【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第94回「牛久城(茨城県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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都内からもさほど遠くなく行ける。それでいながらガチな城跡だ。非常にファンの多い牛久城の紹介である。去年20年ぶりくらいに来城した。ここ最近の城マニアの情報によると竹藪がある程度整備されたとのこと。初めて来城した時はニノ郭も本郭も竹藪が生い茂って、茂っちゃって、茂りまくりで、全くもって広さがわからず、腰曲輪をちょっと歩ける程度の見学しか出来なかったと記憶していたが、行ってみると素晴らしい整備のおかげでよっぽどこの城が好きになった。


1550年、岡見氏によって築城。岡見と言ってもさわやか岡見五郎の方では決してない。城主が変わり、最後は牛久藩がこの城のすぐ近くに牛久陣屋を築城し幕末に至っている。現在は城とずいぶんと遠い場所に大手門跡の掲示板が建てられているが、牛久陣屋も含め、この辺り一体すべてが牛久城の縄張りだと考えてもらいたい。とてつもなく大きな城だったのである。まず当時は牛久沼の水が城の両サイドまで来ており、言わば牛久沼に突き出た丘に築かれた城だったわけである。しかもその両サイドは船着場になっていたそうな。シャレオツやんけ。現在は湿地帯を活用した畑になっているが、ここが船着場&堀の役目を果たしていたことをまずイマジンしてほしい。


まず大手門だが、これはマニアにしかわかりづらいことかもしれないが大手門周辺の道が既に喰い違い虎口になっていることがわかる。掲示板によると枡形の馬出しも備えてある壮大な大手門だったとのこと。牛久陣屋が建てられた後も城の入り口はこの大手門だったとされる。右に歩いて行くと空堀の跡も見て取れる。大手門から城に向かう道も当時は根古屋であり、言わば武家屋敷、家来たちの住居となっていた。城跡のあるあるだが、こうした当時の城内の敷地に現在暮らしている方々は何かしらの末裔だ。三の丸の入り口である木戸口を目指しながら住宅地を歩くと家の外側に、これどう考えても土塁だろと思う場所に遭遇する。かなり羨ましい。道も虎口になっており船着場へ降りて行く構造になっていたりする。現在の道も当時の武家屋敷の道とほぼ変わらない。

木戸口に着くと城の平面図の掲示板がある。確かにこれだけを見ると小さな城と思われてもしょうがない。だがここの三ノ郭もとんでもなく広い。城と逆側に降りられる細い虎口もあり、城の導線がそのまま現在の道になって使われていることにテンションが上がる。さて、ここから城内に入って行くわけだが、まずこの木戸口の土橋がたまらない。割と細く峰不二子の腰ばりにくびれている。その両サイドに落ちた空堀の深さにまずやられる。どうしても木が生い茂り、竹藪になってしまっているので深さがわかりづらいかと思うが、ある意味ここがもう一つの大手であることは間違いないのでその防御たるもの、凄まじい。そしてニノ郭に向かうまでにすぐまた土橋があり、ここに来るまでに左側に2本の空堀がその行く手を阻もうとしてくる。ここで気付くがニノ郭の土塁の高さが凄い。圧巻である。城内にはL字になった縦と横の空堀があるが、横に伸びた空堀の深さが凄まじい。腰曲輪を歩くと左側にニノ郭があるわけだが、土塁の高さ、そして左右から攻撃される仕組みに脱帽。防御というより簡単に仕留められる構造は本当に素晴らしい。むしろ攻撃に徹している作りだと言える。



城内の三つ目の土橋を登って渡るとニノ郭だ。ここを本郭と考えるマニアもいるようだ。確かにスペースもかなり広い。20年前はここが竹藪で全く見通せなかった。注目したいのはニノ郭の土橋を抜けてそのまま正面に真っ直ぐドン突きまで行くと山梨は武田の新府城よろしく4~5カ所の出構えがある。この下も当然堀になってはいるがほぼ崖になっていて、下から登って攻めて来る敵をこの出っ張った出構から攻撃するという仕組みだ。新府城より出構えの面積は狭いが良く考えられた構造だと評価したい。この角には高台になった土塁があるので物見櫓が存在したと言える。もしニノ郭が本郭だったとするならここが威嚇の意味でも天守的な建物だったこともイマジン出来る。木戸口から考えて左手のコーナーに物見櫓的なある程度大きな建物が聳えていたら威嚇には十分だったと言えるだろう。

ここから更に城の奥へ。当時はニノ郭から本郭までの導線は木橋が架けられていただろうが、現在は腰曲輪に出ないと本郭には行けない構造である。ここで牛久城の一番の見所だが、ニノ郭と本郭の間の横の堀、ここがまた素晴らしい。土塁の高さ、堀の深さ、同じ茨城県でも小幡城に負けていない。これぞまさに中世城郭、北条氏の築城技術も垣間見られるのは1500年代半ばに建てられた城ならではかもしれない。この堀を歩くのがマニアの中でもお約束になっていて、牛久城の写真となると大抵はこの堀の中から左にニノ郭の土塁、右に本郭の土塁を写したものになる。この堀を歩いて抜けると奥は右に折れ曲がっており、当時はもう一つ曲輪が存在したとのこと。この堀に限らずだが藪を行く場合は倒れた木や枝には十分注意していただきたい。何を隠そう私、2度目の牛久城のこの空堀で枝が見えず思い切り左目の目蓋にぶっ刺してしまった。軽傷で済んだがいつまで経っても赤みが取れず治らないので18年お世話になっているヘアメイクの松本さんに撮影の時に聞いてみたら「ああこれね、治ってないんじゃなく、もうシミになってるだけです」と言われてしまう。41歳、年齢にはかなわない。




現在の本郭はケツの部分を土の採取により削られてしまっている。本郭入り口になる土橋が崖すれすれの随分と端に付いているがこれよりも横にまだまだ本郭のスペースがあったとのこと。どれくらい削られたかはわからないが、この角にこそ牛久沼を見渡せる物見櫓、もしくは天守扱いの櫓があったとイマジンしても間違いはないと思う。現在の本郭も整備されていてとても広い。削られた部分を足して考えてもニノ郭とほぼ同じくらいのスペースだったのではないだろうか?どちらの曲輪も土塁の高さ、空堀の深さが同じくらいあるので2トップな扱いだったのかもしれない。

本郭を出て更に下に降りて行くと、推定の搦手になる。今は横に道路が通っているがここまでが当時は牛久沼であり、足元まで水が来ていたとされる。水門みたいのがあったこともイマジンしたい。大手門から真っ直ぐ歩いて来てしまうとこの搦手からの入城になるがここからも見学の見応えは十分である。

この辺一帯はカッパが有名とのことで大手門から木戸口までの道の途中の駐車場に「カッパの里 散策コース」と書かれた絵の掲示板があり、この周辺の歴史を絡めながらのウォーキング出来るコースが紹介されていた。しかしこの掲示板の牛久城の絵が凄い。良く見てみると、白い船に石垣が乗っている。ちょっと待ってくれ。牛久城は一切石垣がないのに、だ。やってくれるではないか。野球を知らない人間が打った後に3塁に走ってしまうレベルである。いや、それでもこの名城を紹介してくれてるだけ愛があると思いたい。ただ城マニアの中ではこの絵を見ることがちょっとしたお約束になっている。しかしこの絵、このタッチ、誰かが書いた絵に似ている、絵心があるのかないのか微妙なライン、それでいながら人を笑わせてくれるような、でも本人は笑わせるつもりもなく本気で書いたらそういう絵になったというような。

思い出した。天才広沢タダシぱいせんの、「大きな声でつぶやこう!」の本人が本気で書いた挿絵だった。天才的な挿絵のインパクトが強すぎてせっかくの良い話を書いたコラムの内容が全く入って来ない、あれだ。

全五巻が完結するタイミングで「悲しみの声、最終巻に寄せて」で僕も一言コメントを書かせてもらった。ミュージシャン界で爆発的にファンが多かったあのコラム。最後までタダシくんの絵心だけが上達しなかったあのコラム。いや、彼は挿絵を勉強するつもりなどなかったのだ。いやむしろあれで挿絵を極めたのだ。

その挿絵を彷彿とさせるのが、これだ。


もっとアップにすると、これだ。


むしろこの絵は広沢タダシが描いたんだと私は思うことにした。


あぁ 牛久城、大きな声でつぶやこう、間違った、また訪れたい…。

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