【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第114回「村上城(新潟県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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越後、新潟県、村上市にある名城村上城のご紹介である。とうとう村上城に行くことが出来た。そしてこのコラムでようやく村上城を紹介出来ることとなった。私にとっても憧れの城、新潟の名城だ。小学生の頃兄貴が持っていた城の本に最高な形で紹介されていた村上城。石垣の美しさ、城の構造、平面図、当時の城下町の大きさなど、この城は凄過ぎやしないか?と思ってはいたもののなかなか行ける機会がなかったのだが、tvkの私の城番組のコーナーのロケでようやく念願が叶ったのである。村上は江戸時代は新潟第二の大都市として栄えた。目の前が日本海。後ろは山に囲まれた大地、135mの臥牛山に築城された村上城。本庄氏が1500年代初頭に築城したのが始まりで、中世の山城だったのを1598年に堀氏が近代城郭へ改修。この時に3層の天守も建てられた。この頃の縄張りが現在の村上城の原型になる。その後1649年に内藤氏が入城し、これまた大改修を行う。建てられてから40年の天守も幕府に修復申請をし、建て直しの2代目天守が完成。天守の老朽化を理由に建て直しを図ったらしいが、当時の日本の木造建築は現代でも保存が可能な程の技術を持っていたわけなので、40年で壊れるわけはなかったのだが、リノベーションはせず単純に新しい天守に建て直してやんぜということだったのかもしれない。だがこの天守も1667年20年と持たずに落雷によって焼失してしまい、その後は財政難もあり再建されなかった。村上氏、松平氏と城主が変わるが最後は内藤氏が幕末までこの城の城主となる。

一見、臥牛山だけの山城と思うが、江戸時代は城下の面積が半端なく広く、城下の三の丸を始めとするたくさんの曲輪と武家屋敷が機能し、たくさんの門、櫓、石垣、土塁、堀、橋、何キロにも渡る城下町、商店街が広がっていた。これが当時の絵図でしっかり残っており、CGでも再現され、村上城に関する当時のデータや、復元絵図などがめちゃくちゃ充実している。検索すると山ほど出て来る。それくらい凄い城であったことと、それくらい人の心を掴んで離さない魅力に溢れた城なのである。残念ながら明治時代に城下町の石垣や建造物はすべてと言って良いほど破却され、現在は跡形もない。中には現在の城下町の中に石垣や堀の名残が発見出来るらしいが、散策してはみたがなかなか難しかった。これはもうイマジンに頼るしかない。大手門も(追手門)相当な大きさを誇り、さすがは一度松平氏が治めていた城だ。臥牛山も当然ながら城として素晴らしいのだが村上城下の三の丸のディティール、これが本当に凄い規模を誇っていたのである。それだけ整備されていたことで人が集まり、新潟第二の都市と言われ発展したのだろう。門があった場所は車でも通れるし、真っ直ぐな道が多く、堀だっただろうなと確認出来る道もある。現在は城の麓に駐車場があり、一文字門跡から山を登ることになる。ここに升形の大きな石垣が残っているがこれもほんの一部にしか過ぎない。殿様の暮らす御殿の跡、山麓居館跡がある。この曲輪も堀に囲まれておりコーナーには3層の櫓が建っていた。臥牛山に登らなくても暮らしが完結する。スペースも相当広い。それくらい三の丸が充実していたのである。



本丸へは七曲りという道をひたすら登っていくが、私は予習も含めこの時点で気付いた。この城は大手と搦手が本庄氏時代は逆だったはずだと。四国香川の丸亀城もそうだが、戦国時代は逃げるとするならば海や川に逃げる。よって搦手は水側に作る。先に言ってしまうと村上城は城の裏、搦手側の防御が凄まじい。曲輪の数、竪堀の多さと凄さ、門の多さ、搦手の麓にある田口曲輪が本来の三の丸扱いだったと思う。いや確実にそうだと言い切れる。北からは伊達に攻められるし、東からは上杉から攻められる、越前からは前田氏を始め京までの道をたくさんの武将が治めている。よって敵は海からは絶対に来ず、必ず山側から攻めて来る。城下町の場所も逆にしたのである。これを古い言い方で「テレコ」と言う最後の世代が私の世代である。おもくそ昭和である。


山頂に着くとまず四ツ門跡。この門は機能がとても面白い。その名のごとく4つの出入り口を一辺にまとめた門なのである。まず正面、そして裏の門、右が本丸側、左が二の丸側、敵が進入してきた時点でこの門を潜らせる中で一気に仕留めるという極悪な仕組みである。山頂の曲輪群は縦長であるが、この4つの門のウエスト部分はエイミーワインハウスの腰のように実に細く、むしろ土橋が元になっていたのでは?とイマジン。そのスペースを全方向に移動出来る交差点にして侵入者を櫓門の中で、室内で仕留めるという発想。まずこれにやられる。この時点で永眠ワインハウスである。日本全国でこういう門は見たことがない。



二の丸には搦手側に玉櫓が、城下町側には靭櫓があり、武器蔵があったとされる。石垣の下には竪堀が2本あるらしいが、草がボーボーで確認出来なかった。その先に抜け穴もあるとのこと。どこまでも忍者的な発想を持った城である。本丸方面へ進むと現在は老朽化した石垣を整備されていて、ブルーシートが被せられていたりもするが、ここから遠くに本丸の石垣も見える。もうなんだか凄い。感動する。山頂の城のヘソを抑えている御鐘門跡の枡形を超えると出櫓の石垣がその名の通り唐突に出っぱって来る。この櫓も威嚇が凄い。リーゼントのように出っ張って来る。アキ・カウリスマキ監督のレニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカのリーゼント兄弟のようだ。この下の二段になった導線の途中にあった黒門跡。これがまたセンスがある。本丸へ向かう道と、東門側から登ってきた道の2つの道をこの櫓門で1つに縛る。だが、門から先もどっちの道にも繋がることが出来ない仕組みになっているのだ。2つの道のゲートでありながら交じ合わせてもらえない仕組みなのだ。永遠にダリル・ホールはダリル・ホールのまま。ジョン・オーツはジョン・オーツのままという具合である。こういう構造の門も見たことがない。城内の面積が縦長なだけに、ここでいかに敵の侵入を食い止めるかが計算されている。本丸側の角には平櫓があり、石垣の下からの敵も攻撃出来るし、本丸への侵入も防ぐことが出来る仕組み。素晴らしいセンスに感動。



この先がいよいよ本丸だが、面白いのは本丸へ入る冠木門と搦手の埋門が隣り合わせになっているのだ。なので私はよっぽど築城当時は大手が逆だったと推測したのである。現在の搦手は3つも出入り口があるのに対し現在の大手は1つしかない。七曲りの大手道は途中に曲輪が1つもなく、あっという間に降りれる道だが現在の搦手は中世の山城よろしく、曲輪を始めとする仕掛けが非常に多い。ここにも注目したい。冠木門と埋門がある曲輪の大きな犬走りとも言える場所にはそれぞれのコーナーに巽櫓と乾櫓も存在した。そこから冠木門を潜り、本丸正門へ。本丸天守曲輪には5基の櫓が多聞で繋がっていたそうで、城下を見下ろす角に3層の天守が聳えていた。初代天守の絵図は残っているので復元は可能かと。5基の櫓を多聞櫓で繋ぎ、天守もある。素晴らしい。どの城にも負けていない。多聞櫓に入る入り口の石段が実に良い味を出していた。ここからの城下町と日本海の眺めは完璧である。感動し過ぎて興奮し、天守台のベンチで腕立て伏せを30回行った。


ここまで到達して下山するのはもったいない。埋門から降りて中世紀構造群を見学したい。見事なまでの中世の山城の面影が残っていて、曲輪の数も半端ないし、竪堀も凄まじい。搦手が大手だったことが改めてわかる。麓まで降りず、城内を横に移動し、田口中門跡と、坂中門跡へ。石垣が崩れてはいるが幕末までしっかりと機能していたのでここ最近の老朽化とのこと。復元調査真っ最中だった。この先の城の麓には坂口御番所跡が、そして田口門跡と田口曲輪となる。この辺の石垣や土塁の朽ち果て方、ナウシカのオウムか!主題歌は安田成美!


坂中門跡から城内に戻ると突き出た曲輪があり、これは鉄砲倉跡とのこと。土塁が高くなった櫓台が2つ見て取れる。この場所の物見台であろう。その裏の窪みに馬冷やし馬という大きな池がある。近くには井戸もあり、城内の水の確保の為に綺麗にひっそりと佇む。この池を隠すために鉄砲倉にある高くなった土塁とその櫓が建てられていたような気もする。ここから最初の四ツ門へはすぐ行けるし、城の麓へのもう1つの道が続いていた。搦手が迷路のような村上城である。


とにもかくにも村上城は凄いのだ。レベルが違い過ぎる。もっと評価されるべきだ。これが、この規模が全部残っていたら確実に日本海側のナンバー1の城だった。城下町も含め金沢よりも確実に凄い街だったと思う。惜しい。本当に惜しい城だ。だが今残っている部分だけでも相当な城と断言したい。現在の村上駅周辺までがすべて城内であり、三面川を外堀に、搦手の7号線、日本海東北自動車道周辺までがすべて城の敷地だったのだ。是非イマジンしてほしい。村上市のホームページや数々の説明書き、CGなどがネットにたくさんアップされている。みんな大好き村上城なのだ。城マニアが泣いて喜ぶ村上城なのである。


ロケ後に本物の鮭を食べにイヨボヤ快感、間違えたイヨボヤ会館に行った。敷地の隣にあるサーモンハウスで鮭の海鮮丼を戴いた。サーモンのレベルが違った。普段食ってるサーモンはセーモンだと思う。いやガーファンクルかもしれない。昔弁当屋仕出しのバイトをしていた頃、新潟県村上出身の先輩がいて、こう言われたことを思い出す。

先輩「卓偉な、日本のシャケ弁のシャケはな、850円以上しないと本当のシャケ使ってねえんだよ」
私は聞いた「じゃあ850円以下のシャケはシャケじゃなくなんて言う魚なんすか?」
先輩「名前は知らねえけどさ、雑魚だろ、シャケに似た魚使ってんだよ、釣る予定にない網に引っかかって来る魚なわけな」
卓偉「マジすか?」
先輩「ああ、マジだ。寿司もよ、マグロと見せかけてマンボウ、エンガワと見せかけて深海魚、そんなんザラだからな」
卓偉「先輩はなんでそんな詳しいんすか?」
先輩「実家が寿司屋なんだよ、お前シャケ好きって言ってたろ?だったら本当のシャケの味を知ってほしいと思ってよ」

で、私はその会話から約25年経ち、めでたく村上へ行き、本場の村上名産の本気の鮭を食べることが出来たのである。確かに。美味過ぎた。全然違った。村上の城下町で他の鮭も食ってみたが全然違った。リアルに感動。


イヨボヤ会館を出る時に観光バスの運転手と軽くお話しをさせてもらったが、鮭を食うのであれば出来ればどんな料理も1000円以上、ちゃんと奮発しないと本物の鮭は味わえないよと言われていた。同じ事務所の仲間のBitter&Sweetの長谷川萌美ちゃんも新潟県長岡出身、このロケが決まったことを話すと「卓偉さん、村上はとにかく鮭です。鮭を食べてください」とのこと。長岡と言えば?と彼女に聞くと200%の確率で「花火です」と満面の笑顔で食い気味に答えてくれる彼女に「何のロケで行くんですか?」と聞かれ「城なんだよ」と答えると「城?」と軽く目が飛び出そうになっていた。

弁当屋の先輩と朝の仕出しをしている時の何気ない会話を思い出す。

卓偉「そう言えば村上って村上城ってありますよね」
先輩「なんで知ってんだよ?でも城なんてねえよ」
卓偉「いやいやあるじゃないすか、村上城って城が」
先輩「もう城なんてねえよ、山だけだよ」
卓偉「いやいや石垣とかいっぱい残ってるじゃないすか」
先輩「小学生の遠足で登ったけどなんもねえよ」
卓偉「何もなくないすよ、石垣の城が残ってるじゃないすか」
先輩「なんだお前、ちょっと面倒くせえな」

あの日から約25年、今、私は改めて先輩に言いたい。小保方さんの記者会見のように言いたい。

「村上城は、あります!」

あぁ 村上城 また訪れたい…。



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