【インタビュー #5】大田紳一郎、doa15周年と波乱万丈な音楽履歴「やっぱり歌いたいんでしょうね」

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メジャーデビュー15周年を迎えるdoaが、夏、秋、冬の3期に分けて三作のベストアルバムをリリースした。当初、オフィシャルサイトにて実施した『doa 15th Anniversary BEST SONGS リクエスト投票』だが、予想をはるかに上回る投票数と音楽的に多岐にわたる上位楽曲の結果を受けて、三部作としてリリースされることが決定。リクエスト上位曲から“ROCK” “MIDDLE” “BALLAD”をメンバー自身が選曲、『doa Best Selection』は、それぞれ19曲という大ボリュームのベストアルバムとして届けられた。

◆doa 画像

BARKSでは、doaの15年間を紐解くヒストリー前編と後編をはじめ、メンバー個々の背景に迫る単独インタビューを実施中だ。全5本のインタビューから、“3ボーカル”という道なき道を歩んできた彼らの軌跡を辿り、彼らの向かう先の光をみつめる特集の最終章は、大田紳一郎のパーソナルインタビュー。doaには一番最後に加入したメンバーであり、doa結成後もB'zや稲葉浩志、ZARDのサポートメンバーとしてギターやコーラスを務めてきた。

サングラスとベルボトムというロックなスタイルをトレードマークに、ハイトーンを響かせるボーカリストでありギタリスト。1992年にBAADのギタリストとしてデビューし、TVアニメ『SLAM DUNK』第1期オープニングテーマに起用された3rdシングル「君が好きだと叫びたい」はヒットを記録。その後は前述のB'zやZARDのサポートメンバーに抜擢されるなど、 華々しい音楽人生を歩んできたように思える大田紳一郎のロングインタビューは、詩吟を学んだ少年時代や水泳に明け暮れた高校時代をはじめ、知られざる過去が明かされるものとなった。

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■小学校の頃から詩吟をやっていたので
■何回か舞台に立って歌ったことも

──7月14日から始まったツアー<doa 15th Summer Live “open_door” 2019>はいかがでしたか?

大田:ベストアルバム三部作から、『doa Best Selection “ROCK COAST”』をフォローするツアーだったので、毎回ロックなライブだったんですね。最初から最後まで飛ばしていくという。だから、メンバーによってはかなりキツかった人もいましたね……まぁ、僕自身ですけど(笑)。ファンも僕らと同年代の方々が少なくないので、ツアー前は“ロック色の濃いライブはどうかな?”という懸念があったんですよ。でも、皆さんすごく楽しんでくれました。昔からの曲を追う内容だったから、1曲1曲に対する反応も熱いし。古い曲を演奏すると、僕らもそうだけど、お客さんも若々しい気持ちになっていくみたいですね。毎回すごく盛り上がって汗だくのツアーになりました。

──ファンの皆さんに、楽しさや活力を与えるツアーになっていることを感じます。では、本題の大田さんの話に。大田さんは愛媛県の出身ですが、幼少期はどんな環境で育った、どんな子供でしたか?

大田:姉と妹に挟まれて、その真ん中に生まれた男だったんですよ。親父が詩吟をやっていたこともあって、僕も小学校の頃から詩吟をやっていたので、何回か舞台に立って歌ったこともあります。

▲doa

──では幼少期からステージで脚光を浴びていた?

大田:地元の秋のお祭りに、鹿のお面を被って踊る“鹿踊り”という伝統的な出し物があるんですよ。7人踊るうちの2人が子供なんですけど、小学校1年生のときから、5年生まで毎年選ばれていました。今は規模が小さくなってしまったけど、当時は町中の人が集まるようなお祭りで、町内100何ヶ所を鹿のお面を被って太鼓を叩きながら踊って、歌ってまわるんですよね。だから、振り返ると、子供の頃から人前で歌っていたんですね。

──となると、性格もオープンでした?

大田:いわゆるガキ大将というか、リーダー系というか、傲慢なヤツでした……恐らく(笑)。地元の小学校は1学年1クラスしかなくて、1年生から6年生まで、ずっと同じ顔ぶれの30人なわけですよ。だから権力抗争が勃発することもなく(笑)。ただ、ドラえもんでいうところのジャイアンみたいなやつだったわけではなくて。陸上とか球技、自転車とか運動が得意だったんですよ。その中でも一番得意だったのが水泳で、4年生のときに5年生の競技に出たり。運動が得意で活発な子供だったし、勉強もそこそこできた。だから、児童会長や運動の代表には、必ず僕が選ばれていたんです。

──詩吟をやっていたということですが、音楽やロックに目覚めたのは?

大田:姉がバンドをやっていて、家に全く使っていないガットギターがあったんですよ。それを中学1年生の時から弾くようになったので、音楽に興味を持つようになったのは、その頃ですね。最初は雑誌『明星』や『平凡』に付いてくる歌本を見て、五輪真弓さんの「恋人よ」とかを弾きながら歌ったりしていました。ギター初心者ってEmやAmとか、簡単なコードしか押さえられないから、どうしても暗い曲を選んでしまいがちですよね(笑)。それからすぐに、マイケル・シェンカーやレインボーとか1970年代後半から1980年代初頭のハードロックも聴くようになって、ピックでガットギターを弾いていました(笑)。うちの町は楽器屋がなくて、宇和島市まで行かないとピックが買えなかったので、下敷を切った自作ピックでしたけど(笑)。

▲ベストアルバム第3弾『doa Best Selection “BALLAD COAST”』

──当時はそういう人が多かったですよね(笑)。その頃にバンドを組むわけですか?

大田:水泳部の先輩方がバンドで文化祭に出ていて、カッコよかったんですよね。僕も「サザンオールスターズをやろう」って友達とバンドを組んで、「学園祭で演奏させてください」と校長室で直談判したんですけど、それが大問題になりまして(笑)。結局、学園祭でバンドはできなかったんです。

──ええっ? 先輩は学園祭でバンドをやっていたんですよね?

大田:うちの中学校はフォークはOKだったんですけど、ロックはダメだったんです(笑)。

──すると、本格的にバンドをやるようになるのは高校生になってからでしょうか?

大田:いや、高校も水泳部が忙しかったんです。高校に入ったらインターハイにいくという目標があったから、人生の中心が水泳だったので。結果、3年のときに400mリレーでインターハイにいくことができて、本当に嬉しかった。バンドは高校時代もやっていたけど、どちらかというと当時の印象は水泳のほうが濃いですね。ただ、高校の学園祭ではバンドをやりました。

──おっ! それはどういう?

大田:THE ALFEEのコピーバンドですね。学園祭でバンドをやるのは中学の頃からの夢だったので、僕が友達に「お前ベース。お前はボーカル」って言って無理やりメンバーを集めて、実現したんです。僕はギターで高見沢さんの曲を歌いました。

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