【対談連載】ASH DA HEROの“TALKING BLUES” 第13回ゲスト:N∀OKI [ROTTENGRAFFTY]

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■『UMB』やオープンマイクのクラブに飛び込んで
■恥をかいたら絶対に上達するのは分かってたから

──N∀OKI さんは19歳とか20歳のとき、どんなマインドで「盲目の街」の歌詞を綴ったんですか?

ASH:僕は、勝手に東京の歌かなと思ったんですよ。社会風刺的なものだなとは思いました。

N∀OKI:ホンマに(笑)? そんな深くないで、たぶん。まず当時ってCDを出すんが一苦労やったという背景もありつつ、昔はけっこう素直に書いてたんですよ。でもあれはちょっと背伸びして書いてたかもしれないけど。

ASH:先輩に使う言葉じゃないですけど、早熟というか、めちゃくちゃ完成されていますよね。あの歌詞はすごく伝わる。

N∀OKI:中学や高校のときから、詞は好きだったから。詞がいいバンドとかがが好きで、ライブもそうだけど、CDを買ったら一語一句逃さずに聴いて、音や曲が良くても詞が良くなければ、自分の中でどんどん排除していくみたいな。

ASH:ティーンエイジャーの頃、特に強烈に引っかかった1枚ってあります?

N∀OKI:自分の中に2つあって、ひとつがTHE MAD CAPSULE MARKETSの『HUMANITY』。もうひとつがTRACYの『GIGA』。だからKYONOさんと鎌坂さんのヴォーカルスタイルが、自分に一番入っているかな。ルーツはそこになると思う。


ASH:ヒップホップはどうですか?

N∀OKI:ROTTENGRAFFTYを組むときには、BUDDHA BRANDとかも聴いてたかな。“ROTTENGRAFFTYは何でもやりたい、音楽的にNGなしでやりたい”みたいなものがあったから、ヒップホップも聴かないとって思ってたし。地元にレゲエのサウンドマンとかもけっこういて、その人らのイベントにも行ってて。レゲエのセレクターとかDJからミックステープをもらったり。いい環境が近くにあった。それとTHA BLUE HERB。

ASH:ああ、やっぱりそうでしたか。

N∀OKI:THA BLUE HERBは、ヒップホップでもちょっと異端でパンクにも通じる感じがあって。THA BLUE HERBを聴いてから、海外のものだろうが、どんどん取り入れるようになった感じですね。

ASH:THA BLUE HERBは僕も大好きで、N∀OKIさんのスタイルの根底に絶対にあるだろうなって思っていました。

N∀OKI:俺はミクスチャーラップみたいなのを避けたかったんですよ。完全にそのスタイルを確立させたバンドがすでにいたから、自分らもそれをやっちゃうと、よくあるスタイルに埋没するなって。建志(Kj / Dragon Ash)にも言ってるんですけど、Dragon Ashがガーンと売れ始めたとき、俺は聴かないようにしてたんです。寄っちゃうのはイヤだったんで。

ASH:めっちゃおもしろい、その話。

N∀OKI:さっき取り入れるとは言ったけど、自分の言葉に説得力が欲しくなってきて。そうするための経験として、何が一番いいんかなと思ったとき、今でこそすごいフリースタイルバトルが盛り上がってるけど、2006年ぐらいに『UMB (ULTIMATE MC BATTLE)』というのがあったんですよ。その京都大会に、名前を変えて誰にも言わずにエントリーしたという。

ASH:あの『UMB』に出てるんですか? ヤバッ!

N∀OKI:3回ぐらい出てる。どこの馬の骨かも分からないヤツだったとしても、実力さえあれば“コイツはヤバい”って白黒ハッキリ付けられるんで。そこでポンポーンと勝っていったことは自分の自信にもなったし。あとオープンマイクのクラブで飛び入りセッションとかもしたり。


──その場のアドリブでラップを決めたり、ラップバトルしたり? そういう活動を一人でやっていたんですか?

N∀OKI:そう。予定調和なものばっかりでは絶対にあかんなってことは、2002年ぐらいからずっと感じていて。例えばツアーのMCでも、“アイツは前と一緒のMCしてる、変わってない”ってものでは面白くないなと。ツアーの土地土地で、その場所でしか言わないことも必要やろって。だからMC内容を用意するのをまずやめようと。それでインプロ感とか即興感を磨くために、『UMB』やオープンマイクのクラブに飛び込んで、恥かいてみようって。実際、ムチャクチャ恥もかいたし、“なに、コイツ”みたいな空気になったこともある(笑)。でも恥をかいたら絶対に上達するのは分かってたから。何でも吸収したかったし、絶対に何かあるはずだって、どんな現場にも夜な夜な行ってましたね。テクノのライブ現場にも行ったし、自分がDJになったことを想像しながら、“俺ならこう盛り上げるな”とか。同業者というよりも、違う畑の人らの盛り上げ方を勉強しに行ってた。

──“勉強”という意識だったんですか?

ASH:新しいものをインプットしに行ってたわけですよね?

N∀OKI:うん、楽しいのもあるけど。例えばレゲエのサウンドマンは歌わないけど、つなぎのMCで盛り上げたり。あと、いいところで曲を切って、“欲しいっしょ? 欲しがってもあげない……でもほら、欲しいっしょ?”みたいな感じを作るのが上手やったり。そういういろいろなものを吸収して、今の自分が出来上がっていったと思いますね。

ASH:僕のルーツもヒップホップとかレゲエだったので、ライブハウスよりもクラブで遊んでいたんです。だから、すごく分かるって思いながら聞いてました。ヒップホップには、ロックとは違うワードセンスや言葉の波及力、伝わり方ってありますからね。地元が愛知なんで、クラブもけっこう多くて。

N∀OKI:名古屋にはいっぱいあるもんね。

ASH:当時、CLUB OZONというハコにはしょっちゅう行ってました。あと愛知はレゲエ祭が盛んだし、通称“女子大”という街にはジャマイカンバーがあって、僕、ケニアやアフリカ人の友達も多いんですよ。オープンマイクではないけど、しょっちゅうセッションで混ざったりしていたんで、N∀OKIさんの話を聞いて、勝手にシンパシーを感じました。

N∀OKI:やり続けていないと錆びていくけどね。コロナ禍になって、ライブ本数も減ったし、セッションする機会もなくなったから、かなり錆びたと思う、自分の刀が。家でどんなに練習して上手になっても、人前でやるのとは全然違う。やっぱ人前で恥かいて、良いも悪いもプロップス(評価)もらわな、絶対に上手にならない。いきなりやれと言われても、全然できないようになってるだろうから、それがちょっと悔しいなってのがずっとあるかな。


──それで思い出したのが<京都大作戦2016〜吸収年!栄養満点!音のお野祭!〜>の牛若ノ舞台でのThe BONEZ。

N∀OKI:ライブ中に電源が落ちちゃって、音が何も出なくなったやつですよね。

──そう、原因不明の電源落ちでした。音が鳴るのはドラムの生音だけ。あとハンドメガホンをマイク代わりにした声のみ、という状況で。

N∀OKI:あのときZAXは最初「叩きたくない」と言ってたんですよ。JESSEがひとり、数千人の前でメガホン片手にやってるんですが、やっぱみんなザワザワしてたし。ステージ裏のZAXのところに俺が行って、「やろう! 生ドラムのビートがあったらイケる」って。それでZAXがリズムを刻み始めたから、俺の役目は終わったと思ってたんです。ところがJESSEが、「N∀OKIはどこだ!?」みたいに叫んで、俺がステージに上げられて(笑)。

──それで始まったのが、JESSEとN∀OKIのフリースタイルラップ。そこから電源が復旧するまでの数十分間、次々にいろんなバンドのシンガーがラップでつなげていったんですよね。

N∀OKI:俺がラップする前、“ZAXの次のドラム、誰にしよう”と思ってたんですよ。うちのHIROSHI(Dr)もそこにいましたけど、アイツ叩けるかな?と。そうしたらHIROSHIがいきなりシンバルからシャーン!って叩いて、“えっ、ビート違うんか!? なんで、こんなに乗りにくいの叩くん?”と(笑)。SiMのGODRiが隣におったから、“うわっ、GODRiに叩いてもらったほうが良かったわー”とか思ったり(笑)。次にCrossfaithのコイちゃん(Koie)がフリースタイルラップしたり、Tatsuyaがビート叩いたりして。でもね、あのときは俺、打ちのめされたんですよ。マイクがないからお客さん全員に声が届かないし、HIROSHIのドラムも悲惨だったし(笑)。

──いやいや、何を言ってるんですか。ライブ中断か!?と一度はテンションが落ちたお客さんたちが、みんなステージ前へ押し寄せてきて、フリースタイルラップで盛り上がった、電源なしでもできる底力をみせた、というのがあの場面の真実ですよ。

ASH:やっぱ、そうなりますよね。聴きたいから、みんな前のめりになると思う。

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