【インタビュー】ディープ・パープル『マシン・ヘッド』の知られざる秘話

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ハード・ロック史における名盤中の名盤。そんな言葉から多くの読者が連想するはずの作品のひとつがディープ・パープルの『マシン・ヘッド』であろうことは疑う余地もない。同バンドの黄金期を象徴するものとされるこの作品が世に放たれたのは1972年のことだが、それから52年を経て、この4月には『マシン・ヘッド:スーパー・デラックス・エディション』が発売を迎えた。

そして、ドゥイージル・ザッパの手による最新リミックスや貴重なライヴ音源なども盛り込まれた今回のリイシューに際して、当事者のひとりであるベーシストのロジャー・グローヴァーがインタビューに応えてくれた。今、改めて彼の口いから、名盤誕生の背景について明かしてもらうとしよう。

なお、バンドは新ギタリストにサイモン・マクブライドを迎えた現布陣での最初のオリジナル・アルバム『=1』の発売を7月に控えていたりもする。歴史の裏側にも今後の動きにも、注目したいところだ。


──今回はお時間をいただきありがとうございます。僕は、ロック・ミュージックに目覚めた十代の頃に『マシン・ヘッド』の洗礼を受けました。それから50年以上を経て、当事者であるあなたにこの作品についてお訊きできることを光栄に思います。まず確認させてください。このアルバムが発売されたのは1972年3月のことで、実際には今から2年前に発売50周年を迎えています。本来ならばその時期にこのリイシュー作品を発売したかったはずだと思うのですが、やはりコロナ禍の影響などもあってプラン進行が遅れたのでしょうか?

ロジャー・グローヴァー:それはいい質問だな。ただ、残念ながら俺には答えられない。というのも、そもそもレコード会社側がだいぶ前から計画していたことだったからだ。2年ほど前から取り組んでいたんじゃないかな。すでに確定となった企画案が提示されたんで、もはや俺たちがそれに対してYESやNOを言える段階にはなかった。でも、そこでNOと言うのは愚かなことだっただろう。なにしろ彼らが信じて懸命に取り組んでくれていたわけだからね。しかも実際、全般的にはいいアイディアだと思えた。実のところこのバンドは、自らアニヴァーサリーを祝うことについてあまり積極的ではない。ほぼ毎週のように記念日やら何やらが巡ってくるというのにね(笑)。とはいえ、会社側がまた『マシン・ヘッド』を発売したがる気持ちはよくわかる。あの作品はこのバンドを象徴するものでもあるからね。それに、フランク・ザッパの息子であるドゥイージルにリミックスなどを依頼するという案が出てきた理由も理解できる。なにしろ「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の歌詞には彼の親父さんの名前が出てくるわけで、そこには関連性がある(笑)。だからレーベル側やドゥイージルが今回やってくれたことについて俺たちはとても満足しているけど、自分たちの努力が必要とされる部分は皆無だったんだ。だから正直、発売時期が今になったことについてパンデミックの影響があったのかどうかはわからない。まあでも、その影響でありとあらゆる物事が遅れたのは間違いないはずだがね。

──あなた方は、ドゥイージルとは面識がなかったのですか?

ロジャー・グローヴァー:いや、以前一度だけ会ったことがある。俺たちが<モントレー・ジャズ・フェスティヴァル>に出演した時、彼をステージに呼び込んで一緒に何曲か共演したことがあるんだ。確か4~5年前のことだったと思う(注:調べてみたところ2016年7月16日の出来事であると判明)。あの時は、彼と会えて嬉しかったよ。実は、彼の父親とは面識がなかった。彼のライヴを観るには観たけど、フランク・ザッパ自身と会ったことはなかったんだ。メンバーの中には知り合いもいたけどね。そしてドゥイージルとの一緒になった時には、俺たちはフランク・ザッパの 「ピーチズ・イン・レガリア」を共演した。あれは僕たちにとっては素敵な出来事だった。いわばフランクへのトリビュートになったわけだからね。というわけで、ドゥイージルのことをよく知っているとまでは言えないが、面識はあったし、いいプレイヤーだってことも知ってはいたよ。


──今回のデラックス・エディションに含まれているライヴ音源のうち一方は1972年のロンドン公演、まさに『マシン・ヘッド』の発売に先駆けてスタートしたツアーの際の音源です。このライヴ、もしくは当時のツアー自体についてはどのように記憶していますか?

ロジャー・グローヴァー:俺たちはロードの生活をするバンドだった。新しいアルバムが出ていようがいまいが、常にツアーしていたんだ。あのアルバムをレコ―ディングしたのは冬のことだったから、1971年の11月から12月にかけての時期ということになると思う。それが翌年の3月にリリースされているわけだから、時間的には順当だよね。すべての準備を整えるまでに1~2ヵ月は必要になってくるわけだから。ただ、あいにく当時のことはほとんど憶えていないな。実は今、俺は本を書こうとしているんだけど、そのための唯一の参考資料になっているのが、これまでにやってきたすべてのギグのリストなんだ。そのリストを見ながら、いつ、どんな曲をプレイしていたのかを確認して教えてあげることは可能だけど、実際にそれを憶えているわけじゃないから即答はできないしね(笑)。ただ、『マシン・ヘッド』にまつわるエピソードがひとつある。1971年のアメリカ・ツアーが終わる頃、俺はニューヨークで新しいベースを手に入れた。モノトーンのリッケンバッカーで、見栄えがとても気に入ったんで買ったんだ。素晴らしかった。当時の俺たちは大成功してはいたけど、まだまだ金はなかったし、あちこちから借金をしていた。そこで俺は節約のために、イギリスへの帰国にあたり、税関に実際の購入額よりも低い価格で申告したんだ。実際にそれをニューヨークからロンドンに持ち帰ったのは当時のロード・マネージャーだけどね。で、俺自身はニューヨークに延泊していたんだけど、帰国後の彼から連絡がって「君のベースは税関で押収され、俺は逮捕された」と言ってきたんだよ。「なんだって?」という感じだった(笑)。要するに申告額の不正がバレてしまったんだな。そして翌日に帰国の途に就くと、今度は俺自身が逮捕されることになった。当時はかなり厳しくて、警察も不正行為をした人間を見つけることに躍起になっていたんだ。取り調べは、まるで映画のワンシーンのようだったよ。机の前に座らされて、ひたすら尋問されたんだ。最初のうちは「何が起こったのか、さっぱりわかりません」と言い張っていたんだけど、しまいには認めざるを得なくなった。すると先方が、「裁判所に行ってください。あなたは起訴されます」と言ってきたので、それがいつになるのかを尋ねてみると、1ヵ月後ぐらいになるだろうという回答だった。そこで俺が「実は2週間後にヨーロッパに行ってアルバムを作ることになっているので、それは無理です。あのベースはどうなりますか?」と尋ねると「渡すわけにはいきませんね」と言われたので、俺は「そんなはずはないでしょう!何か手があるはずですよね?」と食い下がった。すると「わかりました。ではこの金額を支払ってください。それによってローディも解放されます」と告げられたんだが、そこで提示されたのは、なんとベースの購入額の2倍ほどにあたる金額だった(笑)。結果、それを払うことで楽器は俺の手元に戻ってきた。そしてその新しいベース持参で2週間後にスイスに向かい、例の場所での火事の後、別の場所に再集結して作業をした。あの時、その新しいベースで最初に弾いた曲が、のちに「スモーク・オン・ザ・ウォーター」となるものだったんだ。



──あの曲については歌詞にも綴られている火事の話ばかりではなく、そんな逸話もあったんですね。そして今回収録のもう一方のライヴ音源は、その約1年前にスイスのモントルー・カジノで行なわれた公演の際のものです。この時の想い出は何かありますか?

ロジャー・グローヴァー:確か、あのカジノでレコーディングしようと決める前に、2回ライヴをやっていたと思う。ちなみにそのライヴ音源は、そもそもはブートレッグ同然だったものだ。当時の俺たちのライヴはよく勝手に録音され、海賊版として出廻っていた。もちろん俺たちはそれを承認していたわけじゃない。音のクオリティも悪いし、なにしろ違法だったからだ。ただ、あの音源はどこかのファンが所持していたものだったはずだけど、世に出回っていないものだった。今回のエディションに含まれているのはそんな音源なんだ。当時のことで憶えているのは、モントルーに滞在中ということでスイスっぽい演奏をしてみようじゃないかという話になり、ヨーデルみたいなのをやったことだ。あのステージは楽しかったね。そのヨーデル的な部分についてはリハーサルなんかせず、あくまでその場の判断でやったものだった。その後でライヴがどうなったかはよく憶えていないけどね。

──結果的にはそのカジノが火事になり、アルバムはモントルー市内の別の場所で録音されることになりました。そもそもモントルーで録音しようと思ったのは税金対策だったというのが定説になっていますが、それは事実ですか?

ロジャー・グローヴァー:俺たちがマネージメントに言ったのは、ライヴ・サウンドをとらえるために、スタジオではなく会場でレコーディングしたいということだった。俺たちがコンサートでの演奏時に慣れ親しんでいたライヴ・サウンドを、スタジオでは出すことができずにいたからだ。つまり、スタジオとライヴ双方の良さをミックスさせたいと考えたわけだよ。するとマネージメントが「ところでヨーロッパ大陸でレコーディングすると、イギリスに税金を納めなくていいってことがわかった」みたいなことを言ってきた。だから詳細については憶えていないけど、節税が動機の一部にあったことは確かだ。そうした経緯がなければイギリスから出ることなくレコーディングしていたことだろう。そのほうがずっとラクだっただろうからね(笑)。



──このアルバムに収録されている全7曲は強力なものばかりですが、こと「スモーク・オン・ザ・ウォーター」と「ハイウェイ・スター」はロック史に名を刻むものとして認識されてきました。後者の制作背景についてはどんなふうに記憶していますか?

ロジャー・グローヴァー:「ハイウェイ・スター」は、実際のレコーディング以前に少しばかり試してみた数少ない曲のうちのひとつだ。バスの中で生まれたんだ。確か、イギリス南部のポーツマスに向かっていた時で、とあるジャーナリストがライヴ評を書くために同行していた。そしてバスが走っていく中、彼がリッチー(・ブラックモア)に向かって「あなた方の曲作りの仕方を教えてください」と言うと、ギターを手にしたリッチーは「ガガガガガ」とリフを弾き始めてね。それが忘れられなかったんで、その日の晩、俺たちはそのリズムを元にジャムったんだよ。それが結果的にあの曲になった。もちろんソロと・パートかは後から加えたものだ。当初はあのリズムしかない状態だったけど、化ける見込みを感じていたってことだろうな。そうやって生まれたのち、きちんとアレンジし直して曲として仕上げたのは、モントルーに行ってからのことだったと思う。

──『マシン・ヘッド』というアルバム自体、ディープ・パープルの代表作になるのみならず、ハード・ロックの代名詞的な1枚となり、そのカテゴリーについて説明するうえで不可欠なものとなりました。そうした事実についてどう感じていますか?

ロジャー・グローヴァー:驚いていると同時に、畏れ多いことだと思うね。不思議なものだ。あれは当然スタジオで作られたものだけど、そのスタジオに居合わせなかった者はそれまで誰も聴いたことがなかったわけだよ。ところがそれが完成してリリースされると、作品自体が他のみんなのものになっていった。不思議な気分だったよ。何を思おうとも、そこで手放さないとならないんだからね。「もしかしたら別のミックスの仕方があったかもしれない」とか「違うリズムにすべきだったのかもしれない」などと思うようなことがあったとしても、世に出てしまえばもうすべてが手遅れなんだ。するとそれは俺たち自身のものじゃなく、公共財産のようになっていく。すべては他の人たち次第で、俺たちにはどうしようもなくなるんだ。象徴的なアルバムとされるものは、作ろうと思って作れるものじゃない。「世界を支配する曲を作ろう!」なんて考えてみたところで、それは所詮、不可能なことだ。しかも俺たちは。そもそもそうした野望や目的のために曲を作るわけではなかった。ただ単に、音楽で自分たちを表現したいから曲を作っていただけなんだ。だからまあ、俺はこのアルバムについてとても満足しているし、今もこれをやり続けていることについて絶えず驚きを感じているよ。



──ところで、この作品を『マシン・ヘッド』と命名したのはあなただったそうですね。どのような経緯から思いついたものだったのでしょうか?

ロジャー・グローヴァー:俺は、タイトルを決める係なんだ(笑)。『ファイアボール』というアルバム・タイトルも俺のアイディアだった。このアルバムについては「どういうタイトルにしよう?」と思った時に、たまたまベース・ギターを目してね。machine headというのは、ギターをチューニングする部分(=ペグ)を指しているんだ。その瞬間、これは素敵なフレーズだなと思ったんだ。それ自体にはタフな響きがあるうえに、意味的には曖昧さもある。そこで、この言葉をアルバム・タイトルに掲げようということになったんだ。他のメンバーたちも承知してくれたしね。

──なるほど。それで、ジャケット裏にベースのヘッドが写っているわけですね?

ロジャー・グローヴァー:その通り。ただ、そこでの唯一の問題は、裏ジャケ用に撮った写真のベースがフェンダーのプレシジョン・ベースだということ。俺が実際にアルバムで使ったのはリッケンバッカーだったから、そこはリッケンバッカーにすべきだった!

──それは悔いが残りますね(笑)。5人の顔が歪んだ写真が用いられたアートワークのデザインは、どのようなところから思いついたのでしょうか?

ロジャー・グローヴァー:それについては憶えていないんだ。カメラマンのアイディアだったのか、バンドの誰かによる発案だったのか。ちょっと確信がないな。

──いつか思い出した際には教えてください。あなたは絵も描かれますよね?絵画と音楽活動を並行することでの相乗効果みたいなものもあるのでしょうか?

ロジャー・グローヴァー:もちろんだとも。クリエイティヴな人間には、そうしたすべてに結び付きがあるものだ。自己表現の方法を見つけるためのフラストレーションは、画家や彫刻家だろうと演奏家や役者、詩人だろうと、同じプロセスを持っているんだ。だからすべてが結び付いていると俺は考えている。とはいえ、確かに俺はアートカレッジに通ってはいたけど、自分にとって絵画は趣味であり暇つぶしのようなものなんで、それほど真剣に取り組んでいることではない。絶えず音楽に取り組んできたから、絵画に向き合う時間もさほどないしね。だから自分がやっているクリエイティヴな行為という意味で双方は関連性があるけど、それが作品としての結果に繋がったりはしていないと思う。

──当時、このアルバムを作った時は、まさかのちに歴史的名盤とまで呼ばれることになるとは想像していなかったはずですが、実際、楽曲の組み合わせから曲順まで、すべてが完璧に噛み合っているように思えます。こうした作品が生まれ得た理由はどこにあったと考えていますか?

ロジャー・グローヴァー:時間不足をはじめとするさまざまな課題に直面していた俺たちは、とにかくいつも当面の作業を終わらせようと必死だった。だから、いつも物事がすごく早く進んでいったんだ。そこが鍵だったと思う。仕事が早く進むと、途中で立ち戻ってあれこれぐだぐだと考えたり、手を加えてもっと良くしようとしたりする暇もない。だからいつも、作りっぱなしの状態で作品が世に出た。常にスポンテニアスで生々しかったんだ。しかもそうしたレコーディングの仕方は昔も今も同じで、全員がひとつの部屋に集まってやってきた。ひとりひとり個別に作業するんじゃなく、いつだって全員一緒にプレイするという前提だった。このバンドのフィーリングはそこから生まれてきたんだ。実際、このアルバムの頃もそうだったし、1曲について1テイクしか2テイクしか録らなかった。「ハイウェイ・スター」の冒頭では、プロデューサーのマーティン・バーチが「テイク2!」と言っているのが聞こえる。それ自体、作業がとても早かったことを裏付けているよね。そうしたスポンテニアスな作業のあり方により、各曲に生命が吹き込まれたというわけだよ。

──今日は興味深いお話の数々をありがとうございました。最後に、今回のリイシューを機にこのアルバムと改めて向き合うことになる日本のファンにメッセージをいただけますか?

ロジャー・グローヴァー:実を言うと、俺たちには日本に対してかなりの恩があるんだ。というのも、当時ライヴ・アルバムをレコーディングしたいと言い出したのは日本のレコード会社だったからだよ。正直な話、俺たちとしてはやりたくなかった。さっきも言ったように、あの頃はさんざんブートレッグが出回っていたからうんざりしていて、ライヴ盤なんか作りたくないというのが本音だったんだ。だけどそこで日本の会社側が「いや、是非とも!」と熱心に働きかけてきたからこそ『ライヴ・イン・ジャパン』を作ることになった。俺たちとしては、それがたいしたものになるとは思っていなかったし、ただ単に予算を消化するだけのアルバム程度にしか思っていなかったんだけど、それが結果的に『メイド・イン・ジャパン』として世界で持て囃され、重要性の高さという意味においては『マシン・ヘッド』にも匹敵するものになった。あのライヴ・アルバムのおかげで、このバンドの人気が世界中で爆発したんだ。それ以前から俺たちはビッグではあったけど、あれを機に超ビッグになったんだ。同時にそれは解散するにはうってつけのタイミングにもなり、実際、俺やイアン・ギランは辞めることになったわけだけどね!(笑)

取材・文◎増田勇一
Photo:Didi Zill



◆『マシン・ヘッド:スーパー・デラックス・エディション』サイト
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