【地獄の真相】KISSはキッスではなくキスだった?

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『ミュージック・ライフ』誌の1975年8月号に「きみの…魂への…ヘヴィ・キッス…。」というキャッチ・コピーが躍った広告が掲載されている。当然ながらキッスの作品の発売告知である。当時の日本での発売元はビクター。キッスの所属するカサブランカ・レコードの国内での発売権を同社が獲得し、その第1弾としてキッスとファニーの作品が1975年7月25日に発売されることになったのだ。

◆キッス画像

キッスのわが国での最初のリリース・アイテムが第3作にあたる『地獄への接吻(DRESSED TO KILL)』になったのは、そうした契約上のタイミング的理由からでしかない。ちなみに当時のLPの価格は2,200円、同時発売された「ロックン・ロール・オール・ナイト」のシングルは500円となっている。

日本におけるキッスの初代担当ディレクターを務めた横田晶氏は、当時の状況について、次のように語っている。

「カサブランカというレコード会社からは、のちにドナ・サマーやヴィレッジ・ピープルが出てきて、ディスコ・ブーム到来とともに大成功するんですが、当時はキッスとファニーぐらいしか有望株がいなくて、あとはいくつか新人が所属している程度だったんですね。しかも当時のビクターはソウル・ミュージックに力を入れていて、『ミュージック・ライフ』にもソウル特集を組んで欲しいとお願いしていたくらいなんです。そんな状況下でカサブランカと契約することになったのは、正直、さほど高額な契約ではなかったからというのもありますが、わざわざ日本にやってきたニール・ボガート(故人/同レーベルの設立者)が非常に熱心で情熱家だったからでもあると思います。ただ、同時期にビクターはキャプリコーン・レコードとも契約をしたんですね。ちょうどその時期、ロックを担当できる洋楽ディレクターが僕ともうひとりしかいなくて、これまた正直に白状すると、2人とも当初はキャプリコーン担当を志願したんです。そこで、じゃんけんで負けた僕がカサブランカ担当になったんですが(笑)、結果的には負けて良かったなと思っています」

前述の広告には、日本の洋楽界における第一人者というべき音楽評論家、故・福田一郎氏による推薦文が掲載されている。『ニューミュージック・マガジン』にすでに掲載されていた輸入盤紹介記事からの引用なのだが、そこに含まれている「実力はたいしたことはないだろうと喰わず嫌いをしていたのだが、このアルバムを聴き返してみて、歌、演奏ともに相当なものという事実を発見して、いささか不明を恥じている」という一文が、当時のキッスに対する世の認識を物語っている。横田氏は、次のように振り返っている。

「当時の評論家たちは、キッスやファニーよりも、キャプリコーンに所属しているような、いわゆる本格派アメリカン・ロック・バンドを好む傾向にあったんです。福田先生についてもそれは同じでした。当初は『地獄への接吻』のライナーノーツも福田先生にご依頼するつもりだったんですね。ところが三回ほど足を運んでお願いしたにもかかわらず、断られてしまい……。先生はジャイアンツの大ファンだったので、野球の話題を肴にしながら話をさせていただいたんですが、それでも駄目でした(笑)。ただ、すでに書かれていた記事の一部を推薦文として広告に使うことについてはご了解くださったんです。正直なところ、当時は僕自身も含めて、キッスがあれほどの人気バンドになるとは誰も信じていなかったと思います。むしろ女性4人組のファニーのほうが売れるんじゃないかと思っていたんです。女性ロッカーとして人気のあったスージー・クアトロのお姉さん(パティ・クアトロ)が在籍しているという話題もあったので」

そのファニーのアルバム『ROCK AND ROLL SURVIVORS』には『悩殺の美獣』という邦題が冠せられている。『地獄への接吻』対『悩殺の美獣』。横田氏の名前は実際、当時からのキッス・ファンの間ではこうした邦題、すなわちキッスにおける“地獄シリーズ”の生みの親として認識されていることだろう。しかし実のところ、その“地獄シリーズ”をスタートさせる以前に“KISS”というバンド名が問題だったのだという。

「当初、バンド名の日本語表記は普通に“キス”となるはずだったんです。ところが当時の日本では、いまだに“キス”という言葉は依然として淫靡な響きを伴っていたというか、バンド名として広く打ち出すには少しばかり無理があったんですね。そこで“キッス”という表記にして差別化を図ったんです。なにしろ当時、日本でのリリースを記念して、確か『週刊プレイボーイ』との合同企画で“長時間キス・コンテスト”みたいなことをやることになったんですけど、応募者があまりにも少なくて(笑)。人前でキスをするようなことが、今よりもずっとはばかられるような時代だったわけですね。もう時効でしょうから言ってしまいますが、そのコンテストにはいわゆるサクラを仕込まなければなりませんでした(笑)」

そして横田氏は、例の“地獄シリーズ”については「むしろラッキーだった」と振り返っている。

「日本では3作目からのリリースということになったじゃないですか。その前に出ていた2作目の『HOTTER THAN HELL』には、あらかじめジャケットに『地獄のさけび』と印刷されていて。つまり日本でのリリースが決まっていないにもかかわらず、最初から邦題が付いていたわけです。だから迷うことなく“地獄シリーズ”を始めることができたんです。そもそもニューヨークを拠点としていたこともあって、バンドの界隈に日本に詳しい人間もいたんでしょうし、日本びいきなところもあったんでしょう。1977年に初来日したときも、メンバーをはじめ、ロック・ステディ(当時の所属マネージメント)のスタッフなんかがみんな日本語の名刺を持っていたくらいですから(笑)。それから“地獄”という言葉をタイトルに使うことについて、レコード会社的には特に支障はありませんでした。むしろ、“SHOUT IT OUT LOUD”のシングルに“狂気の叫び”という邦題をつけたときのほうが問題になりましたね。ラジオ・プロモーションの担当者から“民放ではOKだけど、このタイトルだとNHKではかけられないものと思っておいてくれ”と言われたのを憶えています。僕が手掛けてきたオリジナル・アルバムのうち“地獄”を使わなかったのは『ラヴ・ガン』だけですが、あのときはカサブランカとの契約がそろそろ切れるんじゃないかという前提があったのと、いい加減、言葉が出尽くしつつあったというのもあります。あとは何よりも、原題がシンプルで強烈過ぎた。まさか『地獄のラヴ・ガン』とするわけにもいかないじゃないですか(笑)。最新作の『MONSTER』の邦題は『地獄の獣神』というんですか? いいじゃないですか! 僕がファニーの邦題で使った“美獣”よりもずっといいと思いますよ(笑)」

この言葉に、ほっと胸をなでおろした現担当者の安堵の表情を横目に、話は当時のキッスのすさまじい人気にまつわることへと移っていく。こちらについては、次回をお楽しみに。

取材/文:増田勇一
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