ビリー・ジョエル バイオグラフィ

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'49年5月9日、ニューヨーク州ヒックスヴィル生まれのBilly Joel(本名William Martin Joel)は、'77年のアルバム『The Stranger』が、ソロアーティストの作品としてはコロンビアレコード始まって以来の売り上げを記録したのをはじめ、数多くの作品を生み出してきたスーパースターだ。彼はとっくの昔に音楽業界での戦いに勝ち、たとえれば、現在は戦場の後始末をしているところだ。かつては評論家から、陳腐で“ロック魂”がないと言われ、あざけりの対象だったこともあるが、'93年のアルバム『River Of Dreams』では、多方面から惜しみない賞賛をあびた。それ自体は彼にとって大した意味はないだろうが、このアルバムが彼のキャリアの中で最速の売上げを達成したこと、そして最初の3週間は悠々とチャートの1位におさまっていたことは、少しは意味があったのではないだろうか。

音楽業界で最も波乱に満ちた人生を送った、さすらいのロッカーBilly Joel。彼がレコーディングのキャリアをスタートしたのは、'60年代後期、ロングアイランドのロックグループHasslesの一員として、“Billy Joe Joel”と名乗っている頃だった。HasslesはVagrants、Young RascalsVanilla Fudgeらと同時代に活動していたバンドで、'67年から'69年の間に5枚のシングルと2枚のアルバムをリリースしたものの、どれも泣かず飛ばずで終わった。その後Joelは、元Hasslesのドラマーと2人で“パワーデュオ”、Attilaを結成する。このデュオの唯一のアルバムは'70年にEpicからリリースされたが、これもまったく売れなかった。

Billy Joelとしてのソロキャリアは、公式には'71年にスタートしている。業界の有力者Artie Rippと契約を取りつけたことにより、『Cold Spring Harbor』をRippのFamilyレーベル(配給はParamount)から出せることになったのだ。しかし、どう見てもJoelにとっては最悪の状況だった。アルバムはマスタリング時に少しスピードが速まり、彼いわく“アニメのキャラクターみたいな声”になった。さらに、版権のほとんどをRippに渡してしまうような長期契約を結んでしまい、最終的には大損害を被ることになった。

悔しさの中、Joelはロサンゼルスに向かい、今度は“Bill Martin”としてバーのピアニストを務める(そして、これが彼が最初のヒット曲、'74年の“Piano Man”を生み出すことになる)。Joelの歌う“Captain Jack”のライヴテープが、フィラデルフィアのラジオ局WMMRで繰り返しプレイされているのを聞きつけたコロンビアレコードは、彼のことを調べ、FamilyのRippと交渉を重ねた後(Rippは、その後のJoelの印税の25%の権利を得たと言われている)、遂にJoelと契約を結ぶ。

成功はあっという間にやってきた。'73年、コロンビアからの最初のアルバム『Piano Man』の自伝的なタイトル曲が、ビルボードシングルチャートの25位まで上り、まもなくアルバムもゴールドディスクを獲得。次のアルバム『Streetlife Serenade』からの“The Entertainer”もトップ40ヒットとなる。しかし、Billy Joelがセールスモンスターとなったのは'77年の『The Stranger』だ。137週もチャートに居座り、700万枚のセールスを記録したこの驚異的なアルバムは、ゴールドシングル“Just the Way You Are”をはじめ、“Movin' Out(Anthony's Song)”“Only The Good Die Young”“She's Always A Woman”といったヒット曲を連発した。つまり、このアルバムこそ、ほとんどの人にとってのBilly Joelそのものとなったのだ。時にアップビートで、時に露骨なほどロマンチックなポップアルバムとして、『The Stranger』はJoelを最高級のポップ職人、Elton Johnの流れを汲むキャッチーな曲作りの達人に押し上げた。

ここからは主に、Joelのノンストップの成功とレコードセールスの新記録樹立の物語となる。次の『52nd Street』も強力な作品で、8週間1位に居座り、『The Stranger』が決してまぐれ当たりでなかったことを証明。“My Life”“Big Shot”“Honesty”の3枚のシングルもトップ5入りを果たした。'80年代を通して、Joelはなんと20曲のトップ40ヒットを生みだし、そのうち9曲トップは10入りを果たしている。

面白いのは、彼のシングルすべてを彩る豊かなサウンドのバリエーションだ。ソングライターとして、彼は慎重にさまざまなジャンルを取り入れ、初期の“Honesty”のシンプルなポップスタイルから、“It's Still Rock 'N' Roll To Me”のロック、そして、“Uptown Girl”や“Tell Her About It”では'60年代初めのポップスにまで挑戦した。Joelはまた、当時急成長していたプロモーションビデオを活用した最初の大物シンガー/ソングライターの1人で、その後もずっとクリエイティヴにビデオを作り続けた。MTVで'80年代に最もよく流れたビデオのいくつかは彼のものである。

そうしたキャリアの中で、Billy Joelも人間としての幸福と悲しみを味わった。プライベートでは、スーパーモデルのChristie Brinkleyとの結婚が、当時は業界の中でも最も幸せな結婚と思われていたにもかかわらず、派手な失敗に終わってしまった。BrinkleyはJoelの“Uptown Girl”のビデオに出演し、'93年の『River Of Dreams』のアルバムカヴァーの絵も描いている。2人の間の娘、Alexa Rayもこのアルバムにインパクトを与えており、Joelは娘のために“Lullabye(Goodnight, My Angel)”を書いている。

もう1つ、よく報道されていたのが、何年にもわたって経済的に彼を追い込んだビジネス上の裁判である。伝えられるところによると、自主的に行なった会計監査の結果、彼のマネージャーであり、元の義理の兄弟だったFrank Weberによる何百万ドルもの使い込みが発覚し、'89年にWeberを解雇して訴訟を起こした。さらに'93年には、音楽業界で非常に有力な弁護士、Allen Grubmanと彼のニューヨークの事務所を、詐欺と契約不履行で訴えた。いくつもの利害の対立を含むこの訴訟は音楽業界でも大きな話題となったが、その年の終わりには決着する。

これらのことを除けば、『River Of Dreams』のあっという間の成功でBilly Joelの人生は順風満帆に見えた。'79年にコロンビアレコードの20世紀最大のセールスを誇るソロアーティストになった男は、威厳と、少なからぬ気品を備えて中年期にさしかかっている。次は一体何をするのだろうか? '93年の終わり頃、彼はNewsday誌のIra Robbinsのインタヴューで、ブロードウェイ進出をほのめかしている。「ブロードウェイのミュージカルをやらないかと言われたことは、過去にも何度かあったんだ」と彼はRobbinsに語っている。「でも、(The Whoの)Pete Townshendに言われて、初めて真剣にやってみようかと思った。絶対やるつもりさ」 過去の実績を考えても、彼ほどふさわしい人間はそういないだろう。

This Biography was written by Dave DiMartin

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