【レポート】辻井伸行、雨音を添えたショパンの調べ

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辻井伸行がこの6月、イープラスが運営する視聴チケット制の有料ストリーミング配信サービス「Streaming+」を用いて、毎週日曜日20:00から4週連続のオンラインコンサートを開催している。今回は、その第2夜となる6月14日(日)の<英雄ポロネーズ~ショパン名曲集>を聴きに、コンサートの収録現場である都内某所の小さなサロンへ赴いた。

◆辻井伸行 写真

同公演で演奏されたF.ショパンは、1810年頃のワルシャワ公国(ポーランド)に生まれ、僅か39年の生涯で200曲を超えるピアノ曲を世に送り出したロマン派の作曲家だ。繊細かつ華美で詩情に溢れた作品を特徴とすることから、彼には“ピアノの詩人”という愛称がついている。

6月14日(日)に演奏されたショパンの楽曲群は、演奏会やテレビ等で耳にする機会が特に多く、かつショパンの魅力が凝縮された作品ばかりだったので、非常に満足度の高いものだった。

加えて、今回は特にピアニストの個性が出やすい楽曲が選択されていたように思う。クラシック音楽は数百年にわたって何千、何万人にも演奏されるが故に“個性を聴き比べる”楽しみがある。今回演奏されたショパンは、どの曲も冒頭部分だけで辻井の個性や演奏方針がはっきり表れていた。

この日、辻井が初めに演奏したのは「ノクターン 第2番 変ホ長調 Op.9, No.2」だった。“ノクターン”は日本語で「夜想曲」と書き、主に夜の情景を描写した作品を指す。

ショパンは全21曲のノクターンを残しているのだが、この「第2番」は特に有名な作品だ。敢えて過剰な抑揚をつけず、どこかあどけない印象の演奏は、オルゴールや、子供部屋の夜の景色を思わせる。終結部では音色が深く倍音に沈み、コンサートの幕開けのチャイムのようだった。


挨拶と楽曲紹介を挟んで、温かい空気の中、雨音を美しく描写した前奏曲「雨だれ」の演奏が始まる。同曲が含まれる『24の前奏曲 Op.28』は、1839年頃、“地中海の宝石”と呼ばれるスペインのマヨルカ島で作曲された。

この頃のショパンは男装の麗人として知られる女流作家ジョルジュ・サンドと恋人の関係にあったが、持病の肺病みが悪化し、命にかかわる状態にまでなっていたという。そのためか、印象派の絵画のようなこの作品群にも、各曲の隅々には退廃的な空気が見え隠れする。

演奏前、「今の時期にぴったり」と辻井が語っていたように、コンサートの日の東京には大粒の雨が降っていた。「雨だれ」は譜面上では簡素な作品ながら、辻井の打鍵する1音1音は、頬に落ちる雨粒のように肉感的だ。ハンマーが弦を叩く際の僅かなノイズも聞こえてくるほどの緊張感の中、左手の旋律は朗々と、古い讃美歌を歌う男声合唱に似た均一な響きを作る。

続けて演奏された「幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66」は、ショパンの作品の中で最も有名かつ、最も頻繁に演奏される作品だろう。辻井は小学生の頃からこの曲に憧れ、耳で音を拾ってレッスンで弾いたところ、ピアノの先生から「完璧!」と称賛されたという。

辻井の弾く「幻想即興曲」は、確かな技術に裏打ちされている、地に足の着いたものだった。長い時間をかけて熟成され、細部に至るまで丁寧に解釈された演奏は、ピアノの“楽器”としての魅力を最大限に引き出して、オーディエンスに聴かせてくれる。

コンサートの前半部で最後に演奏された「スケルツォ 第2番 変ロ短調 Op.31」は、辻井が17歳の頃にショパンコンクールで演奏した思い出深い作品とのこと。「スケルツォ」は“冗談めかして”という意味で、「ドラマチックかつ奔放なニュアンスの曲」のことを指すが、ショパンのこの作品は内容的にも難易度的にも、冗談らしくは聞こえない。

開始10秒で演奏者の個性が出る同曲だが、辻井の解釈は、まず譜面を尊重し、しっかりと腰を据えて、作品の持つあらゆる側面をひとつずつ紹介していくものに思えた。

中間部では同一の音型の反復を打鍵のニュアンスで変化させ、音自体の色彩感を繊細に魅せる。続く舞曲的な部分に突入すると、演奏は急激な熱を帯び、煌びやかで透明感のあるスケールも風のように吹き抜けていく。呼吸を忘れて惹きこまれる、情熱と遊び心が混じった演奏だった。


短い換気休憩を終えた後半の冒頭では、「ノクターン 第20番 嬰ハ短調《遺作》」の暗く沈んだメロディが奏でられた。“遺作”と冠される同作だが、この場合の“遺作”は「作曲者の死後に出版された作品」のことを指すため、「死の直前に書かれた曲」という意味ではない。どこかエキゾチックで歌曲的な旋律は、ピアノの一番深い空洞に反響させるように、朗々と奏でられていた。

楽曲紹介を挟み、辻井はショパンが作曲した24のバラードのうち、最初に生み出された「バラード 第1番 ト短調 Op.23」を披露。この曲は古風な雰囲気の中に近現代的な風が入り混じる独特な作品で、今回の演奏ではその特徴が存分に示されていた。冒頭部分を提示にとどめ、表現の幅を少しずつ三次元的に広げて、最後には力強く終結する。そのドラマチックな構成を作り上げるのは、演奏者の手腕だ。

ショパンは“ピアノの詩人”と呼ばれているが、楽譜に書いてある情報は決して過剰ではない。それ故にピアニストは十人十色の解釈を指先に乗せる。辻井の「バラード 第1番」では、特有の旋律の強調や、音色の微細な変化を楽しむことができる。音楽と真っすぐに向き合う彼のピアニストとしての姿勢を示すような演奏だった。

本編の最後に披露された「英雄ポロネーズ(ポロネーズ 第6番 変イ長調 Op.53)」は、一種の象徴的な作品だ。「ポロネーズ」とは“ポーランド風の”を意味し、異国の地で最期の日々を過ごしたショパンの、祖国への愛国心を感じさせる題材である。なお、この「英雄」という題は、演奏難度や作品の雰囲気から第三者につけられた愛称で、特定の人物や事件を表現した作品ではない。

曲を弾き始める前、赤ん坊の頃から「英雄」が好きで、母が音源を流すと足をばたつかせていたというエピソードを披露してくれた辻井だが、演奏はその「好き」を強く感じさせる、歓喜に満ちたものだった。たっぷりとしたテンポで提示される主題は誇張されすぎずに舞踏的な雰囲気を帯び、舞曲としての「ポロネーズ」を聴き手に意識させる。しかし音色の表現の多彩さはオーケストラの演奏を思わせ、ピアノという枠を超えて、協奏曲のような響きとなっていた。

ファンファーレを過ぎると、楽譜は民謡風の泥臭さをも感じさせてくれるが、それはやがて辻井の手により、ショパン特有の華麗で荘厳なメロディに導かれていく。鐘を打ち鳴らすようなフィナーレを一気に駆け抜けると、昼下がりのサロンは静かな喝采に包まれた。

アンコールではF.シューベルトの「即興曲90-3」と、ショパンの「革命のエチュード(練習曲作品10-12)」を披露。最後まで贅沢な演奏会となった。

梅雨どきの週末の夜に、家でまったりとくつろぎながら、最高峰のピアニストの演奏を聴くひとときを。来週6月21日(日)のオンラインコンサートでは、辻井が得意とするF.リストの楽曲の他、M.ラヴェルやC.ドビュッシーといった近現代を代表する作曲家の作品も演奏されるとのこと。繊細な指先はどのように音楽を紡ぎ出すのか、楽譜を眺めて空想するだけでも楽しみだ。

また、7月4日(土)20:00からは、ヴァイオリニストの三浦文彰と辻井のデュオによるオンライン・サロンコンサートが配信される。深い情熱を技術にのせる若きデュオの演奏を、お楽しみに。


文◎安藤さやか(BARKS編集部)

■今後のオンライン・サロンコンサート予定

■辻井伸行オンライン・サロンコンサート
第3夜<ラ・カンパネラ~ピアノ名曲集>
2020年6月21日(日)20:00~

第4夜<悲愴 月光 熱情~ベートーヴェン3大ソナタ集>
2020年6月28日(日)20:00~

https://eplus.jp/tsujii-online-salon/

■三浦文彰×辻井伸行 オンライン・サロンコンサート
2020年7月4日(土)20:00~ 
https://eplus.jp/miura-tsujii-onlinelive/

◆辻井伸行 オフィシャルサイト
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