【コラム】クイーンの日、頑張りすぎない日。~BARKS編集部の「おうち時間」Vol.011

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「クイーンはインテリ派」とはよく言われるけれど、実際どれくらいのインテリなのか。まあ同時代に活躍していたブラック・サバスは「バンド内でいちばん頭がいいギーザー・バトラーがすげえ歌詞書いてくれたけど、意味はよくわかんない」みたいなことを言っていたので、やっぱりクイーンはインテリ派なんだろう。

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新型コロナウイルス感染症の拡大を受けた外出自粛要請が発令される中、BARKSでは4月10日より、皆様の「おうち時間」を彩るコラムを毎日掲載している。皆様、この頃どうお過ごしですか。私はたまに心のオジー・オズボーンが暴れまわるので、手拍子しながら廊下を行ったり来たりしてストレス発散しています。

本日4月17日は、1975年にクイーンが初来日した記念日「クイーンの日」ということで、いくつかの楽曲について、ゆるく考察していきたいと思う。複数の曲に言及するので、少し長めの記事になるが、お付き合いいただければ幸いだ。

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さて、2月の始め頃、新型コロナウイルス感染症と戦う中国・武漢に向けて日本から送られた支援物資の箱に「山川異域/風月同天/寄諸仏子/共結来縁」というメッセージが添えられていたことが話題となった。

この詩は約1300年前、奈良時代の政治家・長屋王が鑑真へ送った袈裟に刺繍されていたものだという。詩の意味は、「生まれた場所は違えども、同じ風が吹き月が昇る。仏の教えを学ぶ者同士、ともに縁を結ぼう」とのこと。1300年の歴史を超えた教養深いメッセージには、海外からも称賛の声が寄せられた。

ところで、この「山川異域/風月同天/寄諸仏子/共結来縁」という詩。これ、たぶんクイーンの「手をとりあって」の元ネタだ。「手をとりあって」は日本語歌詞部分が有名なのだが、それ以外の場所では「遠く離れていても」「風が吹いて」「同じ月の輝きが」と言っている。これはまったく「山川異域~」と同じ単語・事象の選択だ。


また、日本語部分にある「愛しき教え」という謎のワードを「仏教」と解釈すれば、日本に浸透する仏教由来の文化に感動したブライアン・メイの姿まで浮かんでくる。そうすると、「静かな宵に光を灯し」は、仏教の寺院に灯る蝋燭の炎と、キリスト教の教会に灯る蝋燭の炎とのダブルミーニング。たった16文字の漢詩を学ぶことで、この曲は丸ごとスッキリ解釈できるのだ。

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クイーンの曲、特にブライアン・メイとフレディ・マーキュリーの曲を聴いていると、ときどき「マジかよ」みたいな歌詞表現が出てくる。

そういうと2ndアルバム『クイーンII』のような超王道ファンタジー系の曲を思い浮かべがちだが、<ライブ・エイド>でも披露された「ハマー・トゥ・フォール」のように、明るく元気なロックナンバーへ原子爆弾の描写を仕込み、社会批判を匂わせている、そういうインテリなやり方にはニヤリとする。


思えば、クイーンはキリスト教的な道徳観を自他ともに強制されないバンドだったのではなかろうか。宗教に寛容な日本人にはイメージしにくいが、西洋芸術は「キリスト教的批判」をけっこうされる。まあ、「学校で進化論を教えるべきか」で裁判まで起こるんだから、チャラついた若者のやる音楽なんて、顔をしかめられて当然ともいえるけど。

かわいそうなブラック・サバスは、意図せず1stアルバムのジャケットへ逆十字を描かれてしまったことから、約50年経っても「おれたち悪魔信仰なんてしてません」と弁明するハメになった。よくよく考えれば1曲目からバリバリに「神様助けて~!」って絶叫してるんだけどなあ。

いや、サバスに悪魔信仰のイメージがついたのは、オジー・オズボーンがコウモリ食ったり、デビュー当時のトニー・アイオミのビジュアルがおっかなかったり、そういう要素のほうが強い気もするが、それはまた別の話である。

一方でクイーンは「遠い異国の地からやってきたゾロアスター教徒」と「国内トップクラスの大学を出た天文学者」がいる上、メンバー全員が清潔感ある好青年の空気を漂わせていたので、そういう方面での悪いイメージは薄い。だって、「あなたの曲は神を冒涜してる」と批判しても、「うち、そもそも信じてる神が違うんで」と返されたらそれで終わりだし。それでも批判されるなら、それはもうお客様ではない。

クイーンの自由な創作性は、こういうところにも由来していると思う。たとえばブライアン作曲の「ロング・アウェイ」は、初っ端から「君は天国を信じてるのかもしれないけど、僕はノーコメントで」と歌い、神を否定しにかかっている。こういうの、ブラック・サバスがやったらめちゃめちゃ怒られる。


でもまあ、「クイーンの曲は深い」とはいっても、全部が全部深いってわけじゃない。「ファット・ボトムド・ガールズ」には「ファット・ボトムド・ガールズ」以上の意味はないと思うし、「愛しきデライラ」に「ネコちゃん大好き」以上の意味を見出すのは愛猫家に失礼だ。我々は猫を愛する運命のもとに生まれたのだから。それはさておき、深読みし過ぎると本質を見失っちゃうことは、常に気を付けておきたい。


ただ、「深い意味を見過ごされている曲」はあると思う。特に、1991年リリースのアルバム『イニュエンドウ』は全ての楽曲があまりに意味深で、どこまで深い意味が隠されているのか判別しにくい。

それでも、すべての収録曲に「フレディ・マーキュリーの死」を絡めるのは早計だ。たとえば「輝ける日々」は、フレディ最後の姿を映したミュージックビデオによってイメージが固定されがちだが、楽曲単体では、誰もが持つありふれた想いを歌ったナンバーである。そういう部分は、先入観を捨てて聴いていきたい。


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ところで最近、『イニュエンドウ』の収録曲「ドント・トライ・ソー・ハード」を聴いていて、ふと気づいたことがある。この曲、上昇していく音の形や、ストリングスの使い方、コーラスの入れ方、そして主題が、ブライアン作曲の「リヴ・フォーエヴァー」にめちゃめちゃ似ているのだ。



「ドント・トライ・ソー・ハード」はフレディによる作品で、その歌詞は死を前に己を見つめ直したもの、と言われている。しかし、それにしては客観的というか、第三者的な感じだ。ファンへの呼びかけだったとしても、「きみが上級曹長になったら~」という謎の単語が出てきて、何のこっちゃ感がある。

そしてこの曲、基本的には「きみ」へ向けた「辛いときは頑張りすぎるな」という呼びかけなんだけど、真ん中あたりで突然、たった4行だけ「僕」の話になる。しかも話題は「僕は辛いときこうしてる」的なものではなく、「世界は美しい」という脈絡のないもの。とても奇妙な段落だ。

あるとき私は「ドント・トライ・ソー・ハード」を聴いて、「これってフレディからクイーンのメンバーへ、特にブライアンへのメッセージソングなのでは?」と思った。曲の中で歌われている「きみ」の性格が、なんだかブライアンっぽいなと思ったからだ。

それ自体は連想ゲーム的な発想なのだが、よく詰めていくと悪い解釈でもないような気がした。まず、「ドント・トライ・ソー・ハード」の冒頭には、アルバム『オペラ座の夜』の収録曲「預言者の唄」の冒頭と似た、琴を爪弾くようなイントロが置かれている。

そして、全体的な構成。サビで光差すように明るくなったり、劇的なハイトーンでバラードロックを演出するのは、どちらかというと「セイヴ・ミー」「ホワイト・クイーン」「オール・デッド」などにみられるブライアンの曲に多い傾向のような気がする。さらに、「ドント・トライ・ソー・ハード」には和風の音階が用いられており、どこか「手をとりあって」っぽい。

ブライアンへのメッセージと考えると、「上級曹長」も解釈できる。イギリスには「大英帝国勲章」という栄典があり、その種類は「司令官」「将校」など軍の階級と対応しているのだ。これを踏まえると、「いつの日か君が上級曹長になったら~」は、「いつか君が勲章を貰うくらい偉くなったら~」という軽口になる。

そして、フレディは「何を使ってもいいから、僕を退屈な存在にさせないで」という願いを残した。実際に彼がその遺言を口に出したのはずっと後だったけれど、自分の死後、誰より表に立ってクイーンを動かすであろうブライアンを想ったフレディが「Don't Try So Hard(頑張りすぎんなよ)」を書いたのでは、という妄想は、何らブッ飛んではいない。

さらに、この曲を「ブライアンへのメッセージソング」と解釈すると、中間部で唐突に登場しては自分語りを始める「ぼく」の存在にも説得力が出る。「ぼく」は、「きみ」が悩み、心を打ち砕かれそうになる原因そのもの。だからこそ「ぼく」はここで満ち足りていることをアピールし、「きみ」を安心させようとするのだ。

ただしこの曲、優しいように見えて、よく読むと「きみ」が本格的にリタイアすることは前提に入っていないっぽい。ついでに「休んでいい」と言っているタイミングはどれも、「きみ」がギリギリまで追い詰められているときだ。「問題解決は別の日でいい」とも言っているけど、これは逆説的に「問題を投げ出すな」ってことになる。このあたりの地味な厳しさも、この曲をブライアン宛てっぽく感じる原因だ。

ここからは、あくまで私の抱くイメージに基づく妄想。キッパリした性格のロジャーには、わざわざ改まって「頑張りすぎるな」と言う必要もない。5歳も年下のジョンには、「何も感じられなくなったときは頑張るな」なんて言う以前に、そこまで気張ってほしくない。

でも、「クイーンらしい音」を支えているブライアンには、できる限り頑張ってほしい。とはいえ「クイーンを支えることに人生を捧げろ」まで言うつもりはない。だから「問題は後回しでいい」とは歌っても、「問題なんか投げ出しちゃえよ」とは歌いたくない。楽曲に溢れるちょっとした違和感の積み上げは、そう解釈することもできるのだ。

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アルバム『イニュエンドウ』の収録曲には、いろいろな解釈がある。たとえば11曲目の「ビジュウ」。この曲はフレディが恋人のジム・ハットンに宛てたものと解説されがちだが、歌詞をよく読むと「Like two lovers(恋人の“ように”)」という表現が使われていて、「恋人宛ての曲」としては違和感がある。


思うに、この曲はフレディとブライアンが「最後まで一緒に音楽をやろう」と誓い合う曲なのだ。だから長いギターソロが入るし、「恋人として」ではなく「恋人のように」となる。また、ふたりの個性や特徴を想うと、「宝石(“希少性の高く”美しい鉱物)」という表現も誇張ではなくなる。

ところで、アルバムの表題曲「イニュエンドウ」は壮大な構成を持つことから、一部で「裏・ボヘミアン・ラプソディ」と呼ばれている。ならば「ドント・トライ・ソー・ハード」は「裏・リヴ・フォーエヴァー」だろう。曲調的にも、歌詞の内容的にも。

では、「ショウ・マスト・ゴー・オン」は? それを考えたとき、ふと「裏・ドント・ストップ・ミー・ナウかな?」という考えが頭をよぎった。なんということもない、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のエンドロールに使用されていた2曲だからという安直な発想である。

だが、それぞれの楽曲の書かれた背景を思うと、2曲には全く繋がりが無いとも言い切れない。思い返せば、映画の公開当初から、「エンドロールの2曲目は“輝ける日々”か“ノー・ワン・バット・ユー”のほうが合う」という意見は結構あった。そこにあえて「ショウ・マスト・ゴー・オン」が置かれたことには、きっと何かの意味がある。クイーンは、そういうバンドだと思っている。


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クイーンが初めて日本の地を踏んでから、今日で45年。そんなに経ってもまだまだ人気が衰えないのは、ただ「音楽が素晴らしいから」というだけではない。4人のアーティストと、それを支える者たち、そしてファンが“クイーン”という存在を愛し続けた結果だ。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしたとき、「ああ、これで一区切りついたな」と思ったファンは少なからずいたと思う。「僕を退屈な存在にさせないで」という願いに対し、追悼コンサート、未公開音源を集めたアルバムのリリース、追悼曲の発表などと続いたクイーンの活動は、映画の公開をもって、「やれることは全部やった」域にまで達した。もうフレディに文句は言われまい。けれどクイーンは進み続ける。誰かが望む限り。

それにしても、アダム・ランバートと出会ったあとのクイーンはめちゃめちゃ若返っているような気がする。歓びに満ち溢れたアダムの声質がそう感じさせているのだろうか。いや、単に若さを吸収してるんだと思う。

アダムと出会ったとき、クイーンの歴史は確実に動いた。アダムはクイーンを聞いて育ち、自らのキャリアを形成する大事な場面でクイーンの曲を選び、フレディを敬愛し、そして自身のセクシュアリティをもパフォーマンスの一部とする「新しい世代」のシンガーである。

そんなアダムの存在は、クイーンが成し遂げ、この世界に残したことそのものだ。ロジャーとブライアンが若返って見えるのは、アダムと出会ったことによって、背負うものが軽くなったからなのかもしれない。

クイーンの栄光を体現する才能とともに、「亡きメンバーの記憶を伝えるかつてのスター」から、「最高の仲間を讃えて進む2020年を生きるバンド」へ。「退屈な存在にさせるな」という願いのためではなく、不滅の存在を共に愛するファンのために。

この辛い時間を乗り越えれば、クイーンはきっと、また旅に出る。彼らの健康を祈りながら、私たちも頑張りすぎずに耐えて待とう。いつかきっと嵐は終わる。その日を待ちながらボタンを磨き、些細な日常を楽しもう。世界の綺麗な部分はきっと、うちの中にいても見つかるはずだ。


文◎安藤さやか



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