになっている。幕府に遠慮した御三階櫓とはいえ十分な天守の大きさだったと言える。これは土井氏が古河城に転封になり、土井氏が古河城に佐倉城の天守とほぼ同じ天守を建てたとされ、その図面と古写真が残っていたことから、模型や、復元案などが作られるようになったという。実に良い話である。是非復元を実現してもらいたい。シンプルで素敵な天守なのだ。高さの違う土塁を跨ぐ、この「跨ぐ」ということ自体が城好きのおじさん達にはすでにたまらない感じになってしまう。どうして跨いだの?聞いてみたい。


先ほど城内を歩くとずっと続く平地具合に平城か?と勘違いしてしまうと書いたが、城内の魅力として空堀の深さ、これは一級だと思う。残念ながら藪が生い茂っていてその深さが把握出来ない時が多い。運良く整備が入り、空堀の下まで見渡せる時もある。初めて来城した時は藪が刈られていたのでその深さ、そして土塁の高さにマジでビビった。椎木門の角馬出しの整備された空堀も当時はこれくらいの深さだったということを是非イマジンしていただきたい。本丸を囲む空堀は圧巻である。これでもいくらか堀を浅くしているらしいので当時は本当に危険な程深い堀だったのだろう。優しさの中にあるシャープな厳しさ、温かさの中に垣間見る男顔負けの強さ、おじさん達はそんな女性にいつも怒られたい。


それだけではなく、本丸の裏に出丸が二つ存在する。これを私は右ケツと左ケツと呼びたい(いい加減にしろ)。搦手を強化するための曲輪なわけだが、丘を降りて行くと丘の麓にも空堀があるし、その先には水堀もある。いくらか復元された水堀とのことだが、この水堀が城の下を囲むように伸びていたらしい。高崎川とユニゾンで伸びる長い長い土塁もちょうどそのすぐ横を道路が走っているが当時はこれが水堀だったとのこと。出丸も丘と陸繋ぎになっていたわけではなく、当時は堀を橋で渡れるようになっていた。搦手の防御も素晴らしい佐倉城なのである。


城内に国立歴史民謡博物館があり、城だけでなく佐倉の街のいろんな歴史を知ることが出来るのでお勧めだ。だが今回2020年3月中頃に訪れた時はコロナウィルスにより入館出来なかった。とても残念である。二度目に来た時も休館日で入れなかった。せつねえ。都内から電車でも車でも約1時間で来られる素敵な城下町佐倉。千葉県方面から江戸城を守る為に建てられた重要な役割を果たしていた佐倉城。近隣にはいちご狩りも出来るビニールハウスがたくさんある。昔親父がいちごを買ってくると「いちごの出荷はいちごろですか?ってな!」と必ず言っていたことを思い出す。いちごを食っていると「美味いか?」と聞いてきて、「美味い」と答えると「いちごの出荷はいちごろですか?ってな!」としつこく言っていた。思い出す度にイラッと来る。いつだったか、ベーシストの鈴木賢二くんの実家に招かれ、食後にいちごをいただいた。まさかのまさか賢二くんのお父さんはボソッと言った「いちごの出荷はいちごろですか?ってか!」ハハハ~お父さん!お決まりですよね~なんて言いながらやっぱり、ちょっと、若干、賢二くんのお父さんとはいえ、かすかに、一瞬だけ、イラッと来た。

あぁ 佐倉城、怒られたい…。いやまた訪れたい…。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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