【対談】44MAGNUMのJIMMY × 大石“jack”征裕が語る、<JACK IN THE BOX>と全ての原点「40周年のケジメです」

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■流れはDIE IN CRIESと
■kyoちゃんのソロで変わりました

──1987年ぐらいに44MAGNUMは“脱ヘヴィメタル”のスタイルに変わっていったとのことですが。

大石:『LOVE or MONEY』のレコーディングでLAに行ったとき、実はJOEが44MAGNUMの方向性の変化に反対していたんですよ。

JIMMY:本当はBANも反対していたんだけどね。

大石:BANちゃんはもっと反対していたかな。それで雲行きが嵐の方向に向き始め、そしてJOEが脱退するという話になり。でもその前に、『STILL ALIVE』(未発表音源として1989年4月にDANGER CRUEから発表)のデモを録っているんですよ。実は4枚目のアルバムもハードロックなものを作ろうとしていて。ところがその後にPAULが手術して、大量輸血で血が入れ替わったから「新しいことをやりたい」と言い始めて。

JIMMY:今にして思うと、あのデモを録った頃が一番和気あいあいとしていたかも。メンバー同士、仲良かったよね。

大石:中野マッドスタジオで、一晩で9曲を録ったっていう。

JIMMY:でもその後、『LOVE or MONEY』のようなサウンドに変わっていって、それをJOEもイヤがっていたし、BANもめちゃめちゃイヤがっていたよね。

大石:覚えているのは、六本木のバー。僕がカウンターの内側に入って、メンバーに「どうする?」って聞いて。PAULは「俺はこの道しかないと思う」と。「じゃあ、みんなもそっちに付いていくか?」って話をして、結果、そっちの方向に舵を切ったんです。

JIMMY:44MAGNUMは当時、ちょっと休憩したら良かったのにね。もったいないことをした。感情論じゃなくて、それまでにやってきたことを考えると、突然の変化はあかんかったな。……この対談、完全にミーティングみたいになってるけど(笑)。


▲JIMMY (44MAGNUM)

──『LOVE or MONEY』の前に、各メンバーのソロ曲を収録したソロ集『FOUR FIGURES』(1985年12月発表)をリリースしましたよね。新しいものを模索していることは伝わってきたんですけど、直後、いきなり大胆な方向転換をして、メンバーのコスチュームも変わっちゃいましたからね。完全にメタル要素がなくなっちゃって。「バンギャみたい」とJIMMYさんから呼ばれた筆者としては、当時ショックだったわけです。

JIMMY:うん、分かる分かる。

大石:だからその言い方のまま言うと、44MAGNUMはあのままの路線を貫いて、バンギャを熱狂させ続けるべきだったわけです。

JIMMY:自分のやってきた路線を変えたいと、あそこまで思ったのはそのときだけで。俺とPAULはヘンやったな。なんでふたり同時にそういう方向に向かおうとしたのかって。俺とPAULのどっちかだけだったら、44MAGNUMはあそこまで路線を変えていなかったと思う。

大石:でも44MAGNUMが解散するきっかけ、REACTIONが解散するきっかけも、全部、僕の誘導だったかもしれないんですよ。

──どういうことですか!?

大石:BANが、REACTIONのイベントにゲストベースで出演したんです。それをきっかけにBANの気持ちはそっちに行ってしまう。純也も当時、REACTIONのメンバーとは意思疎通が全然ダメになっていて、BANちゃんとのセッション後、気持ちはそっちに行ってしまう。それでGRAND SLAMができるんです。

JIMMY:BANは、44MAGNUMが解散した1989年、「もうベースをやめる」と言ってて。俺は家まで行って、「なんでやめんねん。おかしいんちゃうんか。やめるな。それあかんやろ」って怒り交じりに説得したんですよ。BANはその時、泣いてたな。そうしたら後にGRAND SLAMが誕生したのかな。俺の説得の後、純也とのセッションがあってGRAND SLAM結成に動いたんだと思う。

大石:1989年に44MAGNUM、REACTION、翌1990年にD'ERLANGERが解散するんです。これは僕のせいだと思っていたので。反省をしなきゃいけない、やり方を変えなきゃいけないと。だったら組織にしましょうと。それまで自分対バンドとローディでやってきたのがDANGER CRUEだから。


▲大石"jack"征裕

──DANGER CRUEを組織にした段階で、MAVERIC DC GROUPになったんですか?

大石:いや、会社名をMAVERIC DC GROUPに変更したのはもっと後(2000年4月)。まず、ちゃんとした組織にするにあたって、各部門に専任者を付けるべく、いろんな人にも会ったわけです。例えば目黒鹿鳴館で照明をやっていた上村勉。鹿鳴館の後、上村はアミューズに入りDEAD ENDのマネージャーをやっていたんだけど、DEAD END解散後に一度は音楽業界から離れていたんですよ。そこを口説いて。組織になったのが1992年なので、ちょうどDIE IN CRIESが始まる頃。1990年12月にZI:KILLからyukihiroが脱退して、同じ頃にD'ERLANGERを解散していたkyoちゃんと結成したのがDIE IN CRIESで、上村が中心になってDANGER CRUEがマネージメントをやり始めたんです。1992年にはDIE IN CRIESがBMGビクターと契約して、マネージメントとして再び盛り返していくんですよ。DIE IN CRIESがうちにとっての初めての武道館アーティストなんです。

──そうでしたね。当時、音楽雑誌ロッキンf編集長の阿部さんが、DIE IN CRIESの武道館ライヴを観ながら、しみじみと語っていましたから。「大石さんにとって初めてなんだよ」って。

大石:実際にそうだったんです。DIE IN CRIESをうちがやり始めた頃、D'ERLANGERでkyoちゃんと一緒にやっていた一郎と哲が来て、「ベースとヴォーカルを探しています」と。そこで決まったヴォーカルがNAOKIで、BODYというバンドがスタートしました。NAOKIはソニーに所属していたから、そこからうちとソニーの関係も始まったわけです。1992年にはL'Arc-en-Cielとの出会いもありましたから、このあたりがDANGER CRUE第二期の始まりですよね。

──その当時から、危ないヤツらの集合体だったDANGER CRUEが、いわゆるメタルではないフィールドのバンドも手掛けるようになっていくわけですね。

大石:流れはDIE IN CRIES、それとkyoちゃんのソロで変わりましたね。

JIMMY:所属するアーティストの世代は変わっていくわけだから、音楽性もやっぱり変わっていく。初期はジャパメタの時代があったけど、その後は世代と共に様々なスタイルの音楽やバンドに広がっていったんだろうね。

大石:あと側面にはYOSHIKIの頑張りがあって、EXTASY RECORDSがどんどんのし上がっていったことも大きいと思いますね。レーベルとしては先輩のDANGER CRUEがあって、後輩にはEXTASYやダイナマイト・トミーのFree-Willなどがある。彼らが1987〜1988年あたりから頑張っていたんです。ちょうどその時期、DANGER CRUEはシュリンクしていたので、譲り渡したという意味ではないけど、やっぱり彼らの頑張りも大きい。あと、鹿鳴館でやっている年末恒例イベント<ALLNIGHT METAL PARTY>を企画したのは僕なんだけど、結局、YOSHIKIがそれを引き継いでいってくれたから。

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