【コラム】「さよなら人類」から30年、ネット音楽世代が聴く“たま”

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DVD『たまの最期!!』より

うどんを食べるたび、頭の中にヒガシマルうどんスープのCMソングが流れ出す。歌っているのは知久寿焼。たまのメンバーとして下駄履きとおかっぱ頭でお茶の間デビューした彼も今や50代後半、輝く笑顔に欠けた前歯がチャーミングな素敵なおじさまとなっている。


この頃、筆者の周囲で20代若者によるプチたまブームが起こっている。「何故いま、たま?」と疑問に思うかもしれないが、現在の20代が子どもの頃といえば、ちょうど知久がNHK教育テレビで幾つもの楽曲を手掛けていた時期。彼の活動歴を調べ、そこに並ぶ子ども向け番組名を見て「あの歌声は……!」と感動を覚えた若者は少なくない。

たまは伝説的オーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』の出演をきっかけに、奇抜なビジュアルと音楽で一世を風靡した4人組バンドである。1995年にヒット曲「さよなら人類」を歌った柳原幼一郎(Key)がソロ活動への専念のため脱退した後は3人でバンドを継続し、数々の舞台音楽やCMソング等も担当。2003年に解散した後も知久寿焼(G)、石川浩司(Perc)、滝本晃司(B)は互いのライブに参加したり、時折3人集まって演奏したりしている。

そんな彼らについて、当時の雑誌や番組の録画などを見せてもらうことがある。すると、びっくりするほど「面白いもの」扱いである。いやまあ確かに人は見た目が9割と言われるから、独特なビジュアルとパフォーマンスによってイロモノ系としてしか見れなくなった方が多くても不思議ではない。

だが、ちょっと待ってくれ。このバンドで最も注目すべき所って、豊かな音楽性とハイレベルな演奏技術の筈だろう。彼らは“音楽”がめちゃくちゃ上手い。オーパーツ的に上手い。コミックバンド、イロモノという評価を演奏でねじ伏せられるほど上手い。これはもっと語られて然るべきではないか。


まず、たまが初めてお茶の間に向けて披露した楽曲は知久が歌う「らんちう」だった。しかしこちらは紛れもなく日本ポップス史上稀に見る怪曲。イントロの「いよォ~!」という掛け声をはじめ、雰囲気は和風だが普通に西洋音階という文部省唱歌スタイル、雄叫びや打ち鳴らされる桶、胡散臭い語り、何とも形容し難い派手な歌声と、どこを切り取ってもぶっ飛んでいる。

そんな楽曲を、たまは完璧に演奏する。考えてもみてほしい。こんなに奇妙な楽曲を理解して「よし、バンドでやろうぜ」と取り掛かり、ここまで寸分の隙も無いアレンジを作り出せるメンバーが揃ったバンドなんて、たまの他に何があるというのか。この世にオリジナル以上の編曲が存在しない作品が3つあるとすれば、それは「天国への階段」「ボヘミアン・ラプソディ」、そして「らんちう」だろう。まあ弾き語りアレンジも凄いんだが。2行で矛盾してしまった。


バンドは裸一貫の共同作業なので、「共通する理想の音楽を追い求める集団」であることが多い。たまと同じく『イカ天』に出演した人間椅子やBEGINなどはわかりやすい例で、サウンドを聴けば進みたい方向性がハッキリ見える。

しかし、たまはバンドとしての目的地が見えづらい。彼らは「独特な音楽性を持つ4人のシンガーソングライターが身を寄せ合うバンド」であり、ルーツや音楽的趣味嗜好は各人バラバラ。一方、「売れ線ポップスではない音楽を作る」という所では共感していて、現代詩っぽい歌詞作りや、サウンドを緻密に組み上げることを好む。

これは各々が別の職業に就きつつ、家事や生活の面で協力しあう同居人の関係のようだ。ハウスルール(大まかな方向性)がありつつも、同居人の職業(個人の音楽性)は深く干渉しない。生活(サウンド)面では互いが快適に暮らせるよう気を配り、時折全員でアイデアを出し合って同じことを楽しむ。

そうして作られたサウンドには隙が無く、演奏面では要求が多いためにハイレベル。楽曲にはメンバー同士の程良い距離感と尊敬が感じられ、曲ごとにジャンルが変わる。適切な距離感がなければ、世界観が全く違う「海にうつる月」「おなかパンパン」「かなしいずぼん」「オゾンのダンス」等は同じバンドに同居できない。

さらに、たまメンバーは引くべきところで引くことも上手い。一度聴いたら忘れられない希代の歌声を持つ知久も、滝本の楽曲のコーラスでは甘く静かに振舞う。石川はステージでの存在感こそ抜群だが、サウンド面で余計な音は一つもない。


音を減らすことも躊躇わず、楽曲中にベースとヴォーカルだけの部分を作ったり、最大の盛り上がり部分で打楽器を抜いたり、パーカッションをタム1つにしたりと、変則的な音の重なりもよく使う。コードもおおむね簡単で、2~3個しか使わない曲もしばしば。

バンドサウンドは派手にすることよりも、薄いものを作るほうが難しい。厚くするにはテンプレートがある一方、減らす方にはそういうものが無く、ついでに個々の技術も露わになるからだ。楽器歴数ヵ月の学生バンドがパワー系の曲をやりがちなのはそういう理由で、筆者の知人のバンドは何年も「リンダリンダ」ばかり弾いていた。

また、たまは全員がマルチプレイヤーなので、曲によって楽器構成が変化する。「海にうつる月」はピアノとオルガンのダブル鍵盤楽器、「満月小唄」などはツインギター。「レインコート」「オリオンビールの唄」等ではマンドリンが活躍し、ライブでは演奏中にも楽器を持ち換える。

コーラスでも、声質の違いを活かして適材適所のハモりを作る。ナチュラルにオクターブを作れるのは大きな強みだが、組み合わせによって音の印象が変化するのも面白い。大人と子ども、女性と男性、勇壮な男声コーラス、胡散臭い煽り等々。演劇性もきわめて高く、それらをフル活用した「かなしいずぼん」は曲構成が単調であることを全く感じさせない。


と、ここまでいろんなことができるんだから、そりゃあ音楽の幅が広がるというか、1曲1曲が別のバンドみたいに聞こえるわけである。だがそれ以前にこのバンド、楽器の役割に対する考え方が根本的に他のバンドと違う気がするのだ。

通常のバンドはドラムとベースのビートを基礎に、ハーモニーやメロディを積み上げていく。しかし、たまでは楽器固有の役割が薄く、「この楽器の音を使って、どこでどういう動きをするべきか」ということが楽曲ごと・部分ごとに探られている。たまのサウンドは掛け算ではなく掛け合いで、それゆえ「音楽の中で楽器や歌声が遊びまわっている」印象が作られる。

そもそも、多くのバンドで低音と打楽器は「リズム隊」と呼ばれてリズムキープ要員だが、たまのベースとパーカッションって、リズムをキープしてるのだろうか。いやもちろんキープしている曲はいっぱいあるんだけど、特にベースは「リズムを作る」よりも「ヴォーカルやギターに寄り添う」動きのほうが印象にある。

ツインギターの曲では、ベースの独特な動きがより顕著となる。リードギターの補強に回ることもあり、「夕暮れ時のさびしさに」ではほぼユニゾン。キメどころのおいしいところも持っていく。後期にはベースレスの楽曲も多いが、違和感や不足感は全然ない。これは「ベースで地盤を作る」ことより「ベースの音を楽曲に組み込む」音作りをしていたからだと思う。

パーカッションも常時テンポキープしているわけではなく、メロディや歌詞にあわせて装飾的に動く。ビートを刻むこともあるが、それは「この曲には淡々としたプレイが必要だから」という印象。石川のパーカッションはバンドのアイデンティティを作って華を添えるものであり、テンポとリズムは全員が牽制し合いながらキープしていく。


音楽の心臓部分はギターと鍵盤が担う。ギタリストとしての知久は裏方に徹するプレイも巧みにこなす万能型のテクニシャン。テクニックの引き出しが多いことはもちろん、音色・音量のコントロールが抜群で、1音1音に意識が行き届いている。シンプルなストロークも輝くように鳴り、サウンドの中ではバックからリードまで縦横無尽に動く。

そのギターが届かない隙間を埋め、弦楽器特有の“縦ノリ”を横に流すのがキーボードだ。たまの鍵盤は主に伴奏的で、サウンドの密度を上げるために機能する。柳原はそれぞれの楽器の特徴を活かし、音色や演奏で音楽の性格や世界観を作っていた。同じアコーディオンを使う曲でも「らんちう」「星を食べる」では大きな違いだが、アコーディオンの有無で受け手が見る風景は全く変わる。柳原の演奏は背景美術のように機能し、時にテクニックを爆発させて、楽曲の世界観を引き立てる。


こうやって整理していくと、たまを聞いたときに感じる「音の面白さ」の正体がわかる。彼らは「楽曲そのもの」を下絵として、モザイクアートのようにサウンドを組み上げるのが上手い。全ての楽器を等しく扱い、「楽器の役割」ではなく「曲の中での役割」を曲ごとに探る。曲に合わないと思えば身を引く。この手法はオーケストラ的なもので、そう思えば色とりどりの楽曲が生まれる理由も見えてくる。

そして何より、たまのメンバーは「面白いことをするための努力」を惜しまない。石川の演劇的なパフォーマンスも、知久の緻密な演奏も、滝本の独特なベースラインも、柳原のアドリブと遊びを入れまくる演奏も、全ては努力の賜物だ。古い音源を聴けば、たまは結成からデビューまでの数年で技術力が爆上がりしていることがわかる。これは自分の、そして仲間たちの理想の音楽を実現するため、互いに腕を磨き合った成果に思える。

たまの楽曲は本来ブレイクやテンポの変化が多く、あんなに余裕綽々で遊びを入れつつ演奏できるものではない。このバンドを尊敬する音楽関係者が多いのは、彼らの技術の高さとそこに至るまでの練習量を理解しているからだろう。才能だけでは、こういった演奏はできない。技術とセンスに裏打ちされた型破りな音楽は、多くの人が「こんなふうに演奏できれば」「こんなに自分の音楽を理解してくれる仲間がいれば」「こんなサウンドが作れれば」と羨むもの。だから彼らの音楽は若いミュージシャンを惹き付けるのかもしれない。


さて、『イカ天』の放送が終了して30年以上経つこの頃、音楽はハイレベル化が進んでいる。音作りの知識にはアクセスしやすくなり、宅録の技術も向上。演奏技術は右肩上がりで、打ち込みも生楽器と判別がつかないほどとなり、演奏者が足りなくても編集ソフトと知識があれば何でもできるようになっている。

そんな中でミュージシャンを志す学生たちは、数段飛ばしに米津玄師やヒャダイン、アヴィーチーやビリー・アイリッシュになりたがる。しかし「華やかに聴かせる方法」ばかり覚えても、それはプレゼントの箱ばかり集めて中身が無いようなもの。技術や知識は「自分の表現したいもの」に辿り着くための手段に過ぎないということを忘れてはいけない。

表現したいものがあれば、人は鍋を叩いてでも歌い出す。その主張が魅力的であれば仲間が集まりだし、やがて自分たちの理想を叶えるために腕を磨いて、輝かしい音楽を作り上げて行く。そうやって生まれたひとつのバンドは、拾った太鼓を叩いて歌うところから始まり、時代の風に乗って紅白出場や海外公演まで果たし、やがて小さな構成に回帰しながらも音楽性を広げ、やれることをやり尽くし、大団円で解散の時を迎えた。

“しょぼたま”の丸裸のサウンドを聴いていると、音楽を作りたいという想いの前にはどんな言い訳も通用しないことを痛感する。オモチャと日用品を叩き鳴らして華麗なワルツを仕立て上げる彼らの姿は、音楽のひとつの到達点だ。そのサウンドやパフォーマンスには、今日の完璧な音楽に慣れた私たちが学ぶべきものがたくさんある。

2022年現在、たまの元メンバーたちは皆現役で音楽活動を続けている。多作な柳原は2021年にもアルバムをリリース。輝かしい歌声は当時から変わらない。滝本は劇伴音楽などでも活躍しつつ渋く歌っており、フランス近現代音楽の如きメロディで言葉を紡ぐ魅力あふれるステージを創る。


石川はホルモン鉄道をはじめとする様々なユニットとソロで活動中。ライブは思いっきり笑って思いっきり泣ける。知久は寡作ながらCMソングやコラボ等活動の幅が広く、2022年には松山ケンイチ主演映画『川っぺりムコリッタ』にも役者として出演する。



石川と知久は大所帯バンド・パスカルズのメンバーとしても活躍中。同バンドは間もなく放送がスタートするTBSドラマ『妻、小学生になる。』でも音楽を担当している。2021年には原作・石川浩司、漫画・原田高夕己によるコミック版『「たま」という船に乗っていた』の連載がスタートしており、彼らの周りは今も賑やかである。

たまは19年前に解散したバンドだが、柳原を入れた4人での再結成を望む声は今も大きい。まあ「オリジナルメンバーでの再結成」はどんなバンドでも望まれるものだから、そういう声があるのは当然だろう。

しかし私は、あまり「再結成してほしい」と言いたくない。メンバー脱退によって分解してしまうバンドや、解散後に引退するアーティストも多い中、それを乗り越えて歩み続ける彼らに対する「どうして再結成しないんですか」という言葉は、軽々しく言っていいものではないと思う。

そんなことを考えながら新曲に胸をときめかせ、ライブのチケットを買う。もしいつか彼らが再び歌声を重ねることがあれば、その時はステージが見えない席でいいから、そのサウンドに耳を傾けたい。「たま現象」のときには生まれてもいなかった私にとって、それだけが願いである。


文◎安藤さやか(BARKS編集部)

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