【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第101回「番外編 教科書に載ってない信長暗殺の真相と謎 第二弾」

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城コラムを毎月書く中で50回目の番外編として2016年に「教科書に載ってない信長暗殺の真相と謎」を書かせてもらった。誰も期待していないのにも関わらずなんと第二弾である。第一弾と重複するが歴史マニアとして言わせてもらうと教科書の教えは間違ってるとまではいかないが、誤ってる情報が非常に多い。そこをもっともっと更新していかないと歴史の教育に発展がない。第一弾でも熱く事細かに書いたが、第二弾はもっともっとわかりやすい文章で集中力のない人にも歴史が興味ない人にも理解してもらえるように書きたいと思う。いや興味ない人はこのコラムなんて読んでねえわ。

私は第一弾を書いた後、熱くなり、火照り、よっぽど止まらなくなり、更に調べた。謎で良いと言いながら真実が知りたくなるのが歴史の魅力でもある。知り合いの歴史マニアと情報交換を何度も行い、おや?やっぱりその説あるよね?と思うことも増えた。よって今回は断定するのではなく、2020年の気持ちで、今の時点での考えで、こうだったんじゃないか?こうだった説、それを書いてみようと思う。何度も言わせてもらうがこれが真実ではないし、宣言するわけじゃない。歴史は言ったもん勝ちのところが多々あるが、自分が正しいとは一切思っていない。でも現時点で私はこう思う。あなたはどう思いますか?で良いと思うわけである。否定し合うのはフェアーじゃない。

まずこれは宣言しても良いだろうということを先に書くと、信長公は気性が荒く、短気で、残酷で、とんでもないうつけ者だったという書かれ方。これはやはりNOだ。確かに「うつけ」と呼ばれてはいたが、根拠も無しにそういう人間だったと歴史に書かれているだけと宣言しても問題はないと思う。ただやはり変わり者ではあったわけで、いわゆるスター気質のタイプだったと言える。普通が通用しない人間。考え方、感じること、見えているもの、ビジョン、それが普通の人には理解し難い発想の持ち主だったということ。信長公は自分の正義の為に、平和な世の中と平和な社会を作る為に心を鬼にし戦をし、自分の私利私欲の為に生きる人間をとことん滅ぼして行った結果、あのような人物像に祭り上げられているということだ。


織田信長

信長公の時代は貧富の差が激しく、農民は皆食えず、朝廷や貴族は何もせず浮かれ、武士は領地争いの為に戦ばかりをし、日本という国がまとまっていなかった。何故人は争うのか、何故傷付け合うのか、何故階級があるのか、何故宗教があるのか、それを紐解いたところ、自分がこの国を治めたら戦いのない、誰もが幸せな国に出来るかもしれない、ならば今ある悪をすべて叩き潰さないといけない、そう信じた上での行動であった。その想いを宣教師であるルイス・フロイスに会った時に全部話していて、その内容を書き留めていたルイス・フロイスの文章は従来の資料よりよっぽど真実味があるし、信長の思考や人物像がリアルなのだ。信長公は戦いもない、宗教もない、飢える人がいない幸せな世を作りたいと願っていた。未来を先々まで考え抜き、頭を使って行動した天才だったのだ。仏教やキリスト教を滅ぼそうとしたのではなく、そういった宗教を使って戦争を起こしたり、階級が決まってしまったり、それぞれが信じる神を掲げ合い争い事を起こしてはこの国が、そしてこの国の文化が駄目になると判断したのである。そう考えた武将は信長公が最初だったと断言出来るだろう。

本質に迫ろう。信長公は絵を描いた。日本の未来の為に、幸せな社会と文化を定着させる為に思い切った行動に出る。それは自分で描く織田信長暗殺計画。前代未聞のマッチポンプ式の一大クーデターである。

それを知っていたメンバーは、正室の濃姫、側近の超有能な明智光秀、自分が幼少の頃から面倒を見てきた才能のある徳川家康、農民から這い上がってきた頭の切れる羽柴秀吉、秀吉の正室の寧々の5人、自分を入れた計6人の完全なるトップシークレット。そこで想いを打ち明ける。

信長公が凄いのは、自分が天下を取らなくても良いという発想だった。平和な世を作るには織田家が継ぐ必要などないという発想も斬新だった。自分が生きている間に自分の目論見が叶わなくても構わない、時間をかけて確実に自分が描いた世の中になれば良いと計画した。それまでの貴族や皇室が血筋で後継ぎを決めて大概がめちゃくちゃな政治になって来たことに学んだのである。当然ながらそれが理由で戦が絶えなかったのも事実。本能寺で暗殺される年、天下統一間近、このまま自分が心を鬼にしたまま武力で制圧し権力を握るとむしろ恨みを買い、戦の世の中がよっぽど続いてしまうだろうと判断。自分は世間からは残酷な人間としか思われていない。これを利用し、自分の暗殺を計画し、その後の未来の道順をすべてこの5人に伝えたのだ。

流れはこうだ。

残酷な信長公を側近である明智光秀が撃つ、それを農民出身の羽柴秀吉に仇を取らせヒーローにする。この時点で信長と光秀はドロン。仇を取った者が位が上がるので、秀吉に天下を取らせる。それを家康がフォローする。簡単に言えばこれ。嘘のような本当の話だが信じる信じないはあなた次第だし、近年こういう話が浮上してきているのは事実なのだ。


明智光秀


豊臣秀吉

まず明智光秀が信長公にガチの謀反を起こせない理由を上げる。光秀は齊藤道三の家来、後に信長公の正室となる濃姫は齊藤道三の娘。光秀は元は濃姫の側近であり、濃姫からすると光秀は歳の離れた兄のような存在。嫁入りする時も道三に「濃姫と一緒に織田の家臣になれ」と言われそれを守り織田家、信長公に支えてきた。信長公に歯向かうは濃姫に歯向かうことになる。濃姫に歯向かうは齊藤道三に歯向かうことになる。まず、それは絶対にないと言い切れる。絶対に。そして何よりも本能寺で信長公の首がなかったという事実。これは本当におかしい。その後光秀は秀吉に撃たれたとされるが、光秀の首も出て来ていない。まずこの二つの首がなかった時点で絶対におかしいのだ。謀反を起こしたら明智家は全員殺されて当然なのに、すぐさま秀吉の家来になっている。しかも自分達よりも位の低い秀吉の家来にされても何も問題が起きず収まっている。戦国時代にそんなことが簡単に成立するわけがないのだ。首がない=ドロンはこの時代だったらいくらでも有り得る。もしかしたら当時は、本能寺の変から50年くらいはドロンだった説が噂されていたかもしれない。だが信長公が亡くなって随分と時が経ってから書かれた書物が現代まで伝わって来てしまっている。今日までの信長暗殺の歴史はおかしな話でどこまでいっても首があった場合の書き方をしているのだ。でも事実は首がなかったとされる。これは紛れもない真実、光秀の首もだ。なので私は首がなかったという事実を受け止めての真相を追及しているだけなのである。

信長公が後継に秀吉を選んだ理由を上げる。まず農民出身ということ。こういうタイプが天下を取ることはこれまでに当然なかったことであり、貧しい人達にとって親近感が持てる。階級のない世の中にしたいと願う信長公も自分が武士であることの矛盾を抱えていた。何より秀吉は頭が良く、ひょうきんで誰からも愛され、周りからの信頼も熱く、交渉事も得意で農民から絶大の支持を得ていた。残虐な信長公が暗殺されるというディープインパクトで大きく世の中を変えるにあたり、その後釜に農民だった人間が天下を取るというサクセスストーリーは当時の貧しい日本の未来にとって最高のプロモーション、最大のインパクトになると判断したのである。ただお調子者、派手好きなところがある秀吉を支える為に、判断力に長けた粘り強い考え方を持つ家康にフォローさせるというやり方を取った。


徳川家康

家康は天下を取るというタイプではなく、スターの横で輝くことが似合う人間だった。それを信長公は見抜いていたのだ。家康はまさか後に自分が天下を取るなど考えもしなかったはずである。なので豊臣秀吉の側近となり彼を支えて行くだけで十分だと考えていた。だがここで問題が起きる。秀吉は寧々との間に子供を授からなかった。秀吉は信長と同じ考えを継承し跡継ぎは自分の子ではない豊臣秀次を推していたが、側室の茶々、後の淀殿との間に生まれた子を、淀殿が後継ぎとさせようと必死になってしまった為にすったもんだが起きる。秀吉は最終的には「この後は家康様にお任せする」と言い残して逝ったが、この話を知らない残された豊臣軍と徳川軍の政権の奪い合いで関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣と戦が続いた。最後に天下を取った家康が施した江戸幕府の政治のやり方がいわゆる織田信長公が望んでいた平和な日本、平和な社会というものである。それが見事に260年も続いた。日本の歴史で戦いもなく平和が300年近く続いたというのは縄文時代と江戸時代だけである。(縄文の平和はもっと長いが)家康も血筋で後継ぎを取らさないというやり方を守り、大奥の中でたくさんの子供を育て、または外からスカウトし、将軍職は器があり才能のある人間にしか継がせないやり方を継承させた。江戸時代は貧しい時代だったと教科書に書かれてる場合があるが、全然そんなことはない。戦いもなく260年も続くほど平和な時代だったと宣言したい。ただ鎖国をしていたことで外からの文化が入って来ず、幕末は当時の世界基準で言うと時代遅れになってしまっていたことは否めない。


秀吉の正室、寧々


長の正室、濃姫

これはどこまで本当かわからないが、信長公と濃姫はドロンした後に農民になり岐阜と長野の県境でひっそりと暮らしていたという説。生きている間はその場所にクーデターのメンバーがミーティングの為に集まったとされる。おい!夢があるな!第一弾でも書いたが明智光秀はドロンした後、天海というお坊さんになり家康の側近として活躍したという説が強い。この時代に一般の人間が戦国武将の顔など知るわけもない。ドロンの後の第二の人生、こういうことが普通に起きていたとされる。家康は天海の意見を良く聞き尊重したとされるが、そもそもが大先輩。若かりし頃に光秀に良くしてもらった恩は絶対に忘れなかったはずだ。余談だが海外でもこのドロン方式は多く使われていて、アドルフ・ヒトラーも処刑されず生き延びていたとか、スターでいることに疲れた人間もドロンするらしいので、もしかするとエルヴィス・プレスリーもマイケル・ジャクソンもドロン説かもしれない。事実そういう噂が後を絶たない。まあ現代の人間がドロンするのはネット社会の中では難しいだろう。

話を戻すが、城コラムなので城の話もする。安土城の天主は何故燃えたか(お約束だが安土城は天守ではなく天主だ)。ここまで話すともはやわかりやすい。農民出身の正義のヒーロー秀吉が政権を握るのなら残酷な信長公の城などいらないし、その城が焼け落ちることですべての人間に対し織田信長の時代は本当に終わったんだなという証明になる。むしろ燃やせと信長公が秀吉に言ったとも考えられる。こうなったら誰が火を付けたとかはどうでもいい。あれほどの安土城を燃やせるのは、燃やす指示を出せるのは信長公一人にしか出来ないと思うのだ。元は権力の象徴や威嚇として建てた安土城。自分がドロンした後にそんな物はよっぽど必要ない。それよりも信長公が欲しかったのは平和ただ一つだったのだ。

歴史は勝者が良いように書く。そして後に後付けで書かれてしまう場合が本当に多い。調べるといろんな答えが出て来る。それを消去法で考えると真実が浮き彫りになって来る。歴史マニアとして実はもっともっと細かく書けるのだが遠慮したい。比叡山焼き討ちの真実は随分と違うことなど核心をついたことも書けたかもしれないが第一弾でも述べたように、宣言はしたくないのだ。言ったもん勝ちで優越感になど浸りたくない。どこまで行っても自分の気持ちで良い。それが歴史の本当の魅力であると私は信じている。何よりも織田信長という人の魅力、これが半端なく凄い。それで十分夢を見させてもらっていることに感謝したい。戦国時代の後半、たった20~30年の間にとてつもなく歴史が動いたという事実。その先駆者は間違いなく織田信長公だ。凄過ぎる。

織田信長暗殺、本能寺の変の真相として、朝廷の指示による暗殺、織田家の中からの暗殺、秀吉と家康がグルになっての暗殺、もちろん明智光秀の謀反などいろんな説があったわけだが、今回私は「信長公本人が自作自演で、才能と素質がある家来と共に計画し実行した日本の史上最大のクーデター説」を推薦したい。

女性よ。歴史はロマンだよという男に気をつけろ。

この熱き想いでもう一度安土城に、訪れたい…。

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